第49話 黒い角の獣
翌朝。
神殿の外で簡単な朝食を済ませた俺たちは、もう一度地下保管庫へ戻った。
昨日のうちに見つけられたのは、ガルドとミレアが幼い子を連れて南の山間部で暮らしていたことと、魔物の群れに追われ、子だけでも逃がそうとしていたことまで。
二頭のその後は分からない。
レグが本当にその子なのかも、まだ完全には証明できていない。
だから今日は、残っている記録をもう少し調べる。
「レグ、眠くない?」
俺が聞くと、肩に乗ったレグが首を横に振った。
「へいき」
「昨日遅かったからな」
「ハヤトのほうがねてた」
「俺は見張り交代までちゃんと起きてただろ」
「いびき」
「嘘つけ」
「ちょっと」
「どっちだよ」
後ろでセラが笑っている。
昨日はかなり重い話をした。
でも、朝からずっと暗い顔をしているわけでもない。
それでいいと思う。
レグはレグだ。
知りたいことがあるから調べる。
ただ、それだけでいい。
◇
地下の隠し部屋へ入ると、グレイは昨日の続きからすぐに調査を始めた。
「今日はこの辺りを見たい」
そう言って指したのは、系譜の本とは別の棚だった。
「移動の記録がまとめられている。ガルドやミレアが神殿を離れたあと、誰かが二頭を見ていれば残っているかもしれない」
「見つかるといいな」
俺が言うと。
レグも小さく頷いた。
「ん」
俺とセラは、グレイが取り出した資料を傷つけないよう机の上へ運ぶ。
何冊目か。
何枚目か。
しばらく調べても、それらしい記録はなかった。
「ないね……」
セラが言う。
「まだ全部じゃない」
グレイはそう言いながらも、少し焦っているように見えた。
棚の奥。
別の箱。
古い板。
どれも違う。
やがて。
レグが部屋の隅で鼻を動かした。
「ハヤト」
「ん?」
「におい」
「何の?」
「まもの」
俺の手が止まる。
「どこ?」
レグが壁の向こうを見る。
「した」
「下?」
「ん」
グレイも顔を上げた。
「この下に空間がある?」
「知らない」
「前は?」
「ここ自体、昨日初めて見つけた部屋だ」
それもそうか。
俺は床を見る。
石造り。
見たところ、普通だ。
ただ。
レグはずっと同じ場所を見ている。
「近い?」
「……ちょっと」
その瞬間。
低い音がした。
地面の奥から。
ゴゴゴ……。
「何?」
セラが立ち上がる。
次の瞬間。
床の一部が大きく揺れた。
「離れろ!」
俺はレグを抱え、セラとグレイも机から距離を取る。
石が割れる。
ひびが広がる。
そして。
床が落ちた。
轟音。
埃。
冷たい空気。
開いた穴の奥から。
低い唸り声が聞こえた。
「……レグ」
俺が聞く。
「いる」
さっきより声が硬い。
「大きい」
暗闇の中。
何かが動く。
最初に見えたのは。
角だった。
黒い。
太い。
頭から前へ伸びた一本の角。
その下から。
巨大な獣が姿を現した。
四足。
熊に似ているが、肩の高さだけでも俺の胸くらいある。
全身を覆う毛は暗褐色。
そして額には。
黒い角。
「……グレイ」
俺は獣から目を離さずに聞く。
「昨日の記録にあったのって」
「黒い角を持つ大型の獣」
グレイの声が震える。
「おそらく、同じ種類だ」
レグが静かに獣を見る。
「これが」
小さく。
「おとうさんと、おかあさんを?」
「同じ個体じゃない」
俺はすぐに言った。
「百年以上前だ。これは別だ」
「でも、おなじ?」
「種類は、たぶん」
グレイが答える。
黒角の獣は穴の縁へ前脚をかけた。
石が砕ける。
「来る!」
◇
獣が飛び上がる。
速い。
大きさから想像するよりずっと。
「セラ、下がれ!」
俺は前へ出る。
一撃目。
前脚。
避ける。
石床が割れた。
まともに受けたら危ない。
受け流し。
頭には浮かぶ。
でも。
何でもかんでも試す技じゃない。
この重さは、まだ無理だ。
「ハヤト!」
横。
黒角が突っ込んでくる。
俺は身体を捻る。
角が服を掠める。
「っ!」
後ろへ下がる。
「レグ!」
セラが呼ぶ。
「ん!」
レグが飛ぶ。
竜の姿のまま。
獣の横から体当たり。
だが。
「弱くしすぎ!」
俺が叫ぶ。
獣は少しよろめいただけだった。
「むずかしい!」
「今回はもうちょい強くていい!」
「わかった!」
力加減を覚えるって。
こういう面倒もあるらしい。
黒角の獣がレグへ向きを変える。
「レグ、上!」
レグが翼を動かし、攻撃を避ける。
その隙に。
俺が斬り込む。
剣が肩へ入る。
浅い。
毛だけじゃない。
皮膚も硬い。
「硬っ!」
「ハヤト、離れて!」
セラの声。
俺が横へ飛ぶ。
直後。
小さく絞られた炎が獣の顔の前へ飛んだ。
燃やすためじゃない。
視界を奪う。
「グオッ!」
獣が頭を振る。
「今!」
レグが突っ込んだ。
今度は。
かなり強い。
ドンッ!
黒角の獣の巨体が横へ滑る。
「レグ!」
「つよかった?」
「今はそれくらいでいい!」
倒れはしない。
でも。
明らかに効いている。
獣が起き上がる。
怒っている。
唸り声が地下に響く。
「来るぞ!」
正面。
今度は爪。
俺へ。
避ける。
二発目。
剣を合わせる。
全部は流せない。
それでも。
角度をつける。
身体をずらす。
ガッ!
剣と爪がぶつかる。
腕に重い衝撃。
だけど。
真正面ではない。
前脚が横へ逸れた。
「いける!」
完璧じゃない。
でも。
訓練を始めた頃なら、剣ごと吹き飛ばされていた。
今なら。
少しだけ。
流せる。
「ハヤト!」
セラの声。
獣のもう一方の脚が来る。
間に合わない。
避けようとしたが。
爪が左腕を掠めた。
「っ!」
熱い。
血が出る。
深くはない。
「ハヤト!」
「平気!」
下がる。
セラがこちらへ来ようとする。
「まだいい!」
「でも!」
「浅い!」
治癒術を使うために前へ出て。
セラまで狙われたら意味がない。
「戦い終わってから!」
「……分かった!」
セラは止まった。
その判断でいい。
今は。
俺とレグが前。
セラは後ろ。
役割を崩さない方がいい。
◇
黒角の獣が再び突進する。
今度はレグへ。
レグは逃げず。
構えた。
「レグ!」
「わかってる!」
珍しく強い返事。
獣が迫る。
黒い角。
レグはぎりぎりまで待った。
そして。
横へ避けながら。
前脚を獣の首へ当てる。
押す。
殴るんじゃない。
勢いを横へ変えるように。
獣の身体が大きく傾いた。
「……おお!」
俺がやってきた受け流しとは違う。
でも。
考え方は似ている。
力で全部止めず。
相手の勢いを利用する。
「レグ、今のいい!」
「ほんと?」
「よそ見るな!」
「ん!」
獣が立ち上がる。
そこへ。
セラが手を向けた。
「レグ、離れて!」
小さな火球ではない。
今までより少し大きい。
ただし。
神殿を燃やすほどでもない。
狙いは獣の足元。
火が走る。
「グオオッ!」
獣が後ろへ下がる。
その先。
「ハヤト!」
分かってる。
俺が前へ出る。
正面は危ない。
横。
傷をつけた肩。
そこへ。
剣を振る。
深く入った。
獣が吠える。
「レグ!」
「ん!」
反対側から。
一撃。
今度は強すぎず。
弱すぎず。
ちょうどいい。
黒角の獣の巨体が崩れる。
床へ倒れ。
何度か身体を動かして。
やがて。
静かになった。
「……終わった?」
セラが聞く。
少し待つ。
動かない。
「たぶん」
「たぶんじゃ困る」
「いや、もう大丈夫」
俺は剣を下ろした。
レグも獣の近くへ降りる。
「レグ」
「ん?」
「近づきすぎるな」
「もううごかない」
「分かってても」
「しんぱいしょう」
「誰のせいだよ」
レグが少し笑った。
いつもの顔だった。
◇
「ハヤト、腕見せて」
セラがすぐに来た。
「浅いって」
「いいから」
袖が裂けている。
傷は確かに浅い。
ただ。
血はまだ滲んでいた。
「これなら……」
セラが手を近づける。
「できそう?」
「うん。今練習してる範囲」
それなら任せる。
淡い光。
魔力が流れる。
「痛い?」
「ちょっと」
「我慢して」
「治癒術って痛いの?」
「傷があるから痛いの!」
「なるほど」
「喋ってないでじっとして!」
レグが隣で見ている。
「ハヤト、おこられてる」
「お前最近それ好きだな」
少しして。
「はい」
光が消える。
見る。
傷はほとんど閉じていた。
「おお」
「無理して動かさないでよ?」
「分かった」
セラが少し満足そうだ。
戦いの最中に無理に治そうとせず。
終わってから。
自分が対応できる傷だけ治す。
以前より。
ちゃんと治癒術師らしくなってきた気がする。
「ありがとう」
「どういたしまして」
◇
戦いが終わってから。
俺たちは落ちた床の穴を調べた。
黒角の獣は、どうやら神殿の下にできた空洞へ入り込んでいたらしい。
「ここ」
グレイが灯りを向ける。
穴の下には。
横へ続く狭い通路があった。
自然にできたものではない。
石で作られている。
「神殿の地下は、まだ続いてたの?」
セラが聞く。
「私も知らない」
グレイは興奮している。
「下りられそう?」
俺が聞く。
「少し回れば階段があるはずだ。構造的に、どこかからつながっている」
探す。
隠し部屋。
隣の棚。
壁。
しばらくして。
グレイが一枚の石板を見つけた。
「これだ」
押す。
壁が少し動いた。
奥。
下へ向かう細い階段。
「……また隠し通路?」
俺が言う。
「この神殿、隠しすぎじゃない?」
セラも同じ顔だ。
「大事なものを守る必要があったんだろう」
グレイの目は完全に研究者だった。
「行く?」
俺がレグを見る。
「いく」
即答。
黒角の獣を倒したばかりなのに。
迷いはない。
「じゃあ慎重にな」
階段を下りる。
地下。
さらに下。
空気が冷たい。
やがて。
小さな部屋へ出た。
今までの保管庫とは違う。
棚はない。
本もない。
ただ。
中央に一枚の大きな石板が立っている。
「何これ?」
セラが聞く。
グレイが灯りを近づける。
石板には文字が刻まれていた。
新しい。
少なくとも。
上で見た百年以上前の記録よりは。
「読める?」
俺が聞く。
グレイは黙って文字を追う。
その顔が。
急に変わった。
「グレイ?」
「……これ」
声が震える。
「何?」
グレイが俺たちを見る。
「ミレアの名前がある」
レグが動いた。
「おかあさん?」
「待ってくれ」
グレイは続きを読む。
「それと……ガルドも」
「二人とも?」
セラが近づく。
俺も。
レグも。
石板の前へ集まった。
「いつ書かれた?」
俺が聞く。
グレイは下の方を見る。
「正確な年は分からない。ただ……」
一度。
息を呑む。
「昨日見つけた覚え書きより、後だ」
部屋が静かになった。
俺はすぐに意味を理解した。
魔物に追われ。
幼い子を逃がそうとして。
そのあと。
二頭の名前が。
ここに残されている。
「じゃあ」
セラも同じことに気づく。
「二人とも、生きてた?」
「少なくとも」
グレイが石板を見る。
「魔物の群れから逃れたあと、どちらか一頭でもここへ戻ってきた可能性は高い」
レグが石板の前へ進む。
「ここ、なんて?」
「まだ全部読んでいない」
グレイが続きへ目を落とす。
文字を追う。
ゆっくり。
一文字ずつ。
やがて。
「……」
止まる。
「何?」
俺が聞く。
グレイはレグを見る。
そして。
「ここに」
静かに言った。
「幼子のことも書かれている」
レグの目が大きくなる。
「レグ?」
「名前はない」
グレイは首を横に振る。
「でも――」
石板へ灯りを近づける。
「『我らが娘へ』と」
その言葉だけが。
地下の小さな部屋に。
静かに残った。




