第2部 54話 東へ
朝から、ハヤトは一枚の地図と睨み合っていた。
テーブルいっぱいに広げたそれは、この辺りの冒険者が使うような簡素なものではない。街道だけでなく、山脈や河川、主要な町まで細かく記されている。
それでも――目的地は、ずいぶん遠かった。
「……遠いな」
思わず漏れた声に、向かいで荷物を整理していたセラが顔を上げる。
「昨日も同じことを言ってませんでした?」
「言った気がする」
「一昨日も聞きました」
「そんなに?」
呆れたように見えたセラだったが、その口元は少し笑っている。
ハヤトはもう一度地図へ視線を落とした。
ラーデンから東。
街道をいくつも越え、二つの大きな川を渡り、さらに山を一つ回り込む。
馬車を乗り継いだとしても、数日で着くような距離ではない。
もちろん、急ぐ理由はなかった。
誰かに頼まれたわけでもない。
期限があるわけでもない。
それどころか――行ったところで何が見つかるのかさえ、はっきりしていない。
ハヤトは地図の脇に置かれた古い紙へ目をやった。
何度も読み返したせいで、もう内容はほとんど頭に入っている。
東方の古い記録。
そこに、たった数行だけ残されていた記述。
――人の姿を取り、人里に暮らした竜。
最初に目にしたときは、そんな竜もいるのか、くらいにしか思わなかった。
だが今は事情が違う。
ちらりと部屋の隅を見る。
そこには――。
「ハヤト」
「ん?」
「これ、もってく?」
レグが毛布を抱えて立っていた。
人の姿だ。
小柄ではあるが、見た目だけなら二十歳前後の女性にしか見えない。けれど腕いっぱいに毛布を抱えたまま首を傾げている姿を見ると、どうにも外見との釣り合いが取れていない。
「持っていく。夜冷えるかもしれないし」
「じゃあ、いる」
納得したらしい。
毛布をそのまま荷物の山へ――。
「待ってください」
セラが止めた。
レグの手がぴたりと止まる。
「そこに置いたら、せっかくまとめた荷物が全部崩れます」
「……だめ?」
「だめです」
「そっか」
素直に引き返していく。
数歩歩いたところで止まり、
「どこ?」
「こっちにお願いします」
「わかった」
セラについて歩いていくレグを眺めながら、ハヤトは頬杖をついた。
竜。
間違いなく、レグもそうだ。
人の姿を取れるようになった今なら、古い記録との共通点は無視できない。
だからといって。
――レグの正体を知るために、何がなんでも行かなければならない。
そういう気持ちでもなかった。
レグ自身が、両親をすぐに探すことを望んでいない。
それを聞いた以上、ハヤトが勝手に答えを求めて走り回るつもりもない。
ただ。
気にはなる。
ものすごく。
「それで結局、何日くらいかかりそうなんですか?」
荷造りを終えたセラが戻ってきた。
ハヤトは地図の上を指でなぞる。
「まっすぐ行けば……二十日くらい?」
「まっすぐ行けないと思います」
「だよな」
「馬車も毎日あるとは限りませんし」
「そうなんだよ」
となれば、一か月。
寄り道をすれば、それ以上。
以前の自分なら、そんな旅程を聞いただけで少し面倒になっていたかもしれない。
仕事ならなおさらだ。
一か月後まで予定を組み、その次、そのまた次まで考える。何かを始める前に、まず終わりを決める。
そうしなければ落ち着かなかった。
けれど今は。
別に、いつ着いてもいい。
途中で面白そうな町があれば泊まればいいし、依頼を受けてもいい。
気が変われば、引き返したって構わない。
そんな旅があってもいいのだと思えるようになった。
「ハヤト、おなかすいた」
いつの間にかレグが横にいた。
「さっき食っただろ」
「たべた」
「じゃあまだ大丈夫だ」
「でも、おなかすいた」
「どういう仕組みなんだよ」
レグは自分の腹を触った。
「レグだから?」
「俺に聞くな」
セラが吹き出す。
「出発する前に昼食にしますか?」
「まだ朝なんだけど」
「じゃあ朝食の続き」
「それは朝食だろ」
「じゃあ、たべる」
「お前は何でもいいんだな」
「うん」
迷いがない。
ハヤトは思わず笑った。
――まあ。
こいつと旅をしたら、食費だけは確実に増えるだろう。
そんなことを考えながら地図を畳む。
目的地は東。
けれど、そこへ最短で向かう必要はない。
むしろ旅そのものを楽しめばいい。
「じゃ、そろそろ行くか」
立ち上がったハヤトを見て、セラも荷物を手に取る。
「忘れ物はありません?」
「たぶん」
「その答え、一番不安なんですけど」
「大丈夫だって。忘れたら買えばいい」
「そういう問題ですか?」
「そういう問題だろ」
セラは何か言いたそうな顔をしたが、結局、小さく息を吐いただけだった。
「レグは?」
「いる」
「いや、そうじゃなくて。荷物」
「もった」
見れば、小さな鞄が背中にある。
やけに膨らんでいる。
嫌な予感がした。
「……何入れた?」
「たいせつなもの」
「見せて」
「だめ」
レグが鞄を両腕で抱える。
ますます怪しい。
「食べ物じゃないだろうな」
「…………」
「レグ」
「たいせつ」
「食べ物なんだな?」
ぷい、と顔を逸らした。
セラが横で肩を震わせている。
「まあいいか」
「いいんですか?」
「自分で持つなら」
途端にレグの顔が明るくなる。
「もつ」
「途中で俺に渡すなよ」
「わかった」
信用していいものか。
たぶん、半日後には渡されている。
そんな気がする。
三人で家を出る。
見慣れた通り。
何度も歩いた石畳。
朝の店先から漂ってくる焼きたてのパンの匂いに、レグの顔がそちらを向いた。
「買わないぞ」
「まだなにもいってない」
「顔が言ってる」
「かお、しゃべらない」
「そういう意味じゃない」
セラがまた笑った。
ラーデンの東門が見えてくる。
初めてこの町へ来た頃は、自分がこうして旅立つ日が来るとは思っていなかった。
生きるだけで精一杯だった。
知らない世界。
知らない魔術。
知らない魔物。
何ができるかも分からず、目の前にあるものを一つずつ試していった。
それがいつの間にか。
隣にはセラがいる。
少し前を、レグが歩いている。
背負った鞄を揺らしながら、気になるものを見つけるたびに立ち止まっているせいで、全然先へ進んでいない。
「レグ、置いてくぞ」
「まって」
慌てて走ってくる。
その姿を見て、ハヤトは門の外へ目を向けた。
街道が東へ伸びていた。
その先に何があるのかは知らない。
人の姿を取った竜。
レグと同じ存在。
あるいは、まったく関係のない話かもしれない。
行った先で記録が途切れている可能性だってある。
それでもいい。
答えがあるから旅に出るわけじゃない。
知らないから、行ってみる。
今は、それで十分だった。
「ハヤト」
少し先からレグが振り返る。
「はやく」
「お前が遅かったんだろ」
「いまはレグのほうがはやい」
「はいはい」
横を歩くセラが、前を見たまま小さく笑った。
「長い旅になりそうですね」
ハヤトも街道の先を見る。
「その方が面白いだろ」
セラは一瞬だけこちらを見て、それから、
「そうですね」
と笑った。
三人は東へ向かって歩き始めた。
まだ知らない町へ。
まだ会ったことのない人々のところへ。
そして――まだ何も知らない、竜の記録を追って。
急ぐ必要はない。
どこへ行くのか。
何を知るのか。
その先で何を選ぶのか。
全部、自分たちで決めればいい。
旅は、始まったばかりだった。




