残された役目
男は壁際に座ったまま、開いた扉にも反応しなかった。
「見張らないと」
視線は通路の奥へ固定されている。
服は汚れ、頬もかなり痩せていた。腰には北環工房の工具袋が残っているが、半分ほど中身が抜けている。
セラが近づこうとすると、男の肩が僅かに動いた。
「来るな」
掠れた声だった。
「道を空けられない。俺が見てないと……」
「怪我してる?」
セラはその場で足を止め、刺激しないよう少し声を落とした。
「怪我は……ない」
「最後にちゃんと食べたのは?」
「必要ない」
その返事で、セラの顔が変わる。
「必要ないわけないでしょ」
男は答えない。
見張る。
それ以外が、頭から抜け落ちているようだった。
ユアンが床に落ちた技師章を拾う。
「北環の章だ。名前は……リド・カルナ」
バルクが息を呑んだ。
「リドか」
「知ってる?」
ハヤトが尋ねると、バルクは険しい顔で頷いた。
「ディオルと一緒に出た三人の一人だ。若いが、継ぎ片の調整はかなりできる」
なら。
ディオルではない。
「残り二人は?」
カイルの問いに、リドの瞳が僅かに揺れた。
「先へ行った」
「ディオルも?」
「……行った」
「いつ?」
「俺が、ここを見張ってから」
「何日前?」
「分からない」
セラが小さく息を吐く。
十二日前に北環を出た。
ここまでの道程を考えても、数日は経っているはずだ。
「水は?」
リドが通路の脇を指す。
小さな水瓶が置かれている。
中身はほとんど空だった。
食料袋もある。
だが、開けられた形跡は僅かしかない。
「食べる必要まで忘れさせるのか」
ハヤトが黒い継ぎ片を見る。
「忘れてるというより」
ユアンは装置から目を離さなかった。
「優先順位を潰されてるんだろうな。《見張る》より下のことを、全部どうでもいいと思わされてる」
役目そのものを知識として与えるわけではない。
ただ、それを最優先にする。
だから恐ろしい。
「これ、レグの名前に来てたやつと似てる?」
レグが聞くと、カイルは少し考えた。
「仕組みの考え方は近いと思う。でも同じものとは言い切れない」
古い名を呼ばれ続け、自分を役目として認識させられる。
今回のリドは、扉を通った瞬間に《見張る》を直接押しつけられた。
入口は違う。
結果は似ていた。
「外せる?」
レグがハヤトを見る。
「俺が?」
「さっきハヤト、自分のは切った」
「自分のはな」
そこが問題だった。
《自由》はハヤト自身にかかった制限を越える。
リドの中へ入り込んで、同じことができるとは限らない。
「直接はやめた方がいい」
ユアンも同じ判断だった。
「こいつの頭の中に何が起きてるか分からん。お前が触ったからって、他人にかかった命令まで消せるとは限らない」
「じゃあどうする?」
「命令を入れた側から解除する」
ユアンは扉脇の黒い継ぎ片へ向き直った。
「こいつには、命令を返す機能がある。なら普通は、解除や更新をするための操作もある」
「普通は?」
「作った奴がまともなら」
誰も安心できなかった。
◇
リドのそばにはセラとレグが残った。
ハヤト、カイル、ユアン、バルクは扉の装置を調べる。
クロはリドから少し離れた場所に伏せ、静かに様子を見ていた。
「これか」
しばらくして、ユアンが黒い部品の裏側に小さな板を見つける。
三つの記号。
《与える》。
《重ねる》。
そして。
「これは《返す》か?」
カイルが文字を読み直した。
「いや……《解く》に近い」
「解除ある?」
ハヤトが覗き込む。
「多分な。ただし触れない」
ユアンが指先を近づけたところで、黒い板が赤く光る。
「指定技師のみ」
「ディオル?」
「おそらく」
バルクの顔が曇った。
「ここまで個人に固定していたのか」
リドが自分で解除できない理由も、それなら説明がつく。
「じゃあ俺だな」
ハヤトが言うと、ユアンは今度は止めなかった。
「資格だけ越えろ。解除操作は俺が言う」
「了解」
黒い板へ手を置く。
拒絶は一つ。
《指定技師ではない》。
《自由》を重ねる。
すぐに消える。
「入った」
「そこで止まれ」
「止まってる」
ユアンが内部の光を確認する。
「右の流れは命令の追加。触るな。真ん中は上書き」
「じゃあ左?」
「まだ」
ハヤトは手を動かさず待つ。
以前なら、感覚でやっていたかもしれない。
今はユアンがいる。
読むカイルもいる。
急ぐ理由はあっても、勝手に進める理由はない。
「左」
ようやく指示が出る。
「そこへ魔力を少し流せ」
「少しって?」
「本当に少しだ」
「その説明一番困るんだけど」
「指先で灯りつけるくらい」
「最初からそう言って」
弱く流す。
黒い板の左側だけが白く変わった。
「通った」
ユアンが息を吐く。
「次に対象を選ぶはずだ」
「どうやって?」
返事より先に。
ハヤトの頭へ、いくつかの反応が伝わってきた。
扉。
役目。
そして。
一つだけ、奥へ細く伸びる線。
「……リド?」
「何か分かる?」
「一人だけ繋がってる」
「それだ」
ハヤトはその線を選ぶ。
今度は慎重に。
押しつけるのではない。
切る。
「解除するぞ」
「やれ」
ハヤトが意識を向けた。
白い光が走る。
その瞬間。
◇
リドの身体が大きく揺れた。
「リド!」
セラが支える。
男は頭を押さえ、初めて通路から視線を外した。
「……何だ」
呼吸が荒い。
周囲を見る。
レグ。
セラ。
クロ。
そして開いた扉。
「俺……」
「座ってて」
立とうとするリドを、セラが止めた。
「何日ここにいたか分かる?」
「……」
リドは額へ手を当てた。
「ディオルさんと、ノイが先に……俺はここで……」
「見張れって言われた?」
レグが尋ねる。
「違う」
意外な答えだった。
「俺が扉を試した」
ハヤトたちが動きを止める。
「自分で?」
「ああ」
リドはまだ混乱していたが、少しずつ言葉が戻ってくる。
「新しい継ぎ片を入れたあと、誰かが通らないと確認できない。俺がやるって……」
「命令が返るって知ってた?」
ユアンの声が低くなる。
「《見張る》の補助が入るとは聞いた。でも……こんなのじゃ……」
リドは両手を見る。
「俺、何日……?」
「北環を出てから十二日」
バルクが答える。
リドの顔から血の気が引いた。
「十二……?」
「ここまで来た日を考えれば、ずっと十二日じゃない。でも数日はいる」
「ディオルたちは?」
「まだ戻ってない」
リドが急に立ち上がろうとする。
「行かないと」
足に力が入らず、そのまま崩れた。
セラが支える。
「だから今は無理!」
「でもノイが――」
「先にあなたが倒れる」
セラは彼の目を見る。
「水飲んで。少し食べて。それから話して」
「そんな場合じゃ」
「そんな場合です」
口調は強い。
けれど治癒術をすぐ使わず、まず水を渡した。
リドは拒もうとしたが、自分でも喉の渇きに気づいたのだろう。
少しずつ飲む。
「ゆっくり」
セラが横で見ている。
レグはその様子を黙って待った。
◇
話を聞けるようになったのは、一時間ほどあとだった。
リドは薄いスープを口にし、ようやく顔色が少し戻っていた。
「ノイって?」
カイルが尋ねる。
「ノイ・レスタ。俺と同じ北環の技師です」
三人。
ディオル。
リド。
ノイ。
「ここで一枚使った」
バルクが確認する。
「はい」
「残り五枚は?」
「ディオルさんが持ってます」
「何のために主環へ持っていく?」
リドはすぐ答えなかった。
言いづらいのではない。
何から説明すればいいのか迷っているようだった。
「主環を……戻すためです」
「戻す?」
ハヤトが聞く。
「昔みたいに、六つの役目を全部使える状態にする」
それだけなら。
悪い話には聞こえない。
だが、持っているのは命令返しの継ぎ片だ。
カイルもそこを聞いた。
「どうして強制用の部品が必要なんだ?」
「今の人間じゃ、六つ揃わないからです」
部屋が静かになった。
「じゃあ」
セラがゆっくり言う。
「役目を持ってる人がいないなら、持たせる?」
リドは目を伏せた。
「そうです」
バルクの声が低くなる。
「誰に」
「主環に残っている登録者へ」
「登録者?」
「古い名や印が残ってる人間や……竜です」
レグの表情が変わった。
「竜も?」
「主環には古い記録が残ってる。ディオルさんは、それを呼び戻せるって」
「呼び戻す?」
レグの声が硬くなる。
リドも自分の言葉の危うさに気づいたらしい。
「身体を戻すって意味じゃない。役目を……」
「役目を本人に戻す?」
「……はい」
「本人が嫌でも?」
答えはない。
それで十分だった。
◇
「ディオルは、なぜそこまで主環を動かしたい?」
ユアンが尋ねた。
リドはしばらく黙ったあと、壁にもたれた。
「北東の道が死に始めてるからです」
「道?」
「中継所が止まって、守り手も減った。水路も、封鎖も、記録も。直す人間も足りない」
それは今まで見てきた。
古い仕組みは壊れている。
使い方を知る者も減っている。
放置した結果、旅人が死んだ場所もある。
「ディオルさんは、誰かが役目を引き受けなきゃ全部なくなるって言ってました」
「だから無理やり?」
ハヤトが聞く。
「最初からそうするつもりじゃなかったと思う」
リドの声には迷いがあった。
「最初は、受けられる人を探してた。でも誰も六つ揃えられなかった。そもそも古い役目を知ってる人が少ない。だから……」
「確実に動かす方へ行った」
セラが言葉を継ぐ。
塔と同じだった。
知らせても来ない。
なら、来させればいい。
役目を引き受ける者がいない。
なら、役目を返せばいい。
少しずつ。
便利な方へ。
確実な方へ。
最後には、選ぶ余地がなくなる。
「ディオル、悪い人?」
レグが尋ねた。
リドは困ったように顔を上げる。
「俺には……分かりません」
「レグもまだ分からない」
その答えに、リドが少し驚いた。
「でも」
レグは黒い継ぎ片を見る。
「これ嫌」
「……はい」
「だから止める」
単純だが。
今のところ、それで十分だった。
◇
「ノイは?」
ハヤトが話を戻した。
リドの顔がさらに曇る。
「この先の第二環門で、別の役目を試す予定でした」
「何の?」
「《閉じる》」
カイルが地図を開く。
ここから先。
主環へ向かう途中に、もう一つ門がある。
「いつ頃着く?」
ユアンが尋ねる。
「俺がここに残ったあと、半日くらいで着くはずです」
「数日前か」
「はい」
「もしそこでも同じ部品を使ってたら」
ハヤトは言葉を止めた。
今のリドと同じ状態になっている可能性がある。
レグが立ち上がった。
「行く」
すぐ。
そう言いかけた顔だった。
だが。
リドを見る。
セラを見る。
少し考える。
「でもリド置いてけない」
「俺は戻れます」
「歩けない」
「少し休めば――」
「今立てなかった」
レグに言われ、リドが黙る。
バルクが決めた。
「俺が残る」
「工房長が?」
ユアンが見る。
「ああ。リドを連れて北環へ戻る。こいつから詳しい記録も取らなきゃならん」
「主環は?」
「お前たちに任せる」
「六つの認証は?」
「確認台で分かっただろ。俺がいなくても足りる」
ハヤト、セラ、レグ、カイル、ユアン。
五人で六つ。
「本当にいいんですか?」
ハヤトが尋ねると、バルクはリドを見る。
「こっちも俺の仕事だ」
昨日。
責任者だから自分で主環へ行くと言った。
今は。
倒れた部下を連れて戻ることも、同じ責任だと判断したらしい。
「分かった」
ハヤトもそれ以上言わなかった。
◇
出発前。
バルクが一枚の金属札をユアンへ渡した。
「北環の工房長札だ。使える場所があるなら使え」
「俺に渡していいんですか?」
「ハヤトに持たせるより安心だ」
「なんで!?」
「分かる」
セラが頷く。
「分かる」
カイルまで。
レグも頷きかけたので、ハヤトは先に止めた。
「お前までやったら本気でへこむぞ」
「じゃあしない」
「優しい」
ようやく少し笑いが戻った。
リドは壁にもたれたまま、ハヤトたちを見る。
「第二環門でノイを見つけたら」
「連れて戻る」
ハヤトが答える。
「でもまず命令を切る」
「はい」
「ディオルは?」
リドは迷った。
「話を……聞いてください」
「最初からそのつもり」
「止めないんですか?」
「話してから止める」
ハヤトは少し笑った。
「たぶん」
セラがすぐ横から見た。
「最後の一言いらない」
「いや、内容によるだろ」
「なら『話を聞いて決める』でいいでしょ」
「それだ」
リドがほんの少しだけ笑った。
◇
五人と一匹は再び道を進んだ。
今度はバルクがいない。
代わりに。
追うものが一つ増えた。
ディオル。
ノイ。
そして五枚残った、命令返しの継ぎ片。
先頭を歩くクロが、通路の奥を見つめる。
その横でレグが弓を背負い直した。
「ハヤト」
「ん?」
「さっきのやつ」
「何?」
「命令外した」
「ああ」
「ハヤト、自分だけじゃなくてもできた」
「俺がリドを直接自由にしたわけじゃないけどな」
装置に入る資格を越えた。
解除する仕組みを使った。
それだけ。
「でもできること増えた」
「入口が増えただけだよ」
レグは少し考えてから笑った。
「入口いっぱい」
「そういうチートなのかもな」
「ちーと?」
聞き慣れない言葉に首を傾げる。
「何でもない」
ハヤトは前を見る。
通路のさらに奥。
第二環門がある。
そこにも誰かが残されているのなら。
今度は。
もっと早く見つけたかった。




