矢印の先
ガルドの印の下に刻まれた矢印は、迷いなく北東を向いていた。
レグはすぐには触れなかった。少し離れたところから何度も見て、それが本当に父親の印なのか確かめるように目を細めている。
「傷の古さ、分かる?」
ハヤトが尋ねると、ユアンは灯りを近づけた。
「正確には無理だ。ただ、今回塔を改造した連中より前なのは間違いない。七、八年前って話とも合うと思う」
北東の工房で噂になっていた時期。
古い仕組みを調べながら、怪我をしても止まらず、会う相手に娘の話をして回っていた竜。
噂だけだったものが、ようやく一本の線になった。
「おとうさん、ここ調べた」
レグの声は嬉しそうでもあり、少し悔しそうでもあった。
「なのに何も書いてない」
「ガルドらしいって言えば、らしいのかもな」
ハヤトが言うと、レグはむっとする。
「いっぱい喋るのに?」
「直接会った相手にはな」
「書くと短い」
「ありそう」
セラが小さく笑った。
カイルは印の周囲を見ていたが、やがて壁の下側で手を止めた。
「いや。短いだけで、何も残してないわけじゃない」
「ある?」
レグがすぐ隣へ寄る。
印から少し離れた場所に、浅い傷が続いている。汚れを払うと、古い文字が三行だけ現れた。
カイルがゆっくり読む。
「《ここは呼ぶだけだった》」
一行目。
ハヤトたちが見つけた、塔本来の機能と一致する。
「次は……《押し返す仕組みは後》」
ユアンの表情が変わった。
「ガルド、この時点でもう気づいてたのか」
最後の一行。
文字の一部が削れている。
カイルは角度を変え、しばらく黙った。
「《流れを追う。北環――》……その先がない」
「北環工房?」
セラが聞く。
「そうかもしれない。でも《北環》までしか読めない」
レグが矢印を見る。
「だから北東」
「可能性は高いな」
ガルドはここで、元の《知らせる》仕組みと、後から追加された強制の仕組みを見分けた。
そして壊さずに。
その流れを追った。
「おとうさんも、何でも壊してなかった」
レグが呟く。
西で首輪を切り、古い装置へ怒っていた父親。
ハヤトの中にも、力任せに突っ込んでいく竜という印象は強かった。
けれど実際には、残すものと壊すものを見ていたらしい。
「意外?」
セラがハヤトを見る。
「ちょっと」
「顔に出てる」
「レグには言うなよ」
「聞こえてる」
「近かったか」
レグは少し考えたあと、胸を張った。
「おとうさん、ちゃんとしてる」
「たまには?」
「たまにじゃない」
そこは娘として譲れないらしい。
◇
翌朝から、塔の周囲では首輪を外す作業が始まった。
ハヤトは《自由》を使わなかった。
昨夜のうちにユアンが首輪を調べ直し、塔からの強制命令が完全に止まっている状態なら、側面の留め具を工具で開けられることが分かったからだ。
「じゃあ昨日の俺いらなかった?」
「昨日は命令が生きてただろ。認証を越えなきゃ留め具そのものが動かなかった」
ユアンは首輪へ細い器具を差し込みながら答える。
「今は塔側が止まってるから、緊急解除が使える」
「そういうの最初から付いてるんだ」
「元の設計にはな」
「じゃあ首輪作った人も、外すこと考えてた?」
「この部分を作った人はな」
ユアンはそこで手を止める。
「問題は、後から解除を使えなくする部品まで足した奴がいることだ」
同じ首輪の中に。
外せるための仕組みと。
外せなくするための仕組みが入っている。
「ややこしい」
横で見ていたレグが率直に言った。
「長く使われたものなんて、大体そんなもんだ」
ユアンが金具を動かすと、首輪が開いた。
狼型の獣はすぐには動かなかった。クロが近くにいることを確かめるように鼻を動かしてから、森へ歩いていく。
レグは追わず、その背中を見送った。
少し離れたところではセラが猪型の首元を診ている。
擦り傷が深い個体だけ治癒術を使い、浅い傷は洗浄と薬で済ませていた。
「前なら全部光らせてた?」
ハヤトが隣にしゃがむと、セラは傷から目を離さず答えた。
「たぶん。でも今は、この子がどれくらい魔力に耐えられるか分からないし。傷が塞がれば終わりってわけでもないから」
包帯代わりの布を軽く巻く。
「まだマーナさんならどうするかなって考えながらやってるけどね」
「それでいいんじゃない?」
「うん。だから今は、分からないところまで勝手にやらない」
「耳が痛い」
セラがようやくハヤトを見た。
「ハヤトに言ったわけじゃないんだけど」
「でも俺にも刺さる」
「なら覚えといて」
少し笑って、また次の獣へ向かった。
火を使っているときのセラなら、判断はもっと速い。
治癒はまだ考えながら。
それでいいのだろう。
◇
昼頃には、塔の周囲に残っていた首輪のほとんどを外すことができた。
獣たちは森へ戻っていったが、二匹だけは近くに残った。
一匹は昨日からいた狼型。
もう一匹は、角の根元に輪をつけられていた鹿に似た獣だ。
「なんで行かない?」
レグが少し離れて座る。
狼型はクロを見る。
鹿型は塔の方を気にしている。
ユアンがその様子を見ていた。
「もしかすると、こいつら元々この辺りにいた『守る側』かもしれない」
「首輪つけられる前から?」
「ああ。塔の元の仕組みは、道に異常があったとき周囲の守り手へ知らせるものだった。応じる獣が昔からいたなら、この辺を離れない理由はある」
「じゃあ守りたい?」
「それは俺には分からん」
レグは狼型へ聞くように顔を向けたが、すぐやめた。
「本人にしか分からない」
「そうだな」
無理やり残す必要もない。
追い出す必要もない。
残るなら残る。
行くなら行く。
その程度でいい。
◇
塔本来の《知らせる》機能をどうするかは、午後まで話し合った。
レイドは残したいと言った。
この道が危険なのは事実だからだ。
ただし首輪は使わない。
命令も返さない。
「知らせるだけで、本当に来るのか?」
レイドは不安を隠さなかった。
ユアンは塔の白い線を確認しながら答える。
「分からない。昔と同じだけの守り手が残ってる保証もない」
「それじゃ守れないかもしれない」
「だから他の方法もいる」
カイルが古い記録を卓へ広げた。
昔の塔では、獣だけに頼っていたわけではない。
危険が出れば近隣の中継所にも知らせを送り、人間の道守りも動いていた記録が残っている。
「一つの方法だけで全部守ろうとして、それが首輪になったんだと思う」
セラの言葉に、エナが俯いた。
「私たちも楽だった。塔を動かせば、この子たちが全部やってくれるから」
「責めてるわけじゃないよ」
「分かってる」
エナは窓の外を見る。
「でも、考えなくてよくなってたのは本当」
レイドも反論しなかった。
結局。
塔の白い《知らせる》だけを残す。
道の見回りは人間も増やす。
獣が応じなくても、それを命令で戻さない。
すぐ完璧な方法になるわけではない。
まず、それで試すことになった。
「北環工房には?」
ハヤトが尋ねる。
レイドの顔が少し曇る。
「報告は必要だ」
「止めたって?」
「ああ」
「怒られる?」
「分からない」
ユアンが壁にもたれた。
「俺も一緒に行く」
全員が彼を見る。
「元々工房へ戻る途中だ。北環の人間とも話す必要が出た」
「ユアンの工房は北環じゃないんだよな?」
「俺は《西路工房》だ」
「初めて聞いた」
「聞かれてないからな」
「言ってよ」
「必要なかっただろ」
相変わらず淡々としている。
だが、同じ技師でも北環とは別の立場らしい。
「工房同士、仲悪い?」
レグが聞く。
ユアンは少し考えた。
「悪くはない」
「良い?」
「特別良くもない」
「普通?」
「それでいい」
レグは納得した。
◇
夕方。
カイルがガルドの印を紙へ写している間、レグは一人で塔の外にいた。
ハヤトが出ると、彼女は地面へ座り、トルにもらった木彫りの鳥を手の中で転がしている。
「どうした?」
「考えてる」
「お父さん?」
「うん」
ハヤトも隣へ座る。
少し間を空けて。
「すぐ追いたい?」
「追いたい」
答えは早い。
だが続きがあった。
「でも、七年前くらい」
「ああ」
「今そこにいるとは限らない」
「そうだな」
「前だったら、矢印あったらすぐ行ってた」
「多分な」
レグは少しだけ口を尖らせた。
「ハヤトも行ってた」
「否定できない」
「セラに怒られる」
「それも間違いない」
二人で少し笑う。
「でも今は」
レグは北東を見る。
「おとうさんが何見てたか、ちゃんと見てから行く」
「うん」
「首輪も。塔も。北環も」
父親へ追いつくためだけではない。
父親が何を追っていたのかを知る。
その違いは大きい。
「レグ」
「なに?」
「お父さんに会ったら最初に何言う?」
しばらく真剣に考える。
「怒る」
「やっぱり?」
「そのあと聞く」
「何を?」
「いっぱい」
「そりゃそうか」
レグは木彫りの鳥をしまった。
「でも最初は怒る」
「決まってるんだ」
「うん」
その顔は少し楽しそうだった。
◇
翌朝。
塔を出る準備が整った。
レイドとエナは残る。
ユアンはハヤトたちと行く。
目的地は、旧環路のさらに奥。
北環工房へ続く道だった。
出発前。
ハヤトは塔を一度振り返る。
赤い光はない。
代わりに最上階の窓から、淡い白い光が一度だけ森へ伸びた。
レグも気づく。
「呼んだ?」
「知らせただけ」
ユアンが答える。
しばらくして。
森の奥。
一匹の狼型の獣が顔を出した。
首輪はない。
塔を見る。
こちらを見る。
それから、ゆっくり道の端まで歩いてきた。
誰も命令していない。
誰も引っ張っていない。
「来た」
レグが笑う。
狼型は少しだけその場に立ち。
また森へ戻っていった。
「行った」
「それでいいんだろ」
ハヤトが言う。
レグは大きく頷いた。
「うん」
北東へ歩き出す。
塔の白い光は、もう追ってこなかった。
その先には北環工房。
そして。
七、八年前にガルドが追ったものが残っているかもしれない道が続いていた。




