閉じる手の先
第二環門が見えたのは、リドと別れてから四時間ほど進んだ頃だった。
岩壁に挟まれた道の先。第一環門よりひと回り小さな石扉が、完全に閉じている。
それだけなら、おかしくはない。
問題は、その周囲だった。
「……静かすぎない?」
セラが足を止めた。
ハヤトにも同じ違和感があった。
山の中なのに、水の音がしない。
風もほとんど抜けてこない。
石扉の左右には細い溝があり、本来なら水が流れていたらしい痕跡が残っている。だが今は乾いていた。
ユアンが急いで壁際へ寄った。
「ここまで閉じてるのか……」
「何が?」
「排水と通気だ。本来、《閉じる》を動かしてもここは残す」
カイルも古い文字を探し始める。
「全部閉じたら駄目?」
「駄目に決まってる。閉じるのは道や境界だ。中にいる人間まで密閉してどうする」
レグの顔が変わった。
「ノイ、中?」
「可能性はある」
クロが石扉ではなく、その右側へ走った。
壁の下。
人一人が屈めば通れそうな小さな換気口がある。
そこまで金属板で塞がれていた。
クロが鼻先を近づけ、低く鳴く。
「いる」
レグがすぐしゃがみ込んだ。
「クロ、分かる?」
鼻を何度か動かしたあと、クロは金属板を前脚で掻いた。
ハヤトも近づく。
「ノイ!」
壁の向こうへ声を張る。
返事はなかった。
もう一度。
「誰かいるなら返事して!」
しばらく待つ。
やがて。
ごん。
内側から、何かがぶつかる音がした。
「いる!」
レグが立ち上がる。
さらに。
ごん。
ごん。
一定の間隔。
助けを求めて叩いている音ではない。
「何してるんだ?」
ユアンの表情が険しくなる。
「中で何か動かし続けてる」
◇
正面の扉には、《閉じる》の印が一つだけ刻まれていた。
その横には、見覚えのある黒い継ぎ片。
「二枚目」
カイルが呟く。
ディオルが持ち出した六枚。
一枚はリドのいた扉。
そして二枚目がここ。
「触る前に中へ空気通せない?」
セラが換気口を見る。
「先にそっちだな」
ユアンが金属板を調べる。
固定しているのは四本の太い留め具だったが、二本は錆びつき、工具を入れても動かない。
「切る?」
レグが聞く。
「切れなくはないが、下手に歪めると開口ごと塞ぐ」
ユアンが工具を変えてもう一度試す。
やはり動かない。
その横でセラがしゃがんだ。
「これ、金属だけ熱くしたら?」
ユアンが手を止める。
「できるのか?」
「周りの石まで割らない程度なら」
「やってみてくれ。留め具の根元だけだ」
セラが右手を向ける。
小さな炎が灯った。
戦闘で使うような大きな火ではない。細く絞られた炎が、錆びた留め具の一本だけを包む。
ハヤトは横から見ていた。
治癒術を使っているときとは全然違う。
火の強さを上げたり下げたりする判断に、ほとんど迷いがない。
「今」
セラが炎を消す。
ユアンがすぐ工具を差し込んだ。
一度。
二度。
固まっていた留め具が回る。
「動いた」
「もう一本もやる?」
「ああ。同じくらいで頼む」
「分かった」
二本目も外れる。
残りは工具だけで動かせた。
金属板を五人でずらすと、中から湿った空気が一気に流れ出した。
「……ひどい」
セラが鼻を押さえる。
空気が淀んでいる。
長時間、人がいる場所ではない。
「ノイ!」
ユアンが換気口へ顔を近づけた。
「聞こえるか!」
音が止まった。
数秒。
「……誰?」
微かな声。
「ユアンだ! 西路の!」
「ユアン……?」
「そこ動くな! 今開ける!」
返ってきた言葉は。
「開けちゃ駄目」
だった。
全員が止まる。
「閉じないと」
中から、また音がする。
ごん。
「閉じないと、駄目だから」
ごん。
どうやらノイは、何かを閉じる操作を繰り返している。
レグの表情が曇った。
「リドと同じ」
「ああ」
ただし、さらに悪い。
リドは見張ること以外を後回しにしていた。
ノイは。
閉じられるものを、全部閉じようとしている。
◇
「正面から認証を解除する」
ユアンが扉へ向かった。
「ただ、いきなり開けるな。中の状態を先に見る」
「俺は?」
ハヤトが聞く。
「待て」
「はい」
返事が早すぎたのか、ユアンが少しだけこちらを見た。
「本当に待つようになったな」
「最近ずっと言われる」
カイルが扉の古い文字を確認している間、ユアンは黒い継ぎ片の構造を追う。
レグは換気口の前に座った。
「ノイ」
返事はない。
「レグ」
「……誰?」
「レグ」
「そう……」
「お水ある?」
少し間があった。
「いらない」
「いる」
「閉じないと」
会話が戻ってしまう。
レグは困った顔でセラを見る。
セラが隣へしゃがんだ。
「ノイ。聞こえる?」
「……うん」
「今、息苦しくない?」
「大丈夫」
「頭痛い?」
返事が遅い。
「……少し」
「気持ち悪い?」
「少し」
セラの顔が険しくなった。
「早く開けた方がいい」
「同感だ」
ちょうどユアンも立ち上がった。
「構造はリドのところと近い。ただ、こっちは命令が一つじゃない」
「何個?」
「見えるだけで四つ」
ハヤトが嫌な顔をする。
「《閉じろ》が四つ?」
「排水、通気、扉、補助路。それぞれ別に押してる」
「全部閉じさせてるのか」
「そういうことだ」
カイルも文字を読み終えたらしい。
「解除手順は残ってる。ただし、やっぱり指定技師だけ」
全員がハヤトを見る。
「今度は俺でいい?」
「今度はいい」
ユアンが場所を空けた。
◇
継ぎ片へ手を置く。
拒絶。
《指定技師ではない》。
そこだけなら、もう慣れている。
《自由》で越える。
「入った」
「まず対象を探せ」
リドのときと同じ。
ただ今回は、奥へ伸びる線が多い。
扉。
水路。
換気口。
さらに別の通路。
その中心に。
一人。
「ノイ、いた」
「命令を切る前に、どれだけ重なってるか見えるか?」
ハヤトは集中する。
四本。
全部が同じ相手へ向かっている。
《閉じろ》。
《開けるな》。
《閉じた状態を保て》。
《離れるな》。
「……これ、しつこいな」
「一つずつ外す」
ユアンが言う。
「一気に切るな。何が連動してるか分からん」
ハヤトは最初の一本を選んだ。
通気。
「これから」
解除する。
ごん、と鳴っていた音が一度止まった。
中で。
「……あれ?」
ノイの声がする。
「まだ動かないで!」
セラが換気口から呼びかける。
二本目。
排水。
解除。
石壁の奥から、低い音がした。
どこかで水が流れ始める。
「戻った」
ユアンが短く息を吐く。
「次」
三本目。
補助路。
切る。
最後。
正面の扉。
「これを外したら、ノイへの命令自体はほぼ消える」
「やる」
ハヤトが解除しようとした、その瞬間。
「待て!」
カイルの声。
手を止める。
「何?」
カイルは扉の下側に刻まれた文字へ灯りを当てていた。
「ここ。《閉じる》が解除されたとき、先の門も開くって書いてある」
「先?」
「この扉の向こう。もう一枚ある」
ユアンも確認する。
「……本当だ」
「開いたらまずい?」
「分からん」
「じゃあ今は?」
「ノイだけ解除して、扉の機構は閉じたまま残す」
ハヤトは少し考えた。
「別々にできる?」
「今のお前なら線が見えてるんだろ?」
「ああ」
「なら、人へ向かってる方だけ切れ」
同じ《閉じる》でも。
扉を閉じている仕組みと。
人へ「閉じ続けろ」と命令している仕組みは別。
「分かった」
ノイへ向かう線だけを選ぶ。
切った。
◇
しばらく何も起きなかった。
「ノイ?」
セラが呼ぶ。
返事はない。
レグが不安そうに換気口を覗く。
「寝た?」
その直後。
「……水」
中から声がした。
さっきまでとは違う。
「水、飲みたい……」
セラの表情が緩む。
「今持っていく」
「でも扉」
レグが正面を見る。
命令は解除した。
けれど扉そのものは閉じたまま。
「横に保守用の入口があるはず」
ユアンが図面を探す。
すぐ見つかった。
換気口から数歩離れた壁。
石に紛れて、小さな扉がある。
ただし。
「資格は?」
ハヤトが聞く。
「保守技師」
「はいはい」
手を置く。
拒絶。
越える。
小さな扉が開いた。
「便利」
レグが言う。
「最近俺もそう思い始めた」
◇
中は狭かった。
セラが最初に入る。
ハヤトとレグが続き、ユアンたちは入口側に残って装置を見ることになった。
奥の制御室。
ノイは床に座っていた。
二十代後半ほど。
短い髪は汗で額に張りつき、両手には擦り傷がいくつもある。
目の前には四本の操作棒。
全部《閉》の位置へ押し込まれていた。
「ノイ?」
セラがゆっくり近づく。
技師はぼんやり顔を上げた。
「……セラです。仲間と助けに来た」
「助け……」
「水飲める?」
「うん」
今度は素直だった。
セラは一気に飲ませず、少しずつ渡す。
ハヤトは操作棒を見る。
何度も押した跡がある。
手の傷は、そのせいだろう。
レグが隣にしゃがんだ。
「閉じなくていい」
ノイがレグを見る。
「……いいの?」
「うん」
「でも、閉じる役目を……」
「もうない」
レグは短く答えた。
「ハヤトが切った」
「ハヤト?」
ノイの視線が動く。
「俺」
「指定技師……?」
「違う」
「じゃあどうして」
「それはあとでいいよ」
セラが止める。
「今は休んで」
ノイはまた水を飲んだ。
それから、自分の手を見た。
「何日……?」
「ここに来た日、覚えてる?」
「ディオルさんと……リドと……」
少しずつ記憶を辿る。
「リドは?」
「無事。バルクさんと北環に戻る」
ハヤトが答えると、ノイは目を閉じた。
明らかに安心した。
「よかった……」
「ディオルは?」
レグが尋ねる。
その名前で、ノイの表情が変わった。
「先へ行った」
「一人?」
「……うん」
「なんでノイ置いてった?」
責める声ではなかった。
純粋に分からないという顔。
ノイはすぐには答えなかった。
「主環を起動すれば」
掠れた声で続ける。
「途中で与えた仮の役目は、全部解除されるって」
ハヤトが眉を寄せる。
「ディオルが言った?」
「うん」
「本当にそうなる?」
ノイは首を横に振る。
「分からない」
ユアンならどう答えるだろう。
ハヤトは入口の方を見る。
「ディオルも分からなかった?」
「……多分」
「それでも行った」
「主環を戻す方が先だって」
ノイは手を握った。
「このままじゃ、北東の道が全部死ぬから」
必要だから。
急いでいるから。
最後には全部元に戻せると思ったから。
だから途中で誰か一人を残しても進む。
「リドもノイも、自分で試すって言った?」
レグが聞いた。
「言った」
「こうなるって知ってた?」
「知らなかった」
「ディオルも?」
「……最初は」
その答えに。
ハヤトは少しだけ引っかかった。
「最初は?」
ノイが顔を上げる。
「リドのところで」
声が低くなる。
「変だって、分かってた」
部屋が静かになった。
「リドが扉の前から動かなくなった。でもディオルさんは、主環を起動すれば戻るって……」
「それで次にノイが試した?」
「私がやるって言った」
「止めなかった?」
ノイは首を振った。
「止めなかった」
ディオルは何も知らずに二人を置いていったわけではない。
少なくとも二人目の時点では。
危険を知っていた。
それでも、先へ進んだ。
◇
ノイを外へ運び出し、休ませる。
治癒術でどうにかする状態ではないと、セラは判断した。
水。
食事。
休息。
手の擦り傷だけを処置する。
「ディオル悪い人?」
少し離れたところで、レグがハヤトに聞いた。
ハヤトは答えに迷った。
「やってることは、かなり嫌だな」
「でも道直したい」
「ああ」
「リドとノイも自分でやるって言った」
「ああ。でも、途中でやめられなくなることまでは選んでない」
レグが黙る。
「そこが嫌」
「俺も」
ディオルに事情はある。
北東の道を守りたい。
古い仕組みを戻したい。
誰かを苦しませること自体が目的ではないのだろう。
それでも。
目的が正しければ、途中で誰かの選択を奪っていいわけではない。
「会ったら聞く」
レグが言った。
「うん」
「怒るかは、そのあと」
「お父さんのときと逆だな」
レグは少し考えた。
「おとうさんは先に怒る」
「そこは決定なんだ」
「うん」
◇
夕方。
ノイはまだ歩ける状態ではなかった。
今夜は第二環門で休むことになった。
ユアンとカイルは、ディオルが残した二枚目の継ぎ片を調べている。
残りは四枚。
そしてディオルは、この先を一人で進んだ。
セラは眠ったノイのそばに座り、時々呼吸を確かめている。
ハヤトが隣へ行くと、セラが小声で言った。
「今日は《自由》、平気だった?」
「うん。資格一個ずつだったから」
「頭痛は?」
「ない」
「気持ち悪くも?」
「ない」
セラはようやく頷いた。
「ならよし」
「毎回確認する?」
「しばらくは」
「分かった」
少しの沈黙。
ハヤトは眠っているノイを見る。
「俺の《自由》ってさ」
「うん」
「役目を押しつけられたとき、俺自身なら拒めた」
「うん」
「でもノイとかリドを直接どうにかできるわけじゃない」
「それでいいんじゃない?」
意外な返事だった。
「そう?」
「ハヤトが触ったら、何でも自由にできる方が怖いよ」
セラはノイから目を離さず続ける。
「その人のことまでハヤトが決められるってことでしょ?」
「……確かに」
「入口を開けられるくらいでちょうどいいんじゃない?」
ハヤトは少し笑った。
「前にも似たこと言われたな」
「じゃあ覚えて」
「はい」
直接誰かを自由にする力ではない。
ただ。
閉じられた場所へ入れる。
使えない仕組みに手を伸ばせる。
解除する方法が残っているなら、その入口まで届く。
その先は。
一緒に考えるしかない。
◇
夜が深くなった頃。
ノイが一度だけ目を覚ました。
「ハヤトさん」
呼ばれ、近づく。
「どうした?」
「ディオルさんに会ったら」
まだ声は弱い。
「伝えてほしいことがある」
「何?」
ノイは少しだけ迷った。
「私たちが失敗したんじゃないって」
「……」
「仕組みの方が、おかしいって」
自分が弱かったから。
役目を受けきれなかったから。
そう思っていたのかもしれない。
「自分で言った方がいい」
ハヤトが答えると、ノイが目を瞬いた。
「戻ってきたら、言えばいい」
「戻って……」
「ディオルを連れて戻るかは分からないけど」
少し笑う。
「少なくとも、話はする」
ノイもほんの少しだけ笑った。
「お願いします」
もう一度目を閉じる。
外では、レグとクロが見張りをしていた。
その向こう。
第二環門よりさらに深い道が続いている。
ディオルは一人。
残り四枚の継ぎ片を持って。
主環へ向かっている。




