4ヶ月前の声
水筒が地面に落ちた。
鈍い音を立てて転がり、セラの足元で止まる。
けれど、レグは拾おうともしなかった。
「四か月前?」
「ああ」
ディオルの答えを聞いても、すぐには次の言葉が出てこない。
三年前。
二年前。
少しずつ新しくなってきたガルドの痕跡。
それが一気に、四か月前まで近づいた。
「本当に?」
ようやく出た声は小さかった。
「間違いない」
「ガルドって名前だった?」
「本人が名乗った」
「竜?」
「ああ」
「どんな?」
質問が続く。
今度は誰も止めなかった。
ディオルも一つずつ答える。
「大柄で、よく喋る。左の肩に古い傷があった」
「元気だった?」
そこで、ディオルは少し考えた。
「少なくとも歩けていたし、俺と口論するくらいには元気だった」
「怪我は?」
「新しい大怪我はなかったと思う」
レグの肩から、ほんの少しだけ力が抜けた。
セラは落ちた水筒を拾ったが、すぐには渡さない。レグが聞き終わるまで、黙って持っていた。
「一人?」
「俺が会ったときはな」
「どこで?」
ディオルは遠くに見える巨大な石壁を指した。
「主環の外周。北側の保守区画だ」
「何してた?」
「調べてた」
「何を?」
「俺と同じものを」
レグの眉が寄る。
「同じ?」
「役目を戻す仕組みだ」
◇
少し先に、崩れた石柱の土台があった。
そこで一度足を止める。
ノイを休ませるためでもあったが、何よりレグが立ったまま聞き続ける話ではなかった。
全員が腰を下ろす中、ディオルだけはしばらく立っていた。
「四か月前、俺は主環の事前調査に来た」
まだ六枚の継ぎ片を作る前。
古い主環を動かす方法そのものを探していた時期だった。
「そこでガルドに会った」
「偶然?」
カイルが尋ねる。
「そうだ。向こうも驚いていた」
「ガルドは主環を調べてた?」
「ああ。俺よりずっと前からな」
ガルドが興味を持っていたのは、主環そのものを復旧する方法ではなかった。
後から足された《命令返し》。
名前や役目へ強制をかける仕組みが、どこから広がったのか。
それを追っていたという。
「それで喧嘩した?」
レグが聞く。
ディオルは否定しなかった。
「最初の日から」
「何日一緒にいた?」
「三日」
レグの目が少し大きくなる。
「いっぱい喋った?」
「嫌になるくらいな」
「おとうさんだから」
その返しだけはいつものレグだった。
だが、笑ってはいない。
「何で喧嘩したの?」
今度はセラが尋ねた。
ディオルは少し間を置く。
「俺は、主環を復旧すれば北東全体を立て直せると言った」
「ガルドは?」
「先に人を探せ、と」
「役目を受ける人?」
「ああ」
ディオルはそこで自嘲するように笑った。
「今のお前たちと同じことを言っていた」
役目は必要だ。
道も。
水も。
見張りも。
守る者も。
なくなれば困る。
そこまではガルドも否定しなかった。
「だが、誰もやらないなら古い登録を使えばいいと言った俺に、あいつは怒った」
レグが少し身を乗り出す。
「何て?」
「覚えてる」
ディオルの声が僅かに変わった。
「『道を残したいのか、人を道具にしたいのか、先に決めろ』」
レグが黙った。
ハヤトも、整備小屋の壁を思い出す。
《道を戻すのと》
《役目を戻すのを》
《一緒にするな》
同じ考えだった。
「それでディオルは?」
「言い返した」
「何て?」
「選ばせてる間に人が死んだらどうする、と」
ディオルは主環を見た。
「ガルドは、その答えを持ってなかった」
それは意外だった。
何でも知っているわけではない。
完璧な方法を持っていたわけでもない。
「分からん、と言ったよ」
ディオルは続ける。
「でも、分からないからって他人の答えまで決めるな、と」
ユアンが小さく息を吐く。
「それで三日も喧嘩してたのか」
「途中からは一緒に装置を調べてた」
「仲良くなった?」
レグが聞く。
「なってない」
「なってそう」
「なってない」
そこだけ妙に強く否定した。
◇
「じゃあ四か月前、ここからどこへ行った?」
レグは話を戻した。
今一番知りたいのはそこだ。
ディオルも分かっていた。
「北側の保守路だ」
主環の地図を出す。
大きな円を描く外周。
その北端から、一本だけ山のさらに奥へ伸びる細い道がある。
カイルが覗き込む。
「この道、北環の地図には途中までしかない」
「今はほとんど使われてないからな」
「ガルドはそこへ?」
「ああ」
「何がある?」
「俺は知らない」
ディオルは正直に答えた。
「昔は主環から別の地域へ繋がっていたらしい。今の地図じゃ、その先は山しかない」
「おとうさん、何か見つけた?」
「主環の記録に、同じ命令返しを使った痕跡がもっと北にあると言っていた」
「だから追った」
「ああ」
四か月前。
ガルドはさらに北へ向かった。
そこから先。
ディオルは会っていない。
「じゃあ今もそこに?」
レグが言いかける。
途中で止まった。
「……分からない」
自分で言い直す。
ハヤトは何も足さなかった。
四か月前まで生きていた。
それは確か。
でも今どこにいるかは、まだ分からない。
「うん」
レグは小さく頷いた。
それでも顔は、さっきまでと違っていた。
◇
「ガルド、レグの話した?」
セラが尋ねた。
レグがすぐディオルを見る。
「した」
「何て?」
「……かなりした」
「どれくらい?」
「三日のうち、半日は娘の話だった気がする」
レグが両手で顔を覆った。
「おとうさん……」
久しぶりに、セラが声を出して笑った。
ハヤトも堪えきれない。
「四か月前でも変わってないな」
「そこ笑わないで」
「いや、安心するだろ」
「ちょっとする」
顔を隠したまま認めた。
少し空気が緩む。
ディオルも、ようやく僅かに口元を緩めた。
「レグという名前も、そのとき聞いた」
その一言で。
レグの手が止まった。
「……知ってたの?」
「名前だけな」
「じゃあ、さっき何で分からなかった?」
「まさか本当に本人が来ると思うか」
ディオルは呆れたように言う。
「小さい竜だとは聞いてたが、今は人の姿だろ」
「何て言ってた?」
「それも聞くのか?」
「聞く」
即答だった。
ディオルは記憶を辿るように目を細める。
「『レグって娘がいる。今は俺よりよっぽどちゃんとしてる奴らと一緒にいる』」
ハヤトとセラが同時にレグを見る。
「それ俺たち?」
「多分」
レグは少し嬉しそうだった。
「それから」
ディオルが続ける。
「もしレグって名乗る竜がここまで来たら、行き先を隠すなって言われた」
今度こそ。
全員が黙った。
「……なんで?」
レグの声が小さくなる。
「俺も聞いた」
ディオルは当時のガルドの言葉を、そのまま思い出すように答えた。
「『来たなら、あいつが自分で来るって決めたんだろ』」
レグは動かなかった。
「『止めるな。ただ、危ないとはちゃんと言え』」
少し間を置き。
「『それでも来るなら、場所だけ教えてやれ』」
セラが持っていた水筒を、そっとレグへ渡した。
レグは受け取った。
今度は落とさない。
「おとうさん」
一言だけ。
怒っているようにも。
笑っているようにも聞こえた。
◇
休憩を終えて立ち上がる頃には、レグもいつもの歩き方へ戻っていた。
走り出しはしない。
だが、歩みは少しだけ軽い。
「レグ」
ハヤトが隣へ並ぶ。
「なに?」
「北の道、行く?」
「行く」
迷いはなかった。
ただ。
「でも先に主環」
「そうだな」
「ディオルのやつも止める」
少し前を歩いていたディオルが振り返る。
「まだ止めると決めたわけじゃない」
「レグは止める」
「お前が決めるな」
「じゃあ話す」
「それならいい」
二人とも譲っていない。
ハヤトは少し笑った。
四か月前。
ガルドとディオルも、こんな感じだったのかもしれない。
◇
夕方前。
一行は主環の外壁へ辿り着いた。
近くで見ると、とてつもなく大きい。
山そのものへ食い込むように石壁が続き、中央には六本の柱が並んでいる。
確認台と同じ六つの印。
だが、大きさは何倍もあった。
「ここから本番だ」
ユアンが装置を見る。
カイルはすでに古い文字を追っている。
セラも六本の柱を見上げた。
「昨日と同じ組み合わせでいけるかな」
「まず調べる」
ハヤトが答える。
「触る前に?」
「触る前に」
「成長した」
「毎回それ言う?」
レグは二人の会話を聞きながら、少し離れた場所へ歩いていった。
「レグ?」
「ここ」
外壁の端。
人の胸ほどの高さ。
二本の線が刻まれていた。
重なり。
また離れる。
ガルドの印。
その下には。
まだ新しさの残る、小さな文字があった。
カイルが近づく必要もなかった。
共通語だった。
レグが自分で読む。
「《北へ行く》」
その次。
「《来るなら、自分で決めろ》」
最後の一行を見て。
レグの口元が少しだけ上がった。
「言われなくても決める」
そして。
ガルドの印の横へ、自分の指をそっと当てた。




