第42話 グレイ・ノルマン
それから三日間は、大きな問題もなく過ぎた。
セラは毎朝治癒術院へ通い、浅い傷への治癒を繰り返し練習していた。まだ傷の深さや状態によっては上手く魔力を合わせられないらしいが、それでも初めて治癒術を使えた日より、明らかに安定してきているという。
俺も受け流しの練習を続け、レグは人の姿での力加減を覚えるため、訓練場で木剣を振っていた。
そして三日目。
昼前に治癒術院を出てきたセラと合流し、俺たちは王都北区へ向かった。
目的地は《青葉亭》。
グレイ・ノルマンから届いた手紙に書かれていた店だ。
「ここみたいね」
セラが立ち止まる。
目の前にあるのは、思っていたより普通の店だった。
大きくも小さくもない二階建ての建物で、開け放たれた窓から客の話し声が聞こえてくる。昼時ということもあり、中にはそれなりに人がいるようだった。
少なくとも、怪しい研究者と密談するような場所には見えない。
「本当に普通の店だな」
「手紙にも、人目のある場所を選んだって書いてあったでしょ」
「そうだけど」
俺は隣を見る。
レグは俺の袖を握っていた。
「大丈夫?」
「ん」
返事はするが、いつもより少し硬い。
「嫌なら今から帰ってもいいぞ」
「かえらない」
「ほんとに?」
「ふたりいるから」
俺とセラを見る。
セラがレグの反対側へ立った。
「ちゃんといるよ」
「ん」
それで少し安心したのか、レグの手から力が抜けた。
「じゃあ入るか」
三人で店の扉を開けた。
◇
店内を見回して。
すぐに目的の人物が分かった。
窓際の四人掛けの席。
一人の男が、こちらを見ていた。
年齢は五十代くらいだろうか。灰色の混じった茶髪を短く整え、細い眼鏡を掛けている。派手な服装ではなく、濃い茶色の上着を着た、ごく普通の男に見えた。
ただ、机の横に置かれた鞄だけは異様に膨らんでいる。
本でも詰め込んでいるのだろう。
男が立ち上がった。
「ハヤト君だね」
「そうです」
「グレイ・ノルマンだ。来てくれてありがとう」
想像していたより穏やかな声だった。
グレイの視線が俺からセラへ移り、最後にレグへ向かう。
ほんの一瞬。
目の色が変わった。
驚きというより、長い間探していたものを目の前にしたような――そんな顔だった。
俺は自然とレグの前へ半歩出る。
それに気づいたのか、グレイはすぐに視線を外した。
「すまない。失礼だった」
「最初に言っておきます」
俺は椅子に座らず、そのまま言った。
「レグに触ったり、何かさせたりするつもりなら帰ります」
「分かっている。今日は話だけだ」
「人化もさせませんよ」
「それも構わない」
返事に迷いはなかった。
少しだけ警戒を緩め、俺たちは席についた。
俺の隣にレグ。
その反対側にセラ。
グレイは向かいだ。
「何か頼むかい?」
グレイが尋ねる。
「おにく」
レグが即答した。
「レグ」
「だめ?」
「いや、いいけど」
グレイが一瞬きょとんとしたあと、小さく笑った。
「食事代はこちらで持とう」
「いいひと?」
レグが俺に聞く。
「肉だけで判断するな」
「でもだいじ」
「そこは相変わらずなのね」
セラが苦笑する。
妙な始まり方になったが、おかげで少しだけ空気が軽くなった。
◇
料理を注文したあと、俺は改めてグレイを見る。
「ロイドから話は聞いてます」
「そうだろうね」
「あなたが、人の姿になれる竜を探してたって」
グレイはゆっくり頷いた。
「まず、そのことで謝らせてほしい。私はロイドに情報収集を依頼した。だが、君たちを何日も追跡させるつもりまではなかった」
「でもレグを見つけたって報告を受けて、かなり詳しく調べろって言ったんですよね?」
セラが少し強い口調で聞く。
グレイは否定しなかった。
「その通りだ。人化できる竜が実在すると知って、私が冷静さを失った。ロイドに警戒されたのも当然だと思っている」
意外なほどあっさり認めた。
「なんでそこまで?」
俺が聞く。
グレイは椅子の横に置いていた鞄を開いた。
中から出てきたのは、何冊もの古い本と、一束の紙だった。
「私は長年、竜についての古い記録を調べている」
一枚の紙を机へ置く。
かなり古い書物を書き写したものらしい。
紙には竜の絵が描かれていた。
大きな竜ではない。
人間より少し大きい程度。
その隣には、一人の人間らしい姿も描かれている。
「これは?」
セラが身を乗り出す。
「百年以上前の記録を写したものだ。当時、とある地方で人と暮らしていた竜について書かれている」
「人と?」
「ああ。そして、この竜には人の姿を取る力があったとされている」
レグが紙を覗き込む。
「レグみたい?」
「そうだ」
グレイは静かに答える。
「ただし、この記録がどこまで正しいかは分からない。残っている資料があまりにも少ないんだ」
俺も紙を見る。
絵だけでは、レグと同じ種類なのかどうかまでは分からない。
「人化できる竜って、そんなに珍しいんですか?」
「私が確認できた範囲では、確実な記録はごくわずかだ。少なくとも、ここ百年ほどは正式に確認された例がない」
セラがレグを見る。
「そんなに……」
当の本人はあまり興味がなさそうだった。
運ばれてきた肉料理の方を見ている。
「たべていい?」
「話聞いてた?」
「きいてた」
「内容は?」
「レグ、めずらしい」
「まあ合ってるか……」
肉を食べ始めるレグを見て、グレイが少し笑った。
研究対象を見るような顔ではなかった。
そこは少しだけ安心した。
「それで、レグを見て何が知りたいんです?」
俺が聞く。
「まず確認したかったのは、本当に人化なのかということだ。ただの幻術や変身魔術ではなく、竜自身が身体を作り変えているのか」
「違いがあるの?」
セラが聞く。
「大きく違う。幻術なら見た目を変えるだけだが、記録に残る竜の人化は身体そのものが人に近い形へ変化していたとされる。食事もでき、眠ることもでき、触れれば普通の人間とほとんど変わらない」
俺とセラがレグを見る。
肉を食べている。
「……確かに」
「なに?」
「何でもない」
グレイはもう一枚、資料を取り出した。
「そして、記録にはもう一つ共通する記述がある」
俺は少し身構える。
「何です?」
「人化を覚えたばかりの竜は、長時間その姿を維持すると強く疲れることがある」
俺とセラが同時に顔を見合わせた。
「……それ」
セラが言う。
「最初の頃、そうだった」
俺も覚えている。
レグが初めて人化した頃。
数時間ほど人の姿でいると疲れ、竜へ戻っていた。
本人に聞いても「なんかつかれた」としか言わなかった。
グレイが初めて少し身を乗り出す。
「今は?」
俺はレグを見る。
「レグ。最近、人の姿で疲れる?」
「んー……」
肉を飲み込んでから考える。
「さいしょより、へいき」
「一日くらいなら?」
「へいき」
「なるほど……」
グレイは何かを書き留めようとして。
手を止めた。
俺を見る。
「書いても?」
「レグがいいなら」
今度はレグを見る。
「いい?」
「なにかく?」
「今は一日くらい人の姿でいられる、って」
「いいよ」
許可を得てから、グレイは紙へ書き込んだ。
少なくとも、勝手に記録する気はないらしい。
「慣れると長く維持できるんですか?」
セラが聞く。
「あくまで古い記録では、だ。人化は竜にとって魔術というより、自分の身体を扱う能力に近いらしい。最初は負担が大きくても、繰り返すうちに身体が順応していく」
なるほど。
レグが最近になって長時間人の姿でいられるようになったこととも合う。
「じゃあ、無理に人でいさせない方がいい?」
俺が聞く。
「本人が苦しいと感じるなら、すぐ竜へ戻した方がいい。だが今の様子を見る限り、無理をしているようには見えない」
レグを見る。
幸せそうに肉を食っている。
確かに苦しそうには見えない。
◇
「ここまでは、ただの研究の話です」
セラが言った。
声は穏やかだが、警戒は解いていない。
「ロイドがあなたを信用できないと思ったのは、もっと別の理由があるんじゃないですか?」
グレイの表情が少しだけ曇った。
「その通りだ」
俺も姿勢を正す。
「話してください」
グレイは少し迷ったあと、資料の束から一枚を抜いた。
他の紙よりも古びた写しだった。
そこには小さな竜が描かれている。
「これを見てほしい」
机の中央へ置かれる。
セラが覗き込む。
俺も見る。
そして。
少し驚いた。
「……似てる?」
セラが呟いた。
描かれているのは、小型の竜。
詳しい色までは分からない。
ただ。
その横に書き写された文章には、こう記されていた。
黒に近い緑の鱗。
金色の目。
人の姿では、淡い銀色の髪。
「……」
俺は隣を見る。
レグ。
黒緑の鱗。
金色の瞳。
そして人化すれば、銀色の髪。
「これ」
セラもレグを見る。
「ほとんど同じじゃない」
グレイが頷く。
「だから私は、冷静さを失った」
ようやく理由が分かった。
ただ人化できる竜を見つけたからではない。
特徴そのものが古い記録と一致していたのだ。
「同じ竜ってこと?」
俺が聞くと、グレイはすぐに首を横に振った。
「それはないと思っている。この記録自体、百年以上前のものだ。いくら竜が長命とはいえ、今の彼女は明らかに幼竜だろう?」
「じゃあ」
「同じ系統なのではないか、と考えている」
レグは紙を見ていた。
さっきまで肉に夢中だったのに。
今は黙っている。
「レグ?」
声をかける。
「……」
「どうした?」
「わかんない」
小さな声だった。
「これ、しらない」
「そりゃそうだろ」
「でも」
レグが絵へ指を伸ばす。
触れる直前で止めた。
「なんか……へん」
「変?」
「ん」
俺とセラが顔を見合わせる。
グレイも何も言わず、レグの続きを待っている。
「みたことない」
レグがゆっくり言った。
「でも、しってるみたい」
その言葉に。
グレイの表情が初めて大きく変わった。
「……本当に?」
俺はすぐにグレイを見る。
「落ち着いてください」
「あ、ああ。すまない」
また研究者の顔が出たらしい。
グレイは一度深呼吸した。
「レグ。その絵を見て、何か思い出す?」
「おもいださない」
「場所とか、匂いとか――」
「グレイ」
俺が止める。
「質問は一個ずつ」
「……すまない」
レグが俺を見る。
少し困った顔だ。
「無理に考えなくていいよ」
「ん」
俺は資料をもう一度見る。
似た特徴を持つ、百年以上前の竜。
同じ個体ではない。
だとすれば。
「この記録、どこで見つけたんです?」
グレイは少しだけ黙った。
そして今度は、はっきり答えた。
「王都ではない」
「じゃあどこ?」
「北方にある古い神殿跡だ」
セラが眉を寄せる。
「神殿?」
「ああ。今はほとんど使われていない場所だが、地下の保管庫に古い記録が残されていた。これはその一部を書き写したものだ」
「他にもある?」
「ある。ただ、保存状態が悪く、まだ全部は確認できていない」
グレイはレグを見る。
今度は露骨に観察するのではなく。
静かに。
「私は、彼女とその記録に何か関係があるのではないかと考えている」
俺は腕を組んだ。
「つまり、一緒にその神殿へ来てほしい?」
「……できれば」
やっぱりか。
セラの表情も少し硬くなる。
グレイは慌てて続けた。
「今すぐ答えは必要ない。無理に連れていくつもりもない。それに、私は彼女を調べたいだけではない」
「じゃあ何を?」
「知りたいんだ」
グレイは机の上の古い記録を見る。
「なぜ、人の姿を取れる竜が記録から消えたのか。そして、百年以上経った今になって、同じ特徴を持つ幼竜が現れたのか」
店の中には、人の話し声が流れている。
食器の音。
料理の匂い。
外を行き交う人々。
そんな普通の日常の中で。
俺たちの机の上だけに。
百年以上前の竜の記録が置かれていた。
「ハヤト」
レグが俺の袖を掴む。
「ん?」
「いま、きめる?」
「決めなくていい」
すぐに答える。
「グレイもそう言ってるし」
「ん」
少し安心したらしい。
セラも頷いた。
「私も、一度ちゃんと考えた方がいいと思う」
「そうだな」
グレイが資料をまとめ始める。
「それで構わない。今日来てもらえただけでも十分だ」
「一つだけ」
俺が言う。
「はい」
「俺たちが断ったら?」
グレイは手を止めた。
そして。
「諦める」
答えは早かった。
「少なくとも、レグを追わせたり、無理に調べたりはしない。それは約束する」
ロイドの件で、一度失敗している。
そのことは本人も理解しているのだろう。
俺はしばらくグレイを見る。
完全に信用したわけじゃない。
でも。
最初に想像していた男とは、少し違った。
「分かりました」
俺たちは席を立つ。
グレイへ礼を言い、店を出ようとする。
その直前。
「ハヤト」
「ん?」
レグが立ち止まった。
「おにく、のこってる」
「……」
見る。
皿には一切れ残っていた。
「食ってから行けよ」
「ん」
緊張感が一瞬で消えた。
セラが笑い出す。
グレイまで肩を揺らしている。
結局。
最後の一切れまできっちり食べ終えてから、俺たちは《青葉亭》を出た。
◇
宿へ戻る道。
三人とも、しばらく無言だった。
「どう思う?」
最初に口を開いたのはセラだ。
「グレイ?」
「うん」
俺は少し考える。
「思ってたよりは普通だった」
「私も」
「でも信用はまだしない」
「それも同じ」
二人でレグを見る。
レグは歩きながら、さっきの資料のことを考えているようだった。
「レグ」
「ん?」
「神殿、行きたい?」
俺が聞くと。
すぐには答えなかった。
やがて、少しだけ首を傾げる。
「わかんない」
「そっか」
「でも」
俺を見る。
「レグのこと、しれる?」
「たぶんな」
「……」
もう一度考える。
そして。
「ちょっと、しりたい」
それがレグの答えだった。
「じゃあ」
セラが微笑む。
「三人で考えよ」
「ん」
急ぐ必要はない。
王都へ来た目的はまだ他にもある。
セラの治癒術院だって始まったばかりだ。
俺たちの生活もようやく落ち着いてきたところだった。
それでも。
百年以上前の記録。
レグと同じ特徴を持つ竜。
そして。
北方の古い神殿。
王都へ来て。
また一つ。
俺たちが向かうかもしれない場所が増えた。




