第48話 残された名前
隠し部屋の中央。
石台の上に置かれた分厚い本を前にして、俺たちはしばらく動けなかった。
竜たちが、自分たちの系譜を残すために使っていた部屋。
もしグレイの読みが正しいなら、この中には誰と誰の間に子が生まれ、どこへ移り、どの竜が人化を覚えたのかまで記録されている。
そして、そのどこかに。
レグへつながるものが残っているかもしれない。
「時間かかりそう?」
俺が聞くと、グレイは本を慎重に開きながら頷いた。
「かなり。古い文字も多いし、名前だけ追っても意味がない。特徴や移動先まで見ないと、レグと関係がある系統なのか判断できないからね」
「じゃあ今日はここで調べる?」
セラが尋ねる。
「そのつもりだ。外へ戻る時間も考えれば、何時間でもというわけにはいかないけど」
俺はレグを見る。
竜の姿のまま、石台の前に座っている。
「レグ、大丈夫?」
「ん」
「疲れたら言えよ」
「だいじょうぶ」
いつもより返事が静かだった。
食べ物を前にしたときとも、戦う前とも違う。
レグ自身も分かっているのだろう。
これから調べるものが、自分に関わるものかもしれないと。
◇
それからしばらく。
部屋には、紙をめくる音とグレイの小さな呟きだけが響いていた。
俺たちは古い資料を勝手に触らず、グレイが確認したものだけを机へ並べていく。
最初に分かったのは、ルディアにいた竜たちが一つの群れではなかったことだった。
「いくつもの家系があったらしい」
グレイが指で系譜を追う。
「ここで生まれた竜もいれば、別の土地から来た竜もいる。逆に、成長して他の山や谷へ移った竜もかなり多い」
「じゃあ、ここが全部の竜の故郷ってわけじゃないのね」
「ああ。この神殿は……人間で言えば、集まる場所に近かったのかもしれない」
グレイは別のページを開いた。
「人化できる竜は、やはり全員ではない」
「珍しかった?」
「かなり。ただ、特定の系統では何代か続けて現れている」
俺は身を乗り出す。
「遺伝みたいなもの?」
「可能性はある。ただ、それだけで決まるのかは分からない」
グレイの指がページを進んでいく。
古い記録。
さらに古い記録。
途中で途切れている系譜も多かった。
竜が死んだのか。
別の土地へ移ったのか。
記録する者がいなくなっただけなのか。
そこまでは分からない。
そして。
「……あった」
グレイの指が止まった。
俺とセラが同時に近づく。
「何が?」
「見てくれ」
一つの系譜。
他より少し新しい文字で書き足されている。
グレイが読み上げる。
「ガルド。雄。濃い緑の鱗、金の瞳。人化の記録あり」
レグの耳が少し動く。
「その隣が……ミレア。雌。灰銀の鱗。人化の記録あり」
「二頭とも人化できたの?」
セラが聞く。
「ああ」
そして。
その二頭から一本の線が下へ伸びている。
グレイの声が少し遅くなった。
「子が一頭」
部屋が静かになる。
「雌」
俺はレグを見る。
レグもグレイを見ている。
「特徴は?」
グレイが文字を追う。
「黒に近い緑の鱗」
一つ。
「金色の瞳」
二つ。
さらに。
「……人化した際は、銀色の髪を持つと記されている」
セラが息を呑んだ。
俺も何も言えなかった。
黒緑の鱗。
金色の目。
銀色の髪。
全部。
レグと同じだ。
「名前は?」
俺が聞く。
グレイが首を横に振った。
「ここには書かれていない」
「なんで?」
「分からない。ただ、名前を書くための場所だけが空白になっている」
レグが石台へ近づく。
「これ」
前脚で、自分へつながっているように見える線を指す。
「レグ?」
俺はすぐには答えられなかった。
似ている。
いや。
似すぎている。
でも、ここで俺たちが勝手に決めるのは違う。
「たぶん」
俺はそう答えた。
「レグかもしれない。でも、まだ決めつけない方がいい」
レグはしばらく紙を見たあと。
「ん」
素直に頷いた。
グレイも同意する。
「同じ特徴を持つ別の竜という可能性が、完全にないとは言えない。ただ……」
もう一度記録を見る。
「可能性はかなり高いと思う」
それだけで。
十分だった。
◇
さらに調べる。
ガルドとミレア。
二頭について残っている記録は、それほど多くなかった。
神殿がすでにほとんど使われなくなった時代にも、ときどきここへ戻ってきては系譜を書き足していたらしい。
「二頭はここに住んでたわけじゃないの?」
セラが尋ねる。
「違うようだ。もっと南の山間部に住んでいた、とある」
「レグと一緒に?」
「子が生まれたあとは、そうだと思う」
レグが静かに聞いている。
「そのあと?」
俺が聞く。
グレイは次のページをめくった。
記録がない。
「ここで終わり?」
「系譜としてはね」
「じゃあ、何があったかは――」
「待って」
グレイが本の背表紙近くを見た。
何かが挟まっている。
薄い紙。
かなり傷んでいるが、本そのものよりは少し新しく見えた。
「これ……」
グレイが慎重に取り出す。
「手紙?」
セラが聞く。
「手紙というより、覚え書きに近い」
文字は乱れていた。
急いで書いたのか。
それとも。
書いた本人に余裕がなかったのか。
グレイはゆっくり読み始める。
「『今年、山の西側より魔物の群れが現れる』」
俺たちの表情が変わる。
「続けて」
「『数が増えている。中心には黒い角を持つ大型の獣。谷に留まることは難しい』」
レグが動かない。
「それで?」
「……『幼子を連れ、この地を離れる』」
俺は無意識に拳を握った。
グレイが続ける。
「『もし追いつかれた場合、幼子を先に逃がす。私たち二頭で群れを引きつける』」
セラが口元へ手を当てた。
「それって……」
俺も同じことを考えていた。
レグが一人だった理由。
もし。
この記録の幼竜がレグなら。
両親に捨てられたわけじゃない。
守るために。
一人で逃がされた可能性がある。
「続きは?」
グレイは黙った。
「グレイ?」
「最後がある」
声が少し低い。
「読んでください」
セラが言う。
グレイは一度レグを見た。
そして。
「『この子が生き延びれば、それでいい』」
レグがわずかに身体を震わせた。
「『いつか戻れるなら、ルディアへ。戻れなくとも、自分の居場所を見つけて生きてほしい』」
そこまでだった。
書いた者の名前は。
最後に残っていた。
ミレア。
「……おかあさん?」
レグが小さく聞く。
グレイはすぐに頷かなかった。
「可能性は高い。ただ、この記録の子がレグだと完全に証明できたわけではない」
「でも」
レグはもう一度紙を見る。
「おかあさん?」
今度は俺を見る。
答えを求められて。
少し困った。
俺に分かるはずはない。
でも。
誤魔化したくもなかった。
「そうかもしれない」
俺は言った。
「少なくとも、その子をすごく大事にしてたのは分かる」
レグは黙る。
しばらく。
本当に長く。
何も言わなかった。
俺もセラも、グレイも。
急かさない。
やがて。
「レグ」
声が聞こえた。
「ん?」
「すてられた?」
俺はすぐに首を横に振った。
「この記録がレグのことなら、違う」
「……」
「逃がされたんだと思う。生きてもらうために」
レグは紙を見る。
「おとうさんと、おかあさん」
「うん」
「レグ、まもった?」
今度はセラが答えた。
「たぶん」
優しい声だった。
「二人で魔物を引きつけて、レグを逃がそうとしたんだと思う」
「じゃあ」
レグが顔を上げる。
「どこ?」
誰も答えられなかった。
ガルドとミレアが。
そのあとどうなったのか。
生き延びたのか。
今もどこかにいるのか。
この記録には書かれていない。
「分からない」
俺は正直に言った。
「探せる?」
「手がかりがあれば」
「ない?」
グレイが記録を確認する。
「今のところは。ただ、まだ全部を見たわけじゃない」
それを聞いて。
レグが少しだけ顔を上げた。
「じゃあ、さがす」
「今日全部?」
「ん」
「外暗くなるぞ」
「……」
不満そうだ。
俺はレグの頭へ手を乗せる。
「今日はできるところまで。残りは明日でもいいだろ」
「でも」
「ここは逃げない」
少し考えて。
「ん」
納得した。
◇
その後も調べたが。
ガルドとミレアのその後を示す記録は見つからなかった。
分かったのは。
二頭が幼い子を連れて南の山間部で暮らしていたこと。
魔物の群れが現れ、住処を捨てる決断をしたこと。
そして。
危険になれば、子だけでも逃がすつもりだったこと。
そこまでだ。
「今日は戻った方がいい」
グレイが言う。
「外で野営する場所を作らないと、完全に暗くなる」
俺も頷く。
「続きは明日」
レグを見る。
「いい?」
「……ん」
名残惜しそうではある。
でも。
無理を言うことはなかった。
部屋を出る前。
レグがもう一度だけ、石台の上の本へ近づいた。
「レグ?」
「ちょっと」
紙を見る。
ミレア。
ガルド。
読めないはずの文字。
それでも。
そこに二頭の名前が書かれていると、もう知っている。
「おとうさん」
小さな声。
「おかあさん」
前脚を本の端へ乗せる。
そして。
「ありがと」
誰に聞かせるでもない声だった。
俺は何も言わなかった。
セラも。
グレイも。
ただ。
その場で待った。
しばらくして。
レグが俺たちのところへ戻ってくる。
「いこ」
「ああ」
地下保管庫を出る。
階段を上り。
崩れた礼拝堂へ戻る。
外へ出ると。
空は少しずつ夕方の色に変わっていた。
「ハヤト」
俺の肩へ飛び乗ったレグが言う。
「ん?」
「レグ、ひとりだった」
「ああ」
「でも」
少し間を置く。
「ひとりじゃなかった?」
俺は足を止めた。
どう答えるか。
少しだけ考える。
「たぶんな」
レグを見る。
「少なくとも、レグが一人になったのは、誰にもいらないって思われたからじゃない」
「ん」
「それに今は」
セラが隣に来る。
「私たちがいるしね」
レグが俺とセラを見る。
「ん」
今度は。
はっきり頷いた。
「いる」
まだ分からないことは残っている。
ガルドとミレアの行方。
レグが本当に二頭の子なのか。
そして。
なぜレグだけが、あの場所まで辿り着いたのか。
それでも。
今日一日で。
一つだけ。
レグが長い間知らなかったことに、答えらしきものが見つかった。
一人だったからといって。
最初から一人だったわけじゃない。
その小さな身体を。
命を懸けて守ろうとした者たちがいた。
それだけでも。
ここまで来た意味は。
十分にあったと思う。




