第50話 我らが娘へ
「『我らが娘へ』……」
グレイが読み上げた言葉を、誰もすぐには受け止めきれなかった。
地下の小さな部屋には、俺たち四人と一枚の石板しかない。その石板に刻まれたガルドとミレアの名前。そして、その二頭から娘へ向けて残された文章。
もし昨日見つけた系譜の幼竜がレグなら。
これは。
レグの両親が残した言葉ということになる。
「グレイ」
俺は石板から目を離さずに言った。
「続き、読めます?」
「ああ。ただ、少し時間をくれ。古い表現が混ざっている」
「ゆっくりでいいです」
レグは俺の足元に座ったまま、石板を見上げていた。
いつもなら「なに書いてる?」と何度も聞いてきそうなのに、今は何も言わない。
俺も急かさなかった。
グレイが指先で文字を追い、少しずつ読み解いていく。
やがて。
「……読めそうだ」
その声に、レグの耳が動いた。
グレイは一度息を整えると、静かに読み始めた。
「『我らが娘へ。もしこの地へ戻り、この言葉を見つける日が来たなら、まず伝えたい。私たちは、お前を捨てたのではない』」
レグの身体が、わずかに動いた。
セラがそっと俺の隣へ来る。
グレイは続けた。
「『黒角の群れに追われた夜、私たちはお前を連れて南へ逃げた。しかし、群れは離れず、このままでは幼いお前まで失うと判断した』」
昨日の覚え書きと同じだ。
二頭が魔物を引きつけ。
幼い子を逃がす。
その続きが。
今、目の前にある。
「『ミレアがお前を谷の外へ運び、ガルドが群れを引きつけた。だが群れは二手に分かれたため、最後には二頭で戦うほかなかった』」
俺は無意識に拳を握っていた。
レグは動かない。
「『戦いが終わったとき、私たちは生きていた。しかし、お前の姿はなかった』」
「……いきてた」
レグが小さく呟いた。
「ああ」
俺も小さく返す。
グレイはさらに先を読む。
「『お前を逃がした場所へ戻った。森を探し、川を越え、山を越えて探した。だが、大雨で川は増水し、お前の匂いも足跡もそこで途切れていた』」
そこで。
俺は少し分かった。
レグがどうして遠く離れた場所に、一人でいたのか。
幼い竜が自分だけで遠くまで移動したとは限らない。
増水した川。
流されたのか。
流木に乗ったのか。
途中で何かに運ばれたのか。
それは今となっては分からない。
ただ。
両親にも追えないほど。
レグの痕跡が、そこで消えてしまった。
「『何度も探した。季節が変わっても探した。それでも見つけられなかった』」
セラが俯く。
レグは石板だけを見ている。
「『だから、もしお前が生きているなら。いつか自分の足でルディアへ戻るかもしれないと考え、この言葉を残す』」
グレイの声が少しだけ詰まった。
それでも。
読むのを止めなかった。
「『お前がどこで生き、誰と出会い、どんな名で呼ばれているのか、私たちには分からない』」
俺はレグを見る。
レグ。
今、俺たちがそう呼んでいる名前。
「『それでも構わない。お前が生きているなら、それだけでいい』」
静かな部屋に。
その言葉だけが残った。
レグはしばらく動かなかった。
やがて。
「つづき」
小さく言う。
グレイが頷く。
「『私たちは傷を負い、以前のように遠くまで飛ぶことが難しくなった。これ以上お前を探し続ければ、再び魔物を引き寄せる危険もある。ゆえに、私たちは北の山へ移る』」
「北……」
セラが呟く。
「『だが、お前は私たちを探さなくていい』」
レグが顔を上げた。
「なんで?」
石板は答えない。
代わりに。
グレイがその続きを読む。
「『親を探すためだけに、お前の生を使ってほしくない。もし新しい群れを得たなら、その者たちを大事にしなさい。もし自分の居場所を見つけたなら、そこをお前の家にしなさい』」
俺は何も言えなくなった。
セラも同じだった。
「『いつか偶然会えるなら、それは嬉しい。会えなくとも、お前が笑って生きているなら、それでいい』」
最後。
グレイがゆっくりと読み上げる。
「『愛しい娘へ。生きなさい。自分で選んだ場所で、自分で選んだ者たちと』」
その下に。
二つの名前。
ガルド。
ミレア。
それで。
文章は終わっていた。
◇
誰も喋らなかった。
何を言えばいいのか分からなかった。
俺たちが知りたかったことは。
ほとんど分かった。
レグは捨てられたわけじゃない。
両親はレグを守るために戦った。
生き延びたあとも探し続けた。
それでも見つけられず。
いつか娘がここへ戻ってくることを願って、この言葉を残した。
そして。
北へ向かった。
「グレイ」
セラが静かに聞く。
「この石板がいつ頃のものか、分かる?」
「正確には難しい」
グレイは刻まれた文字や石の状態を見る。
「ただ、上の記録よりかなり新しいことは間違いない。とはいえ、二頭が今も生きているかどうかまでは……」
「そっか」
それ以上は聞かなかった。
竜がどれほど生きるのか。
ガルドとミレアが、その後どこまで生きたのか。
分からない。
今も北のどこかにいる可能性だってある。
もういない可能性もある。
そこだけは。
この神殿にも答えがなかった。
「レグ」
俺は足元を見る。
返事がない。
「大丈夫?」
しばらくして。
「わかんない」
小さな声。
俺はしゃがんだ。
「そっか」
「おとうさんと、おかあさん」
レグが石板を見る。
「レグ、さがしてた?」
「ああ」
「すててない?」
「ああ」
今度は迷わず答えられた。
「少なくとも、この記録がレグのことなら絶対に違う」
「……ん」
レグの目から。
一滴。
何かが落ちた。
俺は一瞬、それが何か分からなかった。
竜の姿でも。
泣くんだな。
「レグ」
セラが隣にしゃがむ。
レグは顔を背けた。
「ないてない」
「うん」
「これ、ちがう」
「そうね」
セラは否定しなかった。
「ちょっと、めにはいった」
「地下で?」
「……ん」
無理がある。
でも。
誰も突っ込まなかった。
俺はただ、レグの頭へ手を乗せた。
いつものように。
ゆっくり撫でる。
「ハヤト」
「ん?」
「おとうさんと、おかあさん、さがす?」
難しい質問だった。
探したいと言うなら。
俺はたぶん一緒に行く。
セラも来るだろう。
でも。
石板には。
探さなくていいと書かれている。
だからといって、探してはいけないわけじゃない。
結局。
俺が決めることじゃない。
「レグが決めていいよ」
「レグが?」
「ああ」
「さがしてもいい?」
「いい」
「さがさなくても?」
「いい」
レグは黙った。
俺は続ける。
「今すぐ決めなくてもいい」
「……」
「帰ってから考えてもいいし、もっと後でもいい。会いたくなったら探せばいいし、このままでいいと思うなら、それでもいい」
レグが俺を見る。
「ハヤトは?」
「俺?」
「どうする?」
俺は少し考えて。
笑った。
「レグについてく」
「どっちでも?」
「どっちでも」
セラも笑う。
「私も」
「セラも?」
「もちろん」
レグは俺とセラを交互に見た。
それから。
石板へ視線を戻した。
長い沈黙。
そして。
「いまは」
小さく言った。
「さがさない」
俺は何も言わず続きを待った。
「おとうさんと、おかあさん、レグにいきろっていった」
「ああ」
「レグ、いきてる」
「うん」
「ハヤトとセラいる」
「いるよ」
セラが答える。
レグは少しだけ笑った。
「じゃあ、いまはこれでいい」
それが。
レグ自身が出した答えだった。
◇
グレイは石板の内容を丁寧に書き写したあと、もう一度系譜の本を確認した。
特徴。
時期。
ガルドとミレアの名前。
娘の記録。
石板の内容。
すべてを合わせれば。
「私は、ほぼ間違いないと思う」
グレイが言った。
「レグは、ガルドとミレアの娘だ」
昨日までは断定を避けていた。
でも。
ここまで揃った。
レグが隠し部屋を開けたこと。
神殿そのものに懐かしさを感じたこと。
特徴が一致すること。
そして。
名のない娘へ残された記録。
「ただ、一つだけ分からないことがある」
「何です?」
俺が聞く。
「なぜレグがこの神殿の仕掛けを開けられたのか」
「それか」
「血筋に反応した可能性はある。ただ、仕組みそのものが分からない以上、今は推測だね」
それなら。
今はそれでいい。
全部に答えが必要なわけじゃない。
「グレイ」
レグが呼ぶ。
「なんだい?」
「ありがと」
グレイが目を丸くした。
「私に?」
「ん」
「私は記録を読んだだけだよ」
「でも、よんだ」
「……そうか」
少し照れたように眼鏡を直す。
「どういたしまして」
最初。
レグはロイドを嫌い。
そのロイドから聞いたグレイのことも警戒していた。
俺も信用していなかった。
でも。
ここまで来て。
少なくとも。
グレイがレグをただの研究材料として見ていたわけじゃないことは分かった。
「これで研究は満足?」
俺が聞く。
「まさか」
即答。
「この神殿だけでも、調べたい資料が何年分あると思っているんだ」
「知らないよ」
「ただ」
グレイはレグを見る。
「彼女については、本人が嫌がることまで調べるつもりはない」
「ほんと?」
「約束する」
「ならいい」
いつの間にか。
レグのグレイへの評価も、かなり変わったらしい。
◇
そのあと。
俺たちはもう一度、石板の前に立った。
レグは何も言わない。
ただ。
しばらく二つの名前を見ていた。
ガルド。
ミレア。
やがて。
「おとうさん」
そして。
「おかあさん」
静かに呼ぶ。
「レグ、げんき」
俺とセラは黙って聞いていた。
「ごはん、いっぱいたべてる」
……そこ報告するんだ。
「ハヤトいる。セラもいる」
少し間を置いて。
「だから、だいじょうぶ」
レグは石板へ近づき。
前脚をそっと触れた。
「またね」
さよならではなかった。
それでいい。
いつか。
本当に探したくなる日が来るかもしれない。
偶然。
どこかで会えることだってあるかもしれない。
でも。
今は。
これでいい。
部屋を出る。
階段を上り。
隠し部屋を抜け。
地下保管庫から礼拝堂へ戻る。
神殿の外へ出ると。
昼の光が眩しかった。
レグが翼を広げる。
空へ少しだけ飛び。
俺のところへ戻ってくる。
いつものように肩へ降りるかと思ったが。
今日は頭だった。
「そこなんだ」
「ここがいい」
「知ってる」
俺は笑った。
セラも隣で笑う。
レグがどこから来たのか。
なぜ一人だったのか。
全部ではない。
それでも。
知りたかったことには。
ようやく答えが見つかった。
そして何より。
レグ自身が。
自分の居場所をもう知っている。
それなら。
俺たちがここへ来た目的は。
もう果たしたと言っていい。
「帰るか」
俺が言う。
「王都へ」
「うん」
セラが頷く。
頭の上から。
「ん」
レグの返事。
グレイも荷物を持ち直した。
俺たちは《ルディア旧神殿》をあとにする。
今度は。
過去を探すためではなく。
それぞれが選んだ今へ戻るために。




