第19話 森の主
森へ入ってすぐ、空気が変わった。
ローデ村の周囲にある林とは違う。
木々は高く、枝葉が光を遮っている。
昼間だというのに薄暗い。
湿った土の匂い。
獣の気配。
遠くで何かが鳴くたび、レグの耳のような器官がぴくりと動いた。
「さっきの声、結構近かったよな」
ハヤトが言う。
「少なくとも、この森の中にはいると思う」
セラが杖を握り直す。
レグは二人の間を歩いていた。
いつもならハヤトの肩へ乗りたがるのに、今日は自分で地面を進んでいる。
時折立ち止まり、森の奥をじっと見る。
「レグ、何か分かる?」
ハヤトが聞く。
レグは答えない。
ただ、鼻先を少し上げて空気の匂いを嗅いだ。
それから左へ顔を向ける。
「そっち?」
レグが歩き始めた。
ハヤトとセラは顔を見合わせる。
「ついていく?」
「変なところに行き始めたら止めればいい」
二人も後を追った。
少し進んだところで、ハヤトは地面に跡を見つけた。
「待って」
しゃがむ。
大きな足跡。
村の牧草地に残っていたものと似ている。
《追跡・初級》を意識する。
足跡の縁はまだ崩れていない。
比較的新しい。
その周辺には、折れた枝。
踏み潰された草。
「こっちで合ってる」
ハヤトが顔を上げる。
「レグ、すごいな」
レグが振り返る。
褒められたのが分かったのか、尾が一度だけ上がった。
「得意そう」
セラが笑う。
「飯以外でも役に立つんだな」
その瞬間。
レグが足を止めた。
ハヤトを見る。
明らかに不満そうだった。
「……今の分かった?」
尾が地面を叩く。
「ごめんって」
セラが吹き出した。
さらに森の奥へ進む。
足跡は一つではなかった。
同じ個体が何度も行き来した跡。
そのうち一つは、血の跡と重なっている。
ハヤトの表情が変わった。
「これ……」
赤黒い跡。
古い。
だが完全には消えていない。
森の奥へ続いている。
「狩人かもしれない」
セラの声も低くなる。
二人は足を速めた。
十分ほど進んだ先。
木の根元に、弓が落ちていた。
折れている。
さらに少し離れた場所には、革製の鞄。
「人の物だ」
ハヤトが拾う。
中には干し肉。
小さな水筒。
そして、ローデ村で見たものと似た狩猟用の道具。
「狩人のどちらかね」
「近くにいるかな」
ハヤトは周囲を見る。
その時。
レグが低く唸った。
今までよりも強い。
背中の鱗が逆立つ。
「来る?」
セラが杖を構える。
ハヤトも剣を抜いた。
静かだった森。
数秒後。
正面の茂みが大きく揺れた。
枝が折れる。
木の幹が軋む。
そして。
巨大な影が現れた。
「……熊?」
形だけ見れば熊だった。
だが、大きさがおかしい。
四足で立っていてもハヤトの胸ほどある。
立ち上がれば三メートルを超えるだろう。
全身を覆う黒褐色の毛。
前脚には長い爪。
額から片側だけ角が伸びている。
セラが息を呑む。
「ホーンベア……」
「知ってる?」
「知ってるけど、こんな大きさじゃない」
通常個体より遥かに大きい。
つまり。
「変異種?」
「たぶん」
ホーンベアが低く唸った。
近い。
身体の大きさだけなら、昨日のオーガより上かもしれない。
ハヤトは一瞬だけ考える。
逃げる。
それも選択肢だ。
村へ戻って、さらに上位の冒険者を呼ぶ。
それが安全。
ただ。
足元に落ちている弓。
血の跡。
そして森の奥。
狩人二人が、まだ生きている可能性がある。
「セラ」
「何?」
「逃げるなら今だと思う」
「あなたは?」
ハヤトはホーンベアを見る。
「戦ってみたい」
セラは呆れなかった。
代わりに少しだけ笑う。
「私も」
「本当に?」
「村に戻したら、また誰か襲われるでしょ」
杖を構える。
「それに」
セラの目が細くなる。
「私だって、少しは強くなってるのよ」
ハヤトも笑った。
「じゃあやるか」
レグが二人の前へ出た。
「お前は無理すんな」
ハヤトが言う。
レグが振り返る。
「まだ完全に育ってないんだから」
不満そうに鼻を鳴らす。
「危なくなったら頼む」
それで納得したのか、レグは少しだけ下がった。
ホーンベアが立ち上がる。
でかい。
本当にでかい。
頭一つどころではない。
前脚を振り上げる。
「来る!」
ハヤトが横へ飛ぶ。
爪が地面へ突き刺さる。
土が弾けた。
直撃していれば、防具ごと切り裂かれていた。
「《火球》!」
セラの魔法。
炎が胸元へ当たる。
ホーンベアが吠える。
効いている。
だが止まらない。
「毛が邪魔!」
セラが叫ぶ。
厚い毛皮が火力を殺しているらしい。
ホーンベアがセラへ向く。
「こっちだ!」
ハヤトが走る。
片手剣で横腹を斬る。
刃は通る。
しかし浅い。
振り返ったホーンベアの爪が飛んでくる。
盾を使う。
正面から受けない。
斜めに当て、軌道を逸らす。
衝撃。
腕が痺れる。
それでも盾は壊れない。
「今回は持った!」
「喜んでる場合!?」
セラの声。
次の攻撃。
ハヤトは低く潜る。
巨体の横へ抜ける。
後ろ脚。
剣を振る。
深く入った。
ホーンベアが吠え、身体を回転させる。
まずい。
ハヤトが後退する。
爪が胸元を掠めた。
革鎧が裂ける。
「ハヤト!」
「平気!」
血は出ていない。
浅い。
まだ動ける。
セラが詠唱を始める。
だがホーンベアがそれを見た。
頭がいい。
セラへ一直線に走る。
「止まれ!」
ハヤトが追う。
間に合わない。
ホーンベアが前脚を上げた。
セラが杖を向ける。
詠唱途中。
撃てない。
その時。
横から黒い影が飛んだ。
「レグ!?」
幼竜がホーンベアの顔へ体当たりした。
威力は足りない。
巨体はほとんど動かない。
だが。
驚いたホーンベアの動きが止まる。
レグが翼を広げ、距離を取る。
「危ないって言っただろ!」
ハヤトが叫ぶ。
レグは聞いていない。
むしろ、ホーンベアへ向かって大きく口を開いた。
炎。
いつものものとは違う。
赤い炎の中心に、金色の光が混じっている。
「何だあれ……」
火炎がホーンベアの顔面を包む。
今度は明らかに効いた。
巨体が後ずさる。
毛が焼け、煙が上がる。
セラも目を見開いた。
「レグの炎、強くなってる!」
ホーンベアが怒り狂ったように吠える。
標的がレグへ変わる。
「させるか!」
ハヤトが《身体強化》を使う。
地面を蹴る。
ホーンベアより先に間へ入る。
爪。
盾で逸らす。
二撃目。
今度は避ける。
横へ。
腹が見えた。
毛が少ない。
「セラ!」
「分かってる!」
ハヤトは剣を振る。
腹を斬る。
傷が開く。
ホーンベアが身を縮めた。
「《炎槍》!」
炎がその傷口へ突き刺さる。
咆哮。
巨体が暴れる。
ハヤトは距離を取る。
まだ倒れない。
「しぶといな!」
ホーンベアが再び立ち上がる。
だが。
動きが明らかに鈍い。
腹から血。
顔には火傷。
後ろ脚にも傷。
あと少し。
ハヤトは剣を握り直す。
怖い。
でも。
それ以上に。
勝てる。
そう思った。
「次で決める」
セラが頷く。
「合わせる」
レグも横へ来た。
「お前も?」
小さく鳴く。
「無理だけはするなよ」
ホーンベアが最後の突進。
今度は逃げない。
ハヤトは真正面へ立つ。
「ちょっと!」
セラが叫ぶ。
「大丈夫!」
棍棒を持ったオーガとは違う。
こいつの攻撃は爪。
進路は読める。
ギリギリまで引きつける。
一歩。
二歩。
巨体が迫る。
その直前。
横へ。
《水生成》。
足元へ。
地面が濡れる。
昨日と同じ。
でも今度は、ただ滑らせるためじゃない。
ホーンベアの傷ついた後ろ脚。
その側だけ。
巨体の重心が崩れる。
前へ倒れかける。
「今!」
ハヤトが叫ぶ。
レグの炎。
セラの《炎槍》。
二つの炎が同時に走った。
顔。
腹。
ホーンベアの身体が大きく仰け反る。
そこへ。
ハヤトが踏み込んだ。
剣を両手で握る。
狙うのは首。
「終わりだ!」
全力で振り抜く。
刃が深く入った。
一瞬。
止まったように見えた巨体が、ゆっくり傾く。
地面へ倒れる。
大きな音。
土煙。
静かになった。
ハヤトはその場でしばらく動かなかった。
「……勝った?」
セラが近づく。
「たぶん」
ホーンベアは動かない。
完全に終わっている。
ハヤトは大きく息を吐いた。
「っしゃ!」
思わず声が出た。
怖かった。
危なかった。
でも。
気持ちいい。
今までで一番強い相手。
それを三人で倒した。
セラも少し笑っている。
「今回は結構爽快だったわね」
「だろ?」
「でも最後、正面に立ったのは怒ってる」
「そこは読めてた」
「外してたら?」
「……死んでた」
「次やったら本気で怒るから」
「はい」
素直に返事をする。
その時。
レグがふらついた。
「レグ?」
ハヤトが駆け寄る。
身体が熱い。
さっきの炎の反動なのか。
喉元。
また金色の光。
今度は前より強い。
「セラ!」
「見えてる!」
光が胸元から全身へ広がっていく。
レグ自身も驚いているようだった。
翼を広げる。
鱗の隙間から金色の光が漏れる。
「大丈夫か?」
ハヤトが手を伸ばす。
その瞬間。
レグがハヤトの手を掴もうとするように、前脚を伸ばした。
そして。
「……は……」
ハヤトが止まる。
セラも動かない。
レグがもう一度口を開く。
今度は。
はっきりと。
「……はや、と」
小さな声。
少し舌足らず。
でも。
間違いなく言葉だった。
ハヤトは目を見開く。
「……喋った?」
レグが首を傾げる。
自分でも何が起きたのか分かっていないらしい。
そしてもう一度。
今度は少しだけ嬉しそうに。
「はやと」
呼ばれた。
ハヤトとセラは顔を見合わせる。
数秒。
セラが先に口を開いた。
「……本当に喋ったわね」
「喋ったな」
レグが二人を見る。
それから。
「おなか……すいた」
沈黙。
ハヤトは空を見上げた。
「最初のまともな一言がそれかよ!」
レグの尾が嬉しそうに地面を叩いた。
セラは耐えきれず笑い出した。
森の奥に、二人の笑い声が響く。
強敵を倒した達成感も。
レグが言葉を話した衝撃も。
全部まとめて。
神崎ハヤトの異世界生活は、また一段と騒がしくなろうとしていた。




