谷の風
北環工房を出てから、十日が過ぎた。
帰り道は、不思議なくらい静かだった。
何も起きなかったわけではない。
崩れた道を迂回した。
雨で一日動けない日もあった。
小さな村に寄り、食料を補充し、頼まれて倒木をどかしたこともある。
それでも。
北東へ向かっていた頃のように、一つの痕跡を見つけるたび緊張することはなくなっていた。
追いかける必要がないからだ。
「おとうさん」
「おう」
「遅い」
「何がだよ!」
本人がすぐ横にいる。
「さっきから」
「景色見てたんだよ」
「昨日も見た」
「山は毎日違うんだ」
「おじいちゃんみたい」
「誰がおじいちゃんだ!」
先頭を歩く二人の声が、山道へ響く。
ハヤトは少し後ろから眺めながら笑った。
「十日でだいぶ普通になったな」
「最初からこんな感じだったんじゃない?」
隣を歩くセラが言う。
「レグが小さい頃も?」
「ガルドさんがずっと喋って、レグが短く返してそう」
「想像できる」
前方から声が飛ぶ。
「聞こえてるぞ!」
「耳いいな!」
「竜だからな!」
レグが振り返る。
「おとうさん、また大きい」
「声か?」
「うん」
「普通だろ」
「普通じゃない」
クロまで尻尾を一度振った。
「クロもそう言ってる」
「お前、いつから尻尾でそこまで読めるようになったんだよ」
「今」
「絶対適当だろ!」
◇
道中。
ガルドは何度も昔の話をした。
レグが生まれた日。
ミレアに「静かにしろ」と何度も怒られたこと。
それでも嬉しくて、三日間ほとんど誰にでも娘が生まれたと話して回ったこと。
「本当に三日?」
「三日は確実だな」
「迷惑」
「祝うところだろ!」
「知らない竜にも言った?」
「言った」
「人にも?」
「言った」
「鳥にも?」
「……多分言った」
レグが少し離れた。
「なんで距離取るんだよ!」
そのたびに。
今度はレグが、自分の話をした。
ハヤトと会ったこと。
セラと旅をしたこと。
人の姿を練習したこと。
竜の谷へ辿り着いたこと。
ルクアと会ったこと。
初めて弓を持ったこと。
自分の古い名前を知ったこと。
「リーヴァって聞いたとき、どう思った?」
ガルドに聞かれ。
レグは少し考えた。
「知らない名前だった」
「まあ、そうだよな」
「でも、おとうさんとおかあさんがつけた」
「ああ」
「だから嫌じゃない」
少し前を歩くクロを見る。
「でも、あれで呼ばれて動かされるのは嫌」
「それでいい」
ガルドの返事は早かった。
「名前は使うためにある。使われるためじゃねぇ」
レグが父親を見る。
「それ、おとうさんが考えた?」
「今かなりいいこと言ったよな?」
「うん」
「もっと褒めろ」
「調子乗ったからなし」
「早ぇよ!」
◇
さらに数日。
道が見覚えのある景色へ変わっていった。
白い岩。
低い森。
遠くに続く山脈。
竜の谷へ近づいている。
その日の昼。
休憩中に、ハヤトは少し離れた岩へ座っていた。
セラが隣へ来る。
「疲れた?」
「そこまで」
「最近、聞かれる前にちゃんと言うようになったね」
「誰かさんが毎回確認するから」
「いいことじゃん」
セラは水筒を飲み、前方を見る。
レグはガルドの前脚にもたれながら何かを話している。
大きな竜と、小さな人の姿。
見た目は随分違うのに。
もう親子にしか見えなかった。
「谷に着いたら」
セラが言う。
「うん」
「ミレアさん、いるかな」
「手紙届いてれば戻ってる可能性あるよな」
「ガルドさん、さっきからその話だけ避けてない?」
ハヤトも気づいていた。
竜の谷。
レグ。
昔のこと。
何でも話す男が。
ミレアとの再会についてだけは、自分からほとんど触れない。
「怖いんじゃない?」
「多分」
「レグにはあれだけ『帰る』って言ったのに」
「本人目の前にしたら別なんだろ」
二人でガルドを見る。
ちょうど向こうもこちらを見た。
「何だ」
「別に」
「何か言ってただろ」
「言ってない」
「セラ?」
「言ってません」
「お前ら最近息合いすぎじゃねぇか?」
ハヤトとセラは顔を見合わせた。
「付き合ってるので」
セラがさらっと言った。
「お前、普通に言うようになったな!?」
「隠すことでもないので」
「ハヤト」
「何?」
「お前はもう少し照れろ」
「何で!?」
◇
翌朝。
レグが目を覚ますより先に、ガルドが一人で起きていた。
ハヤトは水を汲みに行った帰りに、それを見つけた。
大きな身体を伏せ。
竜の谷がある方角を見ている。
「眠れなかった?」
「起きただけだ」
「ふーん」
「何だよ」
「いや」
ハヤトは少し離れた岩へ腰を下ろした。
「緊張してんのかなって」
「してねぇ」
「即答する人、大体してるってセラが言いそう」
「お前最近あいつの言葉使いすぎだろ」
「付き合ってるので」
「それ便利に使うな」
ガルドは鼻を鳴らす。
しばらく。
朝の山を眺める。
「……ミレアから」
ガルドが先に口を開いた。
「うん」
「何か聞いてるか?」
「レグと再会したときの話なら」
「俺のこと」
「かなり」
「悪口以外で」
「そこ気にするんだ」
「気にするだろ!」
声が大きくなりかけて、自分で抑えた。
「……何て言ってた」
ハヤトは少し考える。
ミレアが話したこと。
守るために離れたこと。
呼びの仕組みが反応し、近づくのをやめたこと。
それだけではなく。
怖かったこと。
「ガルドと似たようなこと言ってたよ」
「俺と?」
「レグに会うのが怖かったって」
ガルドが黙る。
「自分のこと覚えてないかもしれないし。拒まれるかもしれないし」
「……あいつもか」
「ああ」
「昔からそういうの顔に出さねぇんだよ」
「ガルドは出る?」
「俺は出さねぇ」
「かなり出てると思う」
「お前ほんと遠慮なくなったな」
最初から割とそうだった気もする。
「でも」
ハヤトは立ち上がる。
「レグに会ったとき、ミレア嬉しそうだったよ」
「そうか」
「怒ってもいたけど」
「そこは知りたくなかった」
「多分ガルドにも両方じゃない?」
ガルドは答えなかった。
ただ。
「逃げねぇよ」
小さく言った。
「うん」
「何年も逃げたからな」
今度は。
帰る。
◇
昼を過ぎた頃。
道の先で、レグが突然止まった。
「におい」
「何?」
セラが聞く。
「谷」
「分かるの?」
「うん」
ガルドも頭を上げる。
風が山の間から吹いてきた。
「近いな」
その一言で。
レグが一気に嬉しそうになる。
「走っていい?」
「道は見えてる」
セラが前方を確認する。
危険な崖もない。
「いいよ」
「行く!」
レグが走り出す。
クロも続く。
「おい待て!」
ガルドまで速度を上げる。
「結局みんな走るじゃん!」
ハヤトも笑いながら追った。
セラがその横を走る。
「ハヤト遅い!」
「竜とクロ基準にすんな!」
「私よりも遅いよ!」
「それはセラが速いの!」
山道を抜ける。
木々が途切れる。
視界が開いた。
◇
谷が見えた。
大きな岩壁。
遠くを飛ぶ竜たち。
以前来たときと変わらない場所。
でも。
「帰ってきた!」
レグが声を上げる。
近くを飛んでいた一頭の竜がこちらに気づいた。
旋回する。
さらにもう一頭。
谷の入口が少し騒がしくなる。
「あれ?」
レグが目を細める。
小さめの竜が一頭。
こちらへ勢いよく飛んできた。
「レグー!」
声。
「ルクア!」
レグが両手を上げる。
ルクアはそのまま地面へ降り。
勢いを殺しきれず、少し滑った。
「帰ってきた!」
「帰ってきた!」
二人とも同じことを言う。
レグが笑う。
「おとうさんもいる」
「おとうさん?」
ルクアがガルドを見る。
数秒。
「でかい」
「第一声それか!」
ガルドの声に。
谷の奥から何頭かの竜が顔を出す。
「うるさい」
レグが言う。
「帰って早々それかよ!」
懐かしい景色に。
いつもより大きな声が増えた。
◇
谷の中へ進む。
ガルドを知る古い竜たちが次々と近づいてくる。
「本当にガルドか?」
「生きてたのか」
「随分老けたな」
「最後のいらねぇだろ!」
ガルドが返すたび。
レグは少し嬉しそうにしていた。
ハヤトとセラは少し離れて歩く。
「人気者だったんだな」
「声大きいから覚えられてるだけかも」
「それ本人に言う?」
「言わない」
やがて。
谷の奥。
見覚えのある場所へ近づく。
ガルドの歩みが。
急に遅くなった。
レグも気づく。
「おとうさん?」
「……おう」
「遅い」
「ちょっと待て」
「なんで?」
「心の準備ってもんがあるだろ」
「さっき走ってた」
「あれとこれとは別だ!」
そのとき。
前方から声がした。
「何が別なの?」
ガルドが止まった。
レグも。
ハヤトたちも足を止める。
岩の向こうから。
一人の女性が歩いてくる。
長い銀白の髪。
静かな目。
小さな角。
ミレア。
レグの表情が一気に明るくなる。
「おかあさん!」
ミレアの視線がレグへ向く。
微かに笑う。
「おかえり、レグ」
「ただいま!」
レグが駆け寄る。
ミレアは受け止める。
その向こう。
ガルドはまだ動かなかった。
ミレアが顔を上げる。
二人の目が合う。
長い沈黙。
「……よお」
先に口を開いたのはガルドだった。
「久しぶり」
「ええ」
「元気そうだな」
「あなたも」
「……」
「……」
ハヤトはセラへ小声で言う。
「さっきまであんなに喋ってたのに」
「聞こえるぞ」
ガルドが即座に返した。
ミレアの口元が。
ほんの少しだけ上がる。
「相変わらずね」
「お前もな」
そして。
ミレアはレグから一歩離れた。
ガルドへ近づく。
目の前まで。
「ガルド」
「おう」
「まず」
「お、おう」
ミレアの拳が。
ガルドの鼻先へ飛んだ。
「痛ぇ!!」
谷中に声が響いた。
レグが嬉しそうに叫ぶ。
「レグと同じ!」
「そこ喜ぶところじゃねぇだろ!!」
何年ぶりかの家族の声が。
竜の谷に戻ってきた。




