消えかけた火
翌朝、最初に起きたノイは、自分で立とうとしてセラに止められた。
「待って。まず座って」
「でも、もう歩けます」
「昨日も似たこと言って倒れたでしょ」
ノイは何も言い返せず、毛布の上へ座り直した。
水を飲ませ、少量の食事を取らせてから、セラは脈や顔色を確認する。手の傷も見たが、治癒術を使ったのは深く裂けた一か所だけだった。
「昨日よりはいい。でも元通りじゃないよ」
「分かってます」
「本当に?」
「……多分」
「そこは正直なんだ」
セラが少し笑う。
ノイも弱く笑った。
その様子を見ていたハヤトは、少し離れた壁にもたれる。昨夜より顔色は明らかにいい。とはいえ、すぐに山道を何時間も歩ける状態かと言われれば微妙だった。
ユアンも同じことを考えていたらしい。
「ここで待つ手もあるぞ」
第二環門には水もある。
非常用の食料も残っていた。
安全を確認できたこの場所で休み、ハヤトたちが戻ってくるのを待つ。それが一番無難ではある。
だがノイは首を横に振った。
「行きます」
「ディオルを止めるため?」
「それもあります」
そこでセラが尋ねた。
「ノイ。本当に行きたい?」
「え?」
「行かなきゃ、じゃなくて」
ノイが黙る。
昨夜まで彼女の頭には、《閉じる》しかなかった。
命令が消えたあとも、今度はディオルを追わなければならないと思っているのなら、形が変わっただけかもしれない。
「……怖いです」
しばらくして、ノイが言った。
「また同じことになったらって思うし、ディオルさんに会うのも少し怖い」
自分の手を見る。
「でも、聞きたい。どうして私たちを置いていったのか。それと……もう続けてほしくないって、自分で言いたいです」
セラは少しだけ表情を緩めた。
「じゃあ行こう」
「いいんですか?」
「無理したら止めるけどね」
「はい」
「あと歩くの遅くても謝らない」
「……はい」
今度の返事は、さっきより少し強かった。
◇
第二環門の正面扉は、ユアンの操作で開いた。
ハヤトの《自由》は使わなかった。
ノイに押しつけられていた命令を切ったことで、本来の保守操作が戻っていたからだ。
「普通に開くんだ」
レグが扉を見上げる。
「元々そういう仕組みだ」
ユアンが工具をしまう。
「じゃあ昨日のハヤトいらない?」
「昨日こいつが認証を越えなきゃ、解除するところまで入れなかった」
「じゃあいる」
「判定が早いな」
ハヤトが笑う。
扉の先へ進むと、止まっていた水路にも水が戻っていた。
岩壁の横を細い流れが走り、その音が通路へ響いている。
昨日までの静けさが嘘のようだった。
「こっちの方がいい」
レグが水を見ながら言う。
「何が?」
「音ある」
ハヤトも同感だった。
◇
ノイに合わせ、歩く速度はいつもより遅かった。
それでも誰も急かさない。
クロは先へ行きすぎることなく、何度も戻ってきてはレグの横を歩く。
昼前。
道が平らになったところで、一度休むことにした。
ノイは岩へ腰を下ろすなり息を吐いた。
「すみません」
「謝らないって言った」
セラから即座に返される。
「あ……」
「一回目」
「数えてるんですか?」
「今から」
ノイが困ったように笑う。
少しずつ、普通の表情が戻っていた。
ハヤトは水を飲みながら、ユアンへ尋ねる。
「ディオルって元々ああいう人なの?」
「俺はほとんど知らん」
「ノイは?」
名前を呼ばれた本人が顔を上げた。
「仕事には厳しいです。でも、嫌な人ではなかったです」
「リドを置いていったときも?」
レグの質問は遠慮がない。
ノイは少し考えた。
「あのときは……ディオルさん、本気で主環を起こせば全部戻ると思ってたんだと思います」
「ノイのときは?」
「……リドがおかしいって、もう分かってた」
だからこそ。
二人目まで進ませたことが、ノイの中でも引っかかっている。
「でも、焦ってたんです」
「何に?」
カイルが聞いた。
「北東の道が止まっていくことに」
冬になれば使えなくなる水路。
崩れても知らせが届かない道。
守る者のいなくなった集落。
北環には、修理の依頼だけが増えていた。
「人が足りない。部品も足りない。直しても、次に使う人がいない。それでディオルさん、ずっと言ってました」
「何て?」
「一度全部戻さないと駄目だって」
レグが首を傾げる。
「何を?」
「役目を」
ノイはそこで言葉を切った。
「昔みたいに、それぞれが自分の仕事をすれば道は戻るって」
「自分で選んだ仕事?」
「……そこを、途中から言わなくなりました」
ハヤトは何も言わなかった。
最初は。
役目を受けてくれる人を探した。
足りなくなった。
なら古い登録を使う。
応じない。
なら確実に応じるようにする。
少しずつ。
目的より手段の方が大きくなっていったのかもしれない。
◇
午後。
通路は再び外へ出た。
山の斜面に沿って、細い道が北東へ続いている。
「次の環門まで?」
ハヤトが尋ねる。
ユアンは地図を見る。
「本来なら明日の昼前だ」
「本来なら?」
「途中に整備小屋がある。そこから先の道次第だな」
その整備小屋が見つかったのは、日が傾き始めた頃だった。
石造りの小さな建物。
屋根は半分ほど新しい木材で直されている。
扉は開いたまま。
クロが先に近づいた。
匂いを確かめる。
尻尾が僅かに上がった。
「人いた?」
レグが聞く。
クロはそのまま中へ入る。
ハヤトたちも警戒しながら続いた。
最初に気づいたのはセラだった。
「火」
部屋の中央。
小さな炉に灰が残っている。
ユアンが手をかざす。
「……まだ温かい」
「え?」
ハヤトも近づく。
熱いわけではない。
だが完全には冷えていない。
「昨夜?」
カイルが聞く。
「遅くてもそれくらいだと思う」
全員がノイを見る。
彼女は室内を確認し、壁際に置かれた小さな金属の器を拾った。
「ディオルさんのです」
「分かるの?」
「自分で直して使ってるから」
器の持ち手。
片側だけ、別の金属で継いである。
「じゃあ」
レグが入口の向こうを見る。
「近い」
十二日あった差が。
ほとんどなくなっている。
「各門で作業に時間を使ったんだ」
ユアンが炉の横へしゃがむ。
「継ぎ片を現物に合わせて調整するなら、一枚につき何日かかかってもおかしくない」
ノイも頷いた。
「私たちがいたときも、リドのところで二日使いました」
「追いつけるな」
ハヤトが呟く。
レグの目が明るくなった。
だが、すぐ隣のノイを見て口を閉じる。
「走らない」
「誰も走るって言ってないよ」
「レグが思った」
「顔に出てた」
セラに言われ、レグは素直に頷いた。
◇
整備小屋を調べていると、カイルが奥の棚を動かした。
「これ……」
背面の石壁。
隠れていた場所に、小さな印が刻まれている。
二本の線。
一度重なり。
また離れる。
「おとうさん」
レグがすぐに駆け寄った。
ガルドの印だった。
監視塔で見つけたものより傷が浅い。
「またここにも来てる」
その下には短い文章がある。
カイルが汚れを払い、読み取る。
「共通語だな」
「読める?」
「ああ」
三行。
文字は大きく、少し雑だった。
「《道を戻すのと》」
次。
「《役目を戻すのを》」
最後。
「《一緒にするな》」
レグが黙った。
ハヤトも、その言葉を見つめる。
「ガルド、分かってたんだな」
七年前。
いや。
ユアンが傷の状態を確かめ、首を傾げる。
「待て」
「何?」
「これ、監視塔の印より新しいぞ」
レグが振り向く。
「どれくらい?」
「正確には言えない。でも七年前じゃない」
カイルも文字の溝へ灯りを当てる。
「確かに。汚れの入り方が違う」
「じゃあ、おとうさん二回来た?」
「可能性はある」
ハヤトの胸が少し高鳴る。
最後に確認されているガルドの痕跡は、三年前。
ミレアが見つけた金属片だった。
もし、この印がそれより後なら。
「もっと分かるものない?」
レグが壁の周囲を探す。
焦って触るのではない。
一つずつ。
やがて、印の横。
石の継ぎ目に薄い金属片が挟まっているのを見つけた。
「これ」
ユアンが抜き取る。
小さな整備札。
日付を記録するためのものだった。
「文字残ってる」
カイルが読む。
しばらくして。
「……二年前だ」
レグが動きを止めた。
「二年前?」
「ああ。この小屋の扉を補修した記録。担当名はない。でも――」
札の裏。
同じ二本の印が、小さく刻まれている。
ガルド。
二年前。
少なくとも。
その時点ではここにいた。
レグは金属札をじっと見ていた。
「三年前より新しい」
「ああ」
ハヤトが答える。
「一年、近づいた」
「うん」
レグは笑った。
大きくではない。
でも、嬉しさを隠そうとはしなかった。
◇
「もう一つある」
カイルが壁を見たまま言った。
ガルドの文章の下。
そこに、別の文字が書き足されている。
彫ったものではない。
黒い煤のようなもので書かれている。
新しい。
「ノイ」
呼ばれ、彼女が近づく。
文字を見た瞬間、表情が変わった。
「ディオルさんです」
「筆跡?」
「はい」
そこには一行。
《道だけでは、人は守れない》
レグが読み上げる。
「おとうさんに返事した?」
「多分」
ノイは苦しそうに文字を見る。
ディオルは。
ガルドの警告を見た。
知らなかったわけではない。
それでも、自分の答えを書き残した。
「考えが違う」
セラが言う。
「でも言ってること全部が間違いとも言い切れないな」
ハヤトは壁を見る。
道だけ直しても。
それを守る者が誰もいなければ、また壊れる。
水路だけ直しても。
使い続ける者がいなければ止まる。
そこまではディオルの言う通りだ。
問題は。
「守る人が必要だからって、守る人にしちゃうのは違う」
レグが言った。
ハヤトは頷く。
「そこだな」
ノイが少し俯いた。
「ディオルさん、分かってないわけじゃないと思うんです」
「なら、なんで?」
「分かってるから……余計に止まれなくなったのかもしれない」
自分がやっていることに問題がある。
でも。
他に方法が見つからない。
ここで止めれば、今までやったことまで全部無駄になる。
なら最後まで進んで、成功させるしかない。
そんな考え方もある。
「会わないと分からないな」
ハヤトが言った。
今度は誰も反対しなかった。
◇
その夜は整備小屋で休むことになった。
追いつけると分かったからこそ、無理に夜道を進まない。
ノイを休ませる必要もある。
夕食後。
レグはガルドの整備札を何度も見ていた。
「持ってく?」
ハヤトが聞く。
レグは少し迷ったあと、元の場所へ戻した。
「置いとく」
「いいの?」
「おとうさんがここに置いたから」
代わりに、紙へ印と日付を写していたカイルの記録を見る。
「こっちある」
「なるほど」
自分だけのものにしない。
ここへ来た証として、そのまま残す。
少し前のレグなら持っていったかもしれない。
「明日、追いつく?」
「分からない。でもかなり近い」
「うん」
レグは扉の外を見る。
暗い山道。
その先へ、一人分の新しい靴跡が続いていた。
クロも同じ方向を気にしている。
「ハヤト」
「ん?」
「急がない」
「うん」
「でも遅くもしない」
ハヤトは笑った。
「難しい注文だな」
「普通に行く」
「それならできそう」
炉の火が小さく揺れた。
昨夜までここにいた男を追って。
明日はさらに北東へ進む。
ガルドが二年前に残した言葉と。
ディオルがつい最近返した言葉。
二つを背にしたまま。
ふと気になったのですが、皆さんの好きなキャラコメントもらえると嬉しいです!




