残っていた道
翌朝。
宿の食堂へ下りると、広場にはもう何人か村人が集まっていた。
昨日の話し合いは、かなり遅くまで続いたらしい。
それでも村全体が急に変わった様子はない。
畑へ向かう者がいる。
水路を見に行く者がいる。
トルの家の者は、いつものように北の道を確認している。
「普通」
窓から外を見ていたレグが言った。
「一晩で全部変わったら、それはそれで怖いだろ」
ハヤトが隣へ立つ。
昨日、古い石柱から分かったのは、昔の《道を見る役目》が血筋に固定されていなかったということだけだ。
今の村の暮らしをどうするかは、別の話になる。
「トルは?」
「さっき見たよ」
セラが食卓から答えた。
「お父さんと一緒に出てった。今日は普通に見回りするって」
「海行かない?」
「今日すぐ行く話じゃないでしょ」
「一年って言ってた」
「ちゃんと覚えてるじゃん」
レグは少し考え、それなら仕方ないとでもいうように席へ戻った。
カイルは朝食より先に、昨日写した石柱の文字を見ている。
「まだそれ?」
ハヤトが向かいに座る。
「黒い金属の方が気になる」
「昨日は何も分からなかっただろ」
「だから今日調べる」
その返事とほとんど同時に、宿の扉が開いた。
入ってきたのはトル・エンだった。
「カイル」
「はい?」
「昨日の帳面、もう少し古いのが出てきた」
カイルの手が止まる。
「石の?」
「ああ。親父の荷物だと思ってた箱の底にあった」
「見せてもらえますか?」
「そのために来た」
朝食を半分残したまま立とうとしたカイルを、セラが見た。
「食べてから」
「でも――」
「帳面は逃げない」
カイルはトル・エンと帳面を交互に見た。
父親の方が先に笑う。
「食ってからでいいぞ」
「……分かりました」
渋々座り直した。
レグがハヤトへ小声で言う。
「セラ強い」
「こういうときはな」
「聞こえてるよ」
二人とも黙って食事へ戻った。
◇
古い帳面は、集会所の一角に広げられた。
昨日見たものよりさらに傷んでいる。
紙の端は変色し、一部は文字も消えかけていた。
それでも、石柱が補修された時期の記録は残っている。
「ここ」
トル・エンが一頁を示す。
《道の石、応えず》
その下には三人の名。
どれも《トル》から始まっている。
「応えない?」
セラが聞く。
「石が動いてた時期があるってことか?」
ハヤトも身を寄せる。
カイルはすぐには答えず、その先を読んだ。
「《名を示すも、道は返らず》……」
「道が返る?」
「言い回しが古い。たぶん何かしらの反応があったんだと思う」
さらに数頁後。
例の記録が出てくる。
《北東より来た者。名を残さず》
その次の行は、昨日の帳面には写されていなかった。
「何て書いてる?」
レグがカイルの肩越しに覗く。
「待って」
文字自体は、それほど古くない。
カイルがゆっくり読み上げた。
「《石は壊れていない。名の形が変わった》」
トル・エンが眉を寄せる。
「名の形?」
「続きがある」
《今使う名に合わせれば、道は再び受ける》
その下。
《補いを入れる》
ハヤトが思い出す。
「黒い金属か」
「多分な」
昨日、石柱へ打ち込まれていた新しい部品。
あれは割れた石を物理的に支えるためではなかった可能性が高い。
「じゃあ、その人が石を変えた?」
セラが尋ねる。
「少し違うと思う」
カイルはさらに古い記録へ戻った。
石が反応しなくなる以前から、帳面に出てくる名前はすでに《トル》ばかりだ。
「村の役目が家に固定された方が先だ」
ハヤトも気づいた。
「石の仕組みが変わって、それに村が合わせたんじゃない」
「ああ。たぶん逆」
昔は、本人が名を示して役目を受ける。
血筋は問わない。
だが長い年月の中で、道を見る仕事はトルの家だけが引き受けるようになった。
名前の付け方も変わった。
やがて、古い石はその名を正しく受けなくなった。
「それで二十年以上前の人が、今のやり方でも石が動くように直した?」
セラが整理するように言う。
「今ある記録だけなら、そう見える」
カイルが答えた。
レグが帳面を見つめる。
「じゃあ石が、トルにしろって言ったんじゃない」
「少なくとも最初は違うな」
トル・エンが静かに息を吐いた。
「俺たちが先にそうしたのか」
責めるような声ではなかった。
ただ、少し意外そうだった。
「何で?」
レグが聞く。
父親は苦笑する。
「それが分かれば昨日あんなに話してない」
長く続くうちに、理由だけが消えていった。
教えるのが楽だったのかもしれない。
役目を継ぐ者を毎回探すより確実だったのかもしれない。
何かの危機があって、家ごとに分けた時代があったのかもしれない。
「最初に決めた人が悪かった?」
レグの問いに、ハヤトは少し考えた。
「分からないな」
「分からない?」
「そのときは、それが一番いい方法だったかもしれないだろ」
村を守るために、必ず誰かが必要な仕事だった。
今より人が少なかったなら、家ごとに覚えさせる方が現実的だった可能性もある。
「でも今も同じにしなきゃいけないかは、また別じゃない?」
セラが続ける。
トル・エンは頷いた。
「昨日もそこまで話した」
「どうなった?」
レグがすぐ聞く。
「まだ何も決まってない」
「長い」
「何百年分の話を一晩で決めさせるな」
さすがに父親も笑った。
「ただ、来年からすぐ全部変えることもしないし、今まで通り以外は認めないとも決めなかった」
「トルは?」
「一年外を見てから考える。そこは通った」
レグの顔が明るくなる。
「よかった」
「本人が一番驚いてたよ」
「なんで?」
「もっと揉めると思ってたんだろ」
ハヤトにも分かる気がした。
長く続いた決まりだからといって、そこにいる全員が絶対に変えたくないわけでもない。
◇
カイルは帳面の先をめくった。
「まだあるな」
「黒い金属?」
「その補修をした人の話」
数日だけ村へ滞在している。
石柱だけではない。
北の道。
古い水路。
森の境まで見て回ったらしい。
「何者なんだ?」
ハヤトが尋ねる。
「名前を残してないから分からない。ただ……」
カイルの指が一行で止まる。
《北東の中継所へ戻る》
「中継所?」
「場所までは書いてない」
別の頁を探す。
その少し後。
トルの家の人間が、礼を届けようとして途中まで追った記録があった。
《古い北東道を進み、二つの石橋を越えた先》
そこで引き返している。
「地図」
レグが言う。
「今出す」
カイルは鞄からルディアで買った地図を広げた。
ソルド。
北東へ伸びる古い道。
一つ目の川。
二つ目の川。
その先は、今の地図ではほとんど何も書かれていない。
「この辺りか」
「おとうさんの方向?」
レグが尋ねる。
「同じ北東ではある。ただし、ガルドがそこへ行った証拠はない」
「うん」
以前なら期待が先に出たかもしれない。
今はきちんと分けて考えている。
「でも黒いの調べられる?」
「可能性はある」
カイルは黒い部品の写しを見た。
「竜の谷にあった装置と同じ物だとは言わない。でも作り方が近い。あの補修をした人間がどこで技術を覚えたかは知りたい」
「行く?」
レグが聞く。
今度は全員がすぐ答えなかった。
行き先を決める前に。
村でやるべきことが、もう一つ残っていた。
◇
午後。
ハヤトたちは再び北の石柱へ向かった。
今回はトル・エンとカイルだけでなく、村の代表として三人が同行している。
水の家。
森の家。
畑の家。
石に残された古い仕組みを、自分たちの目で見たいということだった。
「またハヤトがやる?」
レグが聞く。
「そのつもりだけど、今日は記録を見るだけな」
黒い金属には触れない。
外さない。
昨日と同じ条件で、石柱の中に残る情報だけを出す。
ハヤトが手を置く。
拒まれる感覚。
道を見る者ではない。
役目を持たない。
条件を満たしていない。
そこへ《自由》を通す。
境目だけが消えた。
淡い光が石を走る。
「おお……」
村人の一人が息を呑んだ。
ハヤトには何が書いてあるのか分からない。
動かせる。
それだけだ。
「カイル」
「ああ」
読み取る方は任せる。
カイルが昨日の文章を、今度は村人たちにも分かる言葉で一つずつ伝えていく。
《名を示し、望む者に渡せ》
《一人が離れるなら、次を選べ》
《血を問わず》
そして。
《受ける者は、自ら名を示せ》
静かだった。
反論する者はいない。
すぐ賛成する者もいない。
村人たちは、ただ自分たちより遥かに古い言葉を見ていた。
「もういい?」
ハヤトが尋ねる。
カイルが頷く。
「十分」
手を離す。
光が消えた。
ハヤトは息を吐く。
疲労はほとんどない。
「それ、何の術だ?」
畑の家から来た男が尋ねた。
「術っていうか……」
説明が難しい。
「本来できないことを、できるようにする力です」
「石の使い方を知ってるのか?」
「全然」
「全然?」
「俺は開けられるだけ。読めるのはカイル」
男が妙な顔をする。
「便利なんだか不便なんだか分からんな」
「俺もたまに思います」
レグが横から言った。
「でもいっぱい使える」
「上手いとは限らないけどな」
「ハヤト、剣も練習中」
「それ今言う?」
村人たちの緊張が少しだけ解けた。
◇
帰る前。
カイルは黒い金属をもう一度調べた。
今日は帳面の内容がある。
目的も少し絞れた。
「ハヤト。こっちに《自由》使ったらどうなる?」
セラがすぐカイルを見る。
「触らせるの?」
「動かさない。反応を見るだけ」
「危なくない?」
「分からないから、嫌ならやめる」
ハヤトは金属片を見る。
石柱とは違う。
何のために入れられたかも、まだ完全には分からない。
「今日はやめとく」
自分で答えた。
カイルはあっさり頷く。
「それでいい」
レグが驚いたようにハヤトを見る。
「何?」
「ハヤト、ちゃんと止まる」
「俺を何だと思ってるんだよ」
「ハヤト」
「答えになってない」
セラが笑いながら先へ歩き出した。
黒い金属は、そのまま残す。
壊さない。
いつか村が必要だと判断したなら、そのとき改めて調べればいい。
今のハヤトたちの物ではない。
◇
夕方。
村へ戻ると、広場でトルが待っていた。
「明日出るの?」
レグが立ち止まる。
「うん。多分」
カイルが見つけた古い道を進む。
二つの石橋。
その先にあったという中継所。
それが今も残っているかすら分からない。
「そっか」
トルは少し残念そうだった。
手には、完成した木彫りの鳥。
「これ」
レグへ差し出す。
「レグに?」
「旅してるから」
「鳥、飛ばない」
「知ってるよ」
「でも持ってく」
「うん」
レグは両手で受け取った。
小さな鳥。
翼は広げられている。
「海行ったら?」
レグが尋ねる。
「見てくる」
「どんなだったか教えて」
「次会ったらな」
「次ある?」
トルは少しだけ笑った。
「お前が言ってたんだろ。行ってみないと分からないって」
レグも笑った。
「じゃああるかも」
「それくらいでいいよ」
ハヤトは少し離れた場所から、そのやり取りを見ていた。
昨日まで。
トルには一つしかないと思っていた道があった。
今はまだ、どれを選ぶのか決まっていない。
道を見る者になるかもしれない。
海を見て、別の何かを選ぶかもしれない。
両方やるかもしれない。
決まっていない。
それでいい。
◇
翌朝。
ソルドの入口。
トル・エンとシア、それに何人かの村人が見送りに来ていた。
「古い道は使われてない場所もある。昨日までの雨で崩れてる可能性もあるから気をつけろ」
トル・エンがカイルへ言う。
「分かりました」
「二つ目の石橋までは、昔は一日半くらいだったらしい」
「その先は?」
「俺も知らん」
だから行く。
ハヤトは荷物を背負い直した。
セラも鞄を確認する。
マーナから借りた冊子は、きちんと中に入っている。
レグは弓と、小さな木彫りの鳥。
クロはいつものようにその隣。
「行ってきます」
レグがトルへ言った。
「ここ、お前の家じゃないだろ」
「でもまた来るかも」
「じゃあ、行ってらっしゃい」
「うん」
五人と一匹は村を出た。
道は細い。
地図にもほとんど残っていない。
それでも、完全に消えてはいなかった。
少し歩いたところで、レグが木彫りの鳥を一度取り出す。
「飛ばないけど、旅する」
「お前が持ってるからな」
ハヤトが答えると、レグは満足そうにしまった。
その先。
北東へ続く古い道には、まだ誰の姿も見えない。
ただ二十年以上前。
名前を残さなかった誰かが、この道を戻っていった。
そして今。
ハヤトたちは、その足跡を追い始めた。




