北へ残る声
主環の奥には、まだやることが山ほど残っていた。
止まった道。
消えた記録。
使えるかどうかも分からない設備。
それでも、今すぐ全部を直す必要はない。
「俺はここに残る」
翌朝、最初にそう言ったのはディオルだった。
レグが少し意外そうに見る。
「北、行かない?」
「ああ」
「おとうさんの道、知ってるのに?」
「入口まではな。その先は俺も入ってない」
ディオルは中央台へ手を置いた。
「それに、ここを開けたまま放っていく方がまずい」
昨日までなら、主環を起こしたあとも自分で先へ進もうとしたかもしれない。
だが今は違った。
古い記録を読み直し。
どの役目が不足しているのかを整理し。
北環へ持ち帰る情報をまとめる。
「命令返しなしで、どこまで戻せるか試す」
ユアンが腕を組む。
「一人で決めるなよ」
「分かってる」
「本当に?」
「……昨日からお前、しつこいな」
「必要だから言ってる」
横で聞いていたハヤトは少し笑った。
「俺が言われてたやつだ」
「似た者増えた」
レグが言う。
「増えてない」
ハヤトとディオルの声が重なった。
二人とも一瞬黙る。
セラが吹き出した。
◇
ノイも主環に残ることになった。
「まだ山道を何日も歩く状態じゃない」
セラにそう言われ、今回は素直に頷いた。
「分かりました」
「ちゃんと休んでね」
「はい」
「無理して作業しない」
「……はい」
少し間があった。
「今の間、何?」
「何でもないです」
セラがじっと見る。
「本当に?」
「休みながらやります」
「ならよし」
ディオルもそのやり取りを黙って聞いていた。
やがてノイの方へ向く。
「昨日のことだが」
ノイが顔を上げる。
「……はい」
「悪かった」
短かった。
言い訳もなかった。
ノイはすぐには返事をしない。
「今は、それだけですか?」
「ああ」
「じゃあ、帰ってからもっと話してください」
「分かった」
許したわけではない。
それでも、話す道は残した。
そのくらいが今はちょうどいいのだろう。
◇
北保守路の入口は、主環の北端にあった。
普段使われる大きな道とは違い、人二人が並べる程度の細い通路。
石扉の上には。
《第三保守域》
その下に、もう一つ。
《呼びを受ける者は、名を確かめよ》
カイルが読み上げると、レグの表情が変わった。
「名前」
「ガルドが書いてた《古い呼び声》と関係ありそうだな」
ユアンが装置を見る。
ディオルもここまでは見送りに来ていた。
「四か月前、ガルドもここを通った」
「どうやって開けた?」
ハヤトが尋ねる。
「知らん。俺が見たときにはもう開いていた」
「おとうさん、資格いっぱい持ってる?」
「それも知らん」
レグが少し残念そうにする。
カイルが扉の文字をさらに追った。
「開ける条件は……《呼ぶ》と《見張る》」
「二つ?」
「ああ」
レグが《呼ぶ》。
もう一つはハヤトが《自由》で越えられる。
「簡単そう」
レグが言う。
「最近その感覚危ない気がする」
ハヤトが苦笑する。
セラも頷いた。
「二つなら余裕、みたいになってるよね」
「実際二つならかなり楽なんだよ」
「だからって雑にやらない」
「分かってる」
今回は、先にユアンとカイルが構造を確認した。
異常なし。
後付けの継ぎ片もない。
「元のままだ」
ユアンが下がる。
「やっていいぞ」
◇
レグが《呼ぶ》の印へ手を置く。
「レグ」
白い光。
次にハヤト。
《見張る》の条件を《自由》で越える。
二本目が灯った。
扉が音を立てて開く。
その瞬間だった。
『――リーヴァ』
声がした。
誰かが喋ったわけではない。
男でも女でもない。
遠くから響くような音が、石壁の奥から流れてきた。
レグの身体が固まる。
「レグ?」
セラがすぐ横を見る。
『リーヴァ』
二度目。
今度はハヤトにも、はっきり聞こえた。
レグの古い名。
《呼ぶ》に結びついていた名前。
「これか」
カイルが扉の奥を見る。
「ガルドの言ってた呼び声」
ユアンはすぐ装置を調べ始めた。
「扉じゃない。もっと奥から来てる」
『――応えよ』
レグの胸元。
身体の中にある印が、僅かに熱を持った。
「レグ!」
ハヤトが一歩近づく。
「大丈夫」
返事は早かった。
レグは自分の胸へ手を置く。
目を閉じる。
『リーヴァ』
「聞こえてる」
『応えよ』
「でも」
目を開いた。
「今はレグ」
それだけ言って、前を見る。
呼び声は止まらない。
『役へ戻れ』
レグの眉が寄った。
「戻らない」
『名を示せ』
「もう言った」
白く光っている《呼ぶ》の柱を見る。
「レグ」
今使っている名。
自分で選んでいる名。
もう一度、はっきり口にした。
すると。
扉の光が僅かに揺れた。
『――登録なし』
「知らない」
『リーヴァ』
「それもレグ。でも呼ぶならレグ」
セラが少し笑った。
緊張しているのに。
その返しがあまりにもレグらしかった。
◇
「止められるか?」
ハヤトがユアンへ聞く。
「入口側からは無理だ。発信元を探すしかない」
「進む?」
セラがレグを見る。
決めるのは本人だった。
「行く」
即答。
ただし。
「でも変になったら言う」
「どんな感じ?」
ハヤトが尋ねる。
「胸、ちょっと熱い。頭は平気」
「嫌な感じは?」
「ある」
レグは少し考える。
「名前じゃなくて、役目で呼ばれてる感じ」
それは。
以前なら、うまく言葉にできなかったことかもしれない。
「分かった」
ハヤトは頷いた。
「少しでも強くなったら止まる」
「うん」
セラも横へ並ぶ。
「私も見るから」
「うん」
クロはレグの脚へ身体を寄せた。
尻尾が一度だけ触れる。
「クロもいる」
レグがその頭を撫でる。
そして歩き出した。
◇
ディオルとノイに別れを告げ、北保守路へ入る。
ここからは再び。
ハヤト。
セラ。
レグ。
カイル。
ユアン。
クロ。
五人と一匹になった。
道は緩やかに山の奥へ下っている。
壁には一定の間隔で《呼ぶ》の印。
そのたびに。
『リーヴァ』
声がする。
最初の数回は、レグも反応した。
だが十回を越えた頃。
「しつこい」
ついに怒った。
「おとうさんがうるさいのと違う」
「比較対象そこ?」
ハヤトが聞く。
「おとうさんは返事したら次の話する」
「それはそれで長そうだけどな」
「こっちは同じことだけ」
確かに。
呼び声には会話がない。
ただ登録された名前を呼び。
役目へ戻れと繰り返す。
「人じゃないからな」
カイルが壁の印を見ながら言う。
「昔設定された命令が、そのまま残ってるだけだ」
「誰が設定した?」
「それを見に行く」
レグは頷く。
◇
一時間ほど進んだところで、道が二つに分かれた。
正面。
そして右。
正面には古い文字。
《第三保守域》
右側には。
何もない。
だがクロは迷わず右へ顔を向けた。
「匂い?」
レグが尋ねる。
クロが数歩進む。
戻る。
もう一度右を見る。
「人の匂いっぽいな」
ユアンが地面へしゃがむ。
薄い土の上。
靴跡が残っている。
一人分。
「新しい?」
ハヤトが聞く。
「かなり」
ユアンが周囲を確認する。
「雨が降ってからだ」
この辺りで最後に降った雨は三日前。
「三日以内?」
「そうなる」
全員が黙った。
四か月。
そう思っていた距離が。
さらに縮まる。
「ディオルじゃないよね?」
セラが確認する。
「あいつはここまで来てない」
「別の人の可能性もある」
カイルが冷静に言う。
レグもすぐ頷いた。
「まだおとうさんって決めない」
でも。
声は少し弾んでいた。
◇
右の道は地図にない。
それでも、完全な獣道ではなかった。
石の階段が土の下に残っている。
古い保守路。
途中で一度崩れていたが、最近誰かが石をどかした跡があった。
「これ」
ハヤトが一つの石を指す。
表面に新しい擦れ。
「一人で動かした?」
「かなり重いぞ」
ユアンが眉を上げる。
「竜なら?」
レグが聞く。
「できるだろうな」
「おとうさんかも」
「まだ決めない」
自分で言ってから、レグは口元を押さえた。
「言いたくなる」
「そりゃなるだろ」
ハヤトも笑う。
さらに進む。
日が傾き始めた頃。
小さな石小屋が現れた。
扉は壊れている。
屋根も半分落ちている。
だが。
入口の横。
木の枝が数本まとめて置かれていた。
切り口が新しい。
「誰か使ってる」
セラが声を落とす。
クロが先に中へ入った。
少しして。
「ワン!」
普段ほとんど出さない強い声。
レグが駆け込む。
「クロ!」
ハヤトたちも続く。
中に人はいない。
だが。
壁際に毛布。
空になった水袋。
火を使った跡。
そして。
木の板。
表面に、乱雑な字が刻まれていた。
レグが止まる。
二本の線。
一度重なり。
また離れる。
「……おとうさん」
今度は。
誰も「まだ分からない」とは言わなかった。
印の下。
共通語で短い文。
カイルが灯りを近づける前に、レグが読んだ。
「《三日前》」
その次。
「《北の呼び声、まだ動く》」
そして最後。
レグの声が止まった。
ハヤトが横から見る。
そこには。
こう書かれていた。
《レグが来たなら、たぶん近い》
「……近い?」
セラが呟く。
レグは板へ手を置く。
文字はまだ新しい。
三日前。
ガルドは。
ここにいた。
◇
それだけではなかった。
木板の裏にも文字がある。
レグがひっくり返す。
今度は、少し長い。
《もしハヤトって奴もいるなら》
ハヤトが固まった。
「俺?」
セラとカイルまで同時にこちらを見る。
「なんでおとうさん、ハヤト知ってる?」
「俺が聞きたい」
レグが続きを読む。
《娘を止めるな》
一行。
《でも無茶したら殴って止めろ》
「どっちだよ!」
ハヤトが思わず声を上げる。
セラが笑いを堪えきれない。
さらに。
《セラって子が一緒なら、たぶんそっちに任せた方が早い》
今度はセラが止まった。
「私も?」
「おとうさん、知ってる」
「何で!?」
最後。
《詳しくは会ったら話す》
しばらく。
誰も喋らなかった。
最初に声を出したのはレグだった。
「近くにいる」
今度は。
希望だけではない。
三日前の文字。
自分たちの名前まで知っている。
そして。
会ったら話す。
レグの顔に、大きな笑みが浮かんだ。
「おとうさん、待ってる」
ハヤトは板の最後の一行を見る。
ガルドがどうして自分たちの名前を知っているのか。
それはまだ分からない。
ただ。
もう何年も前の足跡を追っているわけではなかった。
三日。
たった三日前。
同じ道を。
ガルドは歩いていた。




