呼び声の向こう
三日前。
その文字を見つけてからも、レグはすぐに飛び出そうとはしなかった。
石小屋で一晩休み、朝になってから出発する。
ハヤトは少し意外だった。
「眠れた?」
「ちょっと」
「絶対あんまり寝てないだろ」
「三回起きた」
「数えてるなら寝てない方だな」
レグは否定しなかった。
クロも今日はいつもより前へ出たがる。少し進んでは匂いを確かめ、また戻ってくる。
ガルドの匂いを知っているのかは分からない。
それでも、この道に最近誰かがいたことは確実に分かっているようだった。
「走らない」
レグが自分に言い聞かせるように呟く。
「誰も止めてないよ」
セラが隣から言う。
「でも走りたい」
「それは分かる」
「セラも?」
「私がお父さん見つけたら、たぶんね」
レグは少し考える。
「じゃあ走っていい?」
「道見てから」
「やっぱり駄目」
「駄目じゃなくて、安全ならいいってこと」
「むずかしい」
「最近ずっとそれでしょ」
全部か、何もしないかではない。
レグは渋々頷いた。
◇
右へ分かれた古い保守路は、昨日までより明らかに荒れていた。
崩れた階段。
倒木。
土に埋まった石標。
人が頻繁に通る道ではない。
それでも。
「またある」
カイルが石の表面を指した。
新しい擦れ。
大きな石が横へ動かされている。
さらに少し先では、倒木の太い枝が一本だけ折られていた。
「これも竜ならできる?」
レグが聞く。
ユアンが折れた部分を見る。
「道具を使った跡がない。人間が素手でやるのはかなり厳しいな」
「おとうさん」
「可能性は高い」
今度はカイルも否定しなかった。
レグの歩幅が少し大きくなる。
「走ってない」
「分かってるよ」
セラが笑う。
ハヤトも前を見る。
三日前というだけでも近かった。
だが、この道の状態なら。
ガルドもそこまで速く進めていないかもしれない。
◇
午前の終わり頃。
最初の異変が起きた。
『――リーヴァ』
昨日から何度も聞いた呼び声。
レグはもう驚かなかった。
「レグ」
歩いたまま返す。
『役へ戻れ』
「戻らない」
いつものやり取り。
だが。
今日はそれで終わらなかった。
『リーヴァ』
別の場所からも響いた。
正面。
右。
さらに背後。
「増えた?」
セラが周囲を見る。
カイルは近くの石標へ走った。
「この辺り、印が多い」
地面。
岩壁。
崩れかけた柱。
今まで一つずつ置かれていた《呼ぶ》の印が、ここでは複数残っている。
ユアンの顔が険しくなった。
「発信元に近づいてる」
『リーヴァ』
『応えよ』
『役へ戻れ』
声が重なる。
レグが胸を押さえた。
「熱い?」
ハヤトがすぐ聞く。
「昨日よりちょっと」
「頭は?」
「平気」
「変なこと考えさせられてない?」
レグは少し目を閉じる。
「……行かなきゃ、みたいなのはある」
全員の足が止まった。
「どこへ?」
「前」
「自分で行きたいのと違う?」
セラが尋ねる。
レグはすぐ答えなかった。
それが一番怖かった。
父親が近い。
だから前へ行きたい。
古い呼び声が命じている。
だから前へ行きたい。
二つが同じ方向を向いている。
「分かりにくい」
レグが眉を寄せた。
「じゃあ一回止まろう」
ハヤトが言う。
「行きたいけど?」
「だから止まる」
「……うん」
レグはその場へ座った。
クロも隣に伏せる。
呼び声は続いている。
それでもレグは動かなかった。
一分。
二分。
しばらくして。
「まだ行きたい」
「それはどっち?」
「レグ」
今度は即答だった。
「おとうさんに会いたい」
ハヤトは頷く。
「じゃあ行こう」
◇
その先から、呼び声はさらに強くなった。
レグだけではない。
ハヤトにも、意味がはっきり伝わるほどだった。
『リーヴァ』
『呼ぶ者』
『戻れ』
『名を示せ』
同じ言葉。
何度も。
カイルは歩きながら壁の記録を追っている。
「これ、最初からこんな使い方じゃない」
「何かある?」
「古い方は《呼びを届ける》《返事を待つ》だ」
「返事を待つ?」
「ああ」
その下に。
後から削り直された文字。
《返事なき時は繰り返せ》
さらに。
《役名をもって導け》
「また後付け」
セラが呟く。
「少しずつ変えられてるな」
ユアンが溝を指でなぞる。
「最初は一回呼んで、待つだけだったんだろう」
「待てなくなった」
レグが言った。
「そういうことだろうな」
返事がない。
ならもう一度。
それでも来ない。
なら、役目の名前で呼ぶ。
それでも来ない。
なら。
「もっと強くする」
ハヤトが言った。
ユアンが頷く。
「その先に、今の強制があるんだろうな」
誰か一人が突然すべてを変えたわけではない。
便利に。
確実に。
少しずつ。
気づけば「呼ぶ」は「従わせる」に近づいていた。
◇
昼を過ぎた頃。
クロが急に道を外れた。
「クロ?」
斜面を少し上る。
そこに、小さな石柱が倒れている。
その裏。
何かが挟まっていた。
「紙?」
セラが拾う。
古い紙ではない。
油を染み込ませた丈夫なもの。
雨を避けるように石の下へ入れられていた。
表には二本の印。
「おとうさん」
レグがすぐ寄ってくる。
文字は共通語。
今度は少し長かった。
《ここまで来たなら、ミレアの伝言は届いたらしい》
レグが止まった。
「おかあさん?」
ハヤトとセラも顔を見合わせる。
続きを読む。
《レグと会えた》
《一緒にいるのはハヤト、セラ、カイル》
《黒い道番もいる》
「これ……」
カイルが紙を覗き込む。
「ミレアが送った内容か?」
ユアンが尋ねる。
「多分」
ガルドの文は続く。
《白い森の古い中継に、ミレアの記録が残ってた》
《俺が見つけたのは二か月前》
そこでようやく。
ガルドがハヤトたちの名前を知っていた理由が繋がった。
「おかあさん、伝えてた」
レグが紙を見る。
ミレアはガルドの居場所を知らなかった。
それでも。
いつか通るかもしれない古い道へ、記録を残した。
娘に会えたこと。
今は一人ではないこと。
「カイルもちゃんと書いてある」
ハヤトが言うと、カイルが眉を上げる。
「当たり前だろ」
「前の板、俺とセラだけだったから」
「ガルドの問題だ」
「確かに」
紙にはもう少し続きがあった。
《ミレアが無事なのも分かった》
《娘が俺よりちゃんとした奴らといるのも分かった》
そして。
《だから少し安心した》
レグの指が止まった。
「少し?」
「そこはガルドなりの照れじゃない?」
セラが言う。
「おとうさん、もっと安心していい」
「会ったら言ってやれ」
「うん」
◇
最後に。
別の一文があった。
《ただし、この先は呼びが強い》
《レグの古い名を使う》
《俺も止めようとしてる》
《まだ止まってないなら、先に来るな》
レグの顔が険しくなる。
「先に来るな?」
その下。
さらに小さく書き足してある。
《――って書いても来るんだろうな》
ハヤトが吹き出した。
「分かってるじゃん」
レグは少しむっとする。
「来る」
「だから書いてあるんだろ」
最後の一行。
《なら、自分の名前を忘れるな》
レグは紙を畳まず、しばらく見ていた。
「忘れない」
胸元へ手を置く。
「リーヴァもレグ」
そして。
「でも今はレグ」
それを聞いてから、セラが紙を丁寧に戻した。
「持っていかない?」
ハヤトが聞く。
レグは少し考えて。
「これは持ってく」
「前の札は置いたのに?」
「おかあさんのこと書いてある」
「なるほど」
今回は鞄へ入れた。
◇
午後。
道はさらに狭くなった。
片側は岩壁。
もう片側は深い谷。
そして。
『リーヴァ』
呼び声が、急に大きくなる。
レグが足を止めた。
『戻れ』
胸元の印が光った。
服の上からでも分かるほど。
「レグ!」
「平気……!」
返事はある。
だが身体が前へ引かれる。
一歩。
勝手に足が出た。
レグ自身が驚く。
「今のレグじゃない」
セラが腕を取った。
クロも反対側から身体を押しつける。
「止まる!」
レグが自分で踏ん張る。
もう一歩。
出そうになる。
「ハヤト!」
「ああ!」
ハヤトはレグへ触れようとして。
止めた。
自分の《自由》で、レグの命令そのものを直接消せるとは限らない。
リドたちのときと同じだ。
「発信元どこ!」
ユアンが周囲を探す。
カイルが前方を指した。
「向こう!」
谷を渡った先。
岩山の側面に、巨大な円形の装置が埋め込まれている。
中央。
《呼ぶ》の印。
「あれ止めればいい?」
「多分!」
だが。
谷に橋はない。
古い石橋が途中で崩れている。
「届かない!」
セラが叫ぶ。
レグはまだ踏ん張っている。
「大丈夫!」
「大丈夫じゃない!」
「でも負けてない!」
呼び声がさらに強くなる。
『リーヴァ』
『戻れ』
『応えよ』
「レグ!」
「レグ!」
自分の名前を叫ぶ。
「レグ!」
胸元の光が揺れる。
そのときだった。
別の音が入った。
ざ、と。
装置の奥で何かが乱れる。
『リ――』
呼び声が途切れた。
「え?」
全員が谷の向こうを見る。
円形装置の光が激しく揺れる。
そして。
今までの無機質な声とはまったく違う。
低く。
大きく。
腹の底から怒鳴るような男の声が、谷いっぱいに響いた。
『――だからその名前で呼ぶなって言ってんだろうが!!』
レグが固まった。
ハヤトも。
セラも。
誰も言葉を出せない。
装置の向こうで、さらに何かがぶつかる音がする。
『何百回同じの流しゃ気が済むんだ、このボロ――』
ぶつ。
一度切れる。
数秒後。
『……あ?』
男の声が戻った。
今度は少し小さい。
『誰か向こうにいるのか?』
レグの唇が震えた。
「……おとうさん」
声が届いたのか。
向こうが静かになる。
一秒。
二秒。
長い沈黙。
そして。
『……レグ?』
今度の声には。
怒鳴り声も。
苛立ちもなかった。
レグは泣かなかった。
ただ。
これまでで一番大きな声で返した。
「おとうさん!!」




