追いついた背中
翌朝、整備小屋を出て一時間もしないうちに、クロが足を止めた。
道の中央。
昨夜の雨で柔らかくなった土に、一人分の靴跡が残っている。
昨日まで何度も見てきたものより、輪郭がはっきりしていた。
「新しい」
レグがしゃがむ。
クロも鼻先を近づけ、そのまま北東を見る。
「どれくらい?」
ハヤトが尋ねると、ユアンは足跡の端を確認した。
「夜露が溜まる前だな。昨日の夕方以降」
「近いね」
セラが言った。
ノイは何も言わなかった。
けれど、さっきまでより歩く姿勢が少し固くなっている。
「ノイ」
「大丈夫です」
「まだ何も聞いてないよ」
「あ……」
セラに言われ、ノイが少し困った顔をする。
「先に言っちゃいました」
「なら本当にきつくなったときも言って」
「はい」
そのやり取りを見てから、ハヤトは前を向いた。
近い。
今度こそ、本当に追いつくかもしれない。
だが誰も走らなかった。
◇
昼前になると、山道は緩やかな下りへ変わった。
遠くに巨大な石柱が何本も見える。
半分は折れ、残ったものも上部が欠けていた。
「何あれ?」
レグが見上げる。
「昔の信号柱だ」
ユアンが答える。
「環路同士で異常を知らせるためのもの。監視塔より長い距離へ飛ばせたらしい」
「今は?」
「見ての通り」
壊れている。
けれど近づくにつれ、そのうち一本だけ状態が違うことに気づいた。
根元に足場が組まれている。
新しい縄。
工具箱。
そして。
人がいた。
一人。
柱の根元にしゃがみ込み、黒灰色の部品を外している。
ノイの足が止まった。
「……ディオルさん」
男も声に気づいた。
ゆっくり振り返る。
五十前後。
灰色が混じった髪を後ろで短く束ね、細身の身体には北環の作業着を着ている。
疲れているのは遠目でも分かった。
だが。
ノイを見た瞬間。
「ノイ?」
手から工具が落ちた。
「なんでここにいる」
その声には、本気の驚きがあった。
ノイの表情が揺れる。
「……それ、私が聞きたいです」
ディオルが立ち上がる。
「命令は?」
「切れました」
「主環はまだ起動してないぞ」
「知ってます」
「じゃあどうやって――」
そこで初めて、ディオルの視線がハヤトたちへ向いた。
ユアンで止まる。
「西路?」
「ユアンだ」
「お前が解除したのか?」
「俺じゃない」
ユアンはハヤトを顎で示した。
ディオルの視線が移る。
「こいつが認証を越えた」
「……何?」
「リドもノイも解除した」
ディオルの顔から驚きが消えない。
ハヤトはそれより先に聞いた。
「リドがおかしくなったの、分かってたんだよな」
空気が止まる。
ディオルは否定しなかった。
「ああ」
ノイが俯く。
「戻れば解除できたんですよね」
今度は彼女自身が聞いた。
ディオルの表情が苦くなる。
「できた」
「指定技師、ディオルさんだったから」
「ああ」
「じゃあ、どうして」
責める声ではない。
むしろ静かだった。
それが余計に重かった。
「どうして戻ってくれなかったんですか」
ディオルはしばらく答えなかった。
風が折れた石柱の間を抜けていく。
「主環まで進めば、仮に与えた役目はまとめて解けるはずだった」
「はず?」
レグが反応した。
ディオルは彼女を見る。
「ああ。確証はなかった」
「リド置いてったときは?」
「成功すると考えていた」
「ノイ置いてったときは?」
今度は返事が遅れた。
「……危険があると分かっていた」
ノイが目を閉じる。
ディオルは続けた。
「だが戻れば二日以上失う。主環はもう目の前だった」
「だから置いてった?」
レグが聞く。
「ああ」
「本人が戻りたいか、聞いた?」
ディオルは答えられなかった。
レグもそれ以上は言わなかった。
◇
「お前がやったことを責めに来ただけじゃない」
ユアンが前へ出る。
「何をしようとしてるのか聞きに来た」
「北環で聞かなかったのか?」
「概要はな」
「なら分かってるだろ」
「分かってるから聞いてる」
ユアンの声は低かった。
「命令返しを六枚も持って、主環で何をする」
ディオルは視線を逸らさない。
「役目を戻す」
「誰に?」
「今も登録が残っている者へ」
「本人が望まなくても?」
「必要なら」
その一言で、レグの眉が寄った。
ハヤトも口を挟む。
「道を直したいのは分かる。でも、何でそこまで急ぐ?」
ディオルは壊れた石柱を見上げた。
「これだけじゃない」
北東の環路は、何十年も少しずつ壊れてきた。
水を送る場所。
崩落を知らせる場所。
山道を冬の間閉じる場所。
危険な獣が増えたとき、集落へ知らせる場所。
「今年止まった場所だけで十一ある」
「十一……」
「北環の技師は二十二人。まともに古い系統を触れるのは、その半分もいない」
ユアンは何も言わない。
同業だからこそ、その数字の意味が分かるのだろう。
「直しても終わらない。次の場所が止まる。人を送っても、その人間が死ねば終わりだ」
ディオルの声に怒鳴るような強さはない。
疲れていた。
「昔は違った」
「役目があったから?」
カイルが聞く。
「ああ。誰かが道を見た。誰かが水を守った。誰かが記録を残した。仕組みと人が繋がっていた」
「選んで?」
セラの問いに、ディオルがこちらを見る。
「最初はそうだったのかもしれない」
「ならそこまで戻せばいいんじゃない?」
「どうやって」
返事は早かった。
「今の人間に、何十年も忘れられた役目を一から覚えろと言うのか? 村を捨てて山へ入れと? 危険な道を毎日歩けと?」
「少なくとも聞くことはできる」
「聞いてきた」
ディオルの声が初めて強くなる。
「何年もな」
誰も来なかったわけではない。
だが足りなかった。
長く続かなかった。
危険。
収入。
家族。
それぞれに生活がある。
当然だった。
「だから選ばせるのをやめる?」
セラが静かに聞いた。
「道が死ぬよりましだ」
言い切った。
◇
しばらく、誰も話さなかった。
ディオルの言っている問題そのものは本物だ。
ここまで来る間にも、壊れた施設をいくつも見た。
人が死んだ道もある。
何もしなければ困る者がいる。
「俺が主環開けたら?」
ハヤトが言った。
全員がこちらを見る。
ディオルだけが意味を分かっていない。
「お前が?」
「役目の資格、越えられる」
「何の話だ」
「昨日、五つまで同時に通した」
「ハヤト」
セラが横から入る。
「確認台では、ね」
「分かってる」
ディオルがユアンを見る。
冗談かどうか確かめている顔だった。
「本当だ」
ユアンが答える。
「こいつは役目も職も資格も、使う条件なら越えられる」
「そんな能力があるわけ――」
「リドとノイの解除認証も、それで越えた」
ディオルが黙った。
ハヤトは続ける。
「主環を動かすために六つ必要なら、入るところまでは何とかできるかもしれない」
「六つ全部を一人で?」
「それはやらない」
自分でも即答だった。
確認台で見つけた言葉を思い出す。
《一つの名に集めるな》。
「俺たちで分ける」
レグが横から言った。
「レグは《呼ぶ》」
「私は《守る》」
セラ。
「俺は《残す》」
カイル。
「《運ぶ》は俺だ」
ユアン。
残った二つだけを、ハヤトが《自由》で越える。
ディオルは一人ずつ見た。
「……それで入口は開くかもしれない」
「なら強制する必要ない?」
レグが聞く。
「違う」
ディオルは首を振った。
「入口を開けるだけじゃ何も解決しない」
ハヤトも、それは分かっていた。
「俺たちが一回動かして終わりじゃ駄目ってことだろ」
「ああ」
「俺もそう思う」
今度はディオルが意外そうな顔をした。
「俺が毎回来るわけにいかないし」
「だったら――」
「でも」
ハヤトは言葉を重ねた。
「だからって、嫌がる人を役目に固定するしかないとは思わない」
「他に方法があるのか?」
「今から探す」
「そんな時間はない」
「本当に?」
「何?」
「今日じゃないと駄目なのか」
ディオルは口を閉じた。
「明日でも駄目?」
「……」
「十日後なら?」
「場所による」
「じゃあ全部が今すぐじゃない」
「だが放っておけば――」
「放っておかない」
ハヤトは壊れた石柱を見る。
「使えるものは使う。直せるところは直す。必要なら俺の力も使う」
それだけでは足りない。
だから。
「その間に、続けられる形を探す」
ディオルの眉間に皺が寄る。
「理想論だ」
「そうかも」
「失敗したら人が死ぬぞ」
「そっちも失敗してる」
ノイが顔を上げた。
ハヤトではない。
彼女の言葉だった。
「私とリドが」
ディオルの表情が止まる。
「主環が動けば戻るかもしれなかった。でも、戻らないかもしれなかった」
「ノイ」
「私、自分で試すって言いました」
「……ああ」
「でも、ああなるって知ってたら言わなかった」
ノイは震えていなかった。
「それでも、私が選んだことになりますか」
ディオルは答えなかった。
◇
長い沈黙のあと。
ディオルは足元に落とした工具を拾った。
「……主環まで、あと一日だ」
「行くの?」
レグが尋ねる。
「ああ」
「まだやる?」
ディオルは手にしていた黒い部品を見る。
残り四枚。
「分からない」
初めてだった。
ここまで迷わず進んできた男が、分からないと言った。
「だが主環は見る」
「それなら一緒に行く」
ハヤトが言う。
「信用してるのか?」
「してない」
「即答だな」
「でも逃げる気ないだろ」
「ない」
「じゃあ見えるところにいた方がいい」
ユアンが鼻で笑った。
「それは賛成だ」
ディオルはしばらくハヤトを見たあと、諦めたように息を吐く。
「好きにしろ」
「する」
レグが答えた。
「お前に言ってない」
「でも行く」
◇
昼食を取ってから、一行は再び歩き始めた。
今度はディオルがいる。
彼はノイへ何度か話しかけようとしたが、そのたびに言葉を飲み込んでいた。
ノイも自分からは何も言わない。
時間が必要なのだろう。
それでも、二人は同じ道を歩いている。
夕方。
山の向こうに、これまでとは比べものにならないほど大きな構造物が見えた。
岩山そのものを囲むような石壁。
そこから六方向へ延びる古い道。
「主環?」
レグが足を止める。
「まだ外周だ」
ディオルが答えた。
「本体はあの山の中にある」
レグはしばらく眺めていたが、ディオルの横顔を見てから聞いた。
「ねえ」
「何だ」
「ガルド知ってる?」
ディオルの足が止まった。
ハヤトも振り返る。
「なぜその名前を知ってる」
レグが自分を指す。
「おとうさん」
「……は?」
「レグのおとうさん。ガルド」
ディオルはレグを見つめた。
今までとは違う目だった。
「お前、名前は?」
「レグ」
その瞬間。
ディオルの表情がはっきり変わった。
「レグ……?」
「うん」
「竜で、レグ」
「そう」
ディオルが額を押さえた。
「なんだよ」
「なに?」
「いや……」
今度は。
小さく笑った。
「本当に来たのか」
レグが目を細める。
「何が?」
ディオルは彼女を見る。
「ガルドに会った」
誰も動かなかった。
レグの目が大きくなる。
「……いつ?」
「七年前じゃない」
ディオルの答えに、空気が変わる。
「いつ?」
レグがもう一度聞く。
ディオルは主環の山を見た。
「四か月前だ」
レグの手から。
持っていた水筒が落ちた。




