石が覚えていたこと
翌朝。
ハヤトたちはもう一度、北の見張り小屋へ向かっていた。
昨日と違うのは、トルだけではなく父親のトル・エンも一緒だということだった。
「本当に調べていいんですか?」
カイルが確認すると、トル・エンは少し考えてから頷いた。
「壊さないならな。どうせ俺たちも、あの石が何なのかほとんど知らん」
「名前彫るもの」
レグが言う。
「今はな」
父親は息子を見る。
「昔のことは、俺も聞いたことがない」
トルは黙って歩いていた。
昨日、石柱に残された《メル》と《シア》の名前を見つけてから、ずっと考えているのかもしれない。
道を見る役目が、本当にトルの家だけのものだったのか。
自分が来年そこへ名前を彫ることに、どんな意味があるのか。
答えはまだない。
◇
見張り小屋へ着くと、カイルは真っ先に石柱の根元を確認した。
黒に近い金属片。
昨日と変わらず、石へ深く打ち込まれている。
「抜かないんだよね?」
レグが聞く。
「ああ。まずは何をしてる部品か調べる」
「どうやって?」
「そこなんだよな」
カイルが困ったように石を見上げる。
表面に残っている文字は少ない。
《道》
《示す》
《名》
そして《受ける者》《名を示せ》らしき文。
それ以上は削れて読めない。
「石の中は?」
ハヤトが尋ねた。
「中?」
「こういう古い仕組みって、触ったら何か反応したりしない?」
「するものもある。ただ、昨日トルに聞いた限りじゃ何も起きてない」
「名前彫るだけ」
トルが補足した。
「俺の親父も、じいちゃんも。それで終わり」
ハヤトは石柱を見る。
竜の谷でも、修道院でも。
古い仕組みには、使える者と使えない者がいた。
名前。
印。
役目。
何かしらの条件を満たさなければ、そもそも反応すらしない。
「……条件が違うだけだったりして」
呟くと、カイルが顔を上げた。
「何?」
「いや」
ハヤトは少し考える。
そして石柱の前へしゃがんだ。
「触ってみてもいいですか?」
トル・エンに聞く。
「それくらいなら」
右手を石へ置く。
冷たい。
それだけ。
「何かある?」
セラが後ろから聞く。
「今のところ何も」
少し魔力を流してみる。
反応はない。
火でも水でもない。
魔法を使う感覚とも違う。
けれど。
ほんのわずかに、手のひらへ引っかかるものがあった。
「……ん?」
「どうした?」
カイルが近づく。
「弾かれてる感じする」
「石に?」
「石っていうか……何かに」
うまく説明できない。
扉を押しているのに、鍵が掛かっていて動かない。
それに近い。
ハヤトはもう一度魔力を流した。
今度は意識する。
入れない。
使えない。
資格がない。
そんな感覚。
その瞬間。
胸の奥で《自由》が反応した。
「……あ」
ハヤトの声に、セラが少し身を乗り出す。
「《自由》?」
「多分」
何度も使ってきた感覚だった。
本来装備できないもの。
本来扱えない属性。
職業や資格によって閉じられている技術。
そこにある境目だけを、《自由》は無視できる。
「条件、越えられそう」
カイルの表情が変わった。
「待て。越えられるってことは、中に何があるか分からないまま動かせるってことでもある」
「……そうだな」
ハヤトは手を離した。
レグが不思議そうに見る。
「やらない?」
「一回止める」
「ハヤトなのに?」
「どういう意味だよ」
「前だったらやってた」
「否定しづらいな……」
セラが横で笑った。
「成長したんじゃない?」
「多分な」
まずカイルが石柱の文字をもう一度調べる。
トル・エンにも、この石で昔何か事故が起きた話がないか確認した。
何もない。
なら、完全に危険な装置という可能性は低い。
「ただし」
カイルがハヤトを見る。
「反応があっても、勝手に進めるな。俺が読める範囲で確認する」
「了解」
「本当に?」
「信用ないなあ」
「遺跡で何回先に触ったと思ってる」
「……了解」
今度は素直に答えた。
◇
再び石柱へ触れる。
さっき感じた境目を探す。
あった。
《資格なし》。
文字として見えるわけではない。
ただ、仕組みの側から拒まれているのが分かる。
そこへ《自由》を重ねる。
無理やり壊すのではない。
鍵を壊すのでもない。
ただ。
ハヤトに対してだけ、その条件が意味を失う。
石の奥から、微かな振動が返ってきた。
「動いた」
レグが言う。
表面。
削れていたはずの線の一部に、淡い光が走る。
トルと父親が息を呑んだ。
「こんなの……見たことない」
カイルがすぐ石へ目を向ける。
「ハヤト、そのまま。何もしなくていい」
「何もしてない」
「それでいい」
光は文字を一つずつ浮かび上がらせていく。
完全ではない。
欠けた部分も多い。
それでも、石そのものに残っていた記録が表へ出てきた。
「読める?」
セラが尋ねる。
「少し待って」
カイルは指で追わず、目だけで文字を読む。
「《道を受ける者》……」
次。
「《名を示し、望む者に渡せ》」
トルが顔を上げた。
「渡す?」
カイルもそこを何度か読み直す。
「多分、そうだ」
さらに下。
「《一人が離れるなら、次を選べ》」
ハヤトは思わず石から視線を外した。
「家の話じゃないな」
「ああ」
カイルは続ける。
「《血を問わず》」
短い文字。
それだけは、はっきり残っていた。
誰もすぐには喋らなかった。
トルが石柱の裏側に並ぶ名前を見る。
トル。
メル。
シア。
違う家の名前。
「血を問わず……」
少年が小さく繰り返す。
「じゃあ昔は」
セラが言葉を選んだ。
「道を見る人を、家じゃなくて本人で選んでた?」
「そう読める」
カイルが答える。
「少なくとも、この石が作られた頃は」
トル・エンは黙っていた。
自分の父。
祖父。
さらにその前。
ずっと受け継いできたものが、最初から今と同じ形ではなかった。
「どうして変わった?」
レグが聞く。
誰も答えられない。
石は昔の使い方を残していただけだ。
◇
「まだある」
カイルが言った。
光の下。
もう一つ文が浮かんでいる。
「《受ける者は、自ら名を示せ》」
レグの表情が変わった。
「自分で?」
「そうだな」
「誰かが名前書くんじゃない?」
「少なくとも元は違ったみたいだ」
レグは石を見つめる。
竜の谷で。
母が残した仕組みも、そうだった。
名は本人に言わせる。
他人が決めるのではない。
役目を押し込むのでもない。
「似てる」
レグが呟いた。
「ミレアのやつ?」
ハヤトが聞くと、頷く。
「自分で言う」
「考え方は近いかもしれない」
カイルは慎重だった。
「ただ、同じ仕組みだったとまでは言えない。時代も場所も分からないからな」
「うん」
レグも無理に結びつけなかった。
そのとき。
石柱の光が一度揺れた。
「ハヤト」
「俺、何もしてない」
「手離して」
カイルに言われ、すぐ離す。
光が消えた。
石は元の古びた姿へ戻る。
「終わり?」
「多分」
ハヤトは自分の右手を見る。
疲れてはいない。
難しい術を使った感覚もない。
ただ、本来入れない場所へ入った。
それだけ。
「……やっぱり変だな、その能力」
カイルが呟く。
「今さら?」
「今までは武器とか魔法の制限を無視する話だと思ってた」
「俺も」
「役目の資格まで越えるのか」
ハヤトは石柱を見た。
「多分、条件なら」
「使い方分かった?」
レグが聞く。
「全然」
「じゃあカイル必要」
「そういうこと」
ハヤト一人なら。
石を動かせた。
でも浮かんだ文字は読めない。
何の装置かも分からない。
「使えるだけじゃ駄目だな」
そう言うと、カイルが笑った。
「それで全部分かったら俺の仕事なくなる」
「それは困る」
「俺も困る」
セラが少し離れたところから二人を見ていた。
「何?」
ハヤトが尋ねると、彼女は首を振る。
「別に。ただ」
「ただ?」
「ハヤトって、本当に変なことできるんだなって思って」
「今さら二人目」
「普段が地味だから忘れる」
「ひどくない?」
レグまで頷いた。
「ハヤト、最近荷車押してる」
「それは俺も思ってたよ!」
ようやく少し空気が緩んだ。
◇
問題は黒い金属だった。
光が消えたあと、カイルは石柱の側面を確認する。
「こっちは反応しなかった」
「関係ない?」
セラが聞く。
「分からない。ただ、元の機能に必要な部品じゃない可能性は上がった」
石柱は金属片がなくても、少なくとも内部の記録を残していた。
では、二十年以上前に打ち込まれた部品は何のためだったのか。
「壊れたとこ直しただけ?」
レグが尋ねる。
「あり得る」
「悪いもの?」
「それもまだ分からない」
カイルは黒い金属の位置を紙へ写し取った。
「今は抜かない」
「うん」
そこは全員同じ意見だった。
◇
帰り道。
トルはいつもより口数が少なかった。
レグも無理に話しかけない。
村が見え始めたところで、ようやく少年が口を開いた。
「俺さ」
「うん」
「道を見るの、嫌いじゃない」
レグが横を見る。
「昨日も言ってた」
「でも今日、ちょっと分かった」
「何が?」
「嫌だったの、仕事じゃなかったのかも」
トルは歩きながら、足元の道を見る。
「最初からこれしかないって思ってたこと」
自分で選んだわけではない。
嫌うほど知らない。
好きかどうかも考えないまま、来年には石へ名前を彫る。
「もし自分で選べるなら?」
レグが聞く。
トルはすぐには答えなかった。
「海は見たい」
「うん」
「でも、今日みたいな道の仕事も覚えたい」
「両方」
「できるかな」
レグは少し考える。
「やってみないと分からない」
「普通そこ、できるって言わない?」
「分からないから」
トルが笑った。
「そうだな」
少し前を歩いていたハヤトにも聞こえていた。
自由なら何でもできる。
そういう話ではない。
選んだ結果、上手くいかないこともある。
でも、選ぶ前から一つに決められているのとは違う。
◇
村へ戻ると、トル・エンはそのまま集会所へ向かった。
石柱の記録を、一人で抱えておくつもりはないらしい。
「すぐ変わるかな」
レグがその背中を見ながら言う。
「どうだろ」
ハヤトは正直に答えた。
「何百年も続いてるんだろ。今日分かったから明日全部変えよう、とはならないんじゃない?」
「そっか」
「でも知らなかったのと、知ったあとは違うよ」
セラが言った。
「トルもそうでしょ?」
レグが頷く。
その夜。
宿の食堂では、集会所へ出入りする村人の姿が何度も見えた。
怒鳴り声はない。
争っている様子もない。
ただ。
長い話になっているらしい。
ハヤトたちはそこへ入らなかった。
決めるのは、この村に暮らす人たちだからだ。
窓辺で外を見ていたレグの隣へ、ハヤトも立つ。
「気になる?」
「うん」
「明日聞けばいい」
「変わらなかったら?」
「それもこの村が決めることだろ」
レグは少し不満そうだった。
それでも。
「……うん」
最後には頷いた。
そのとき、宿の扉が開いた。
入ってきたのはトルだった。
少し疲れた顔をしている。
けれど。
手には、あの木彫りの鳥を持っていた。
「レグ」
「なに?」
「俺、来年すぐには名前彫らないことにした」
レグが目を見開く。
「怒られた?」
「ちょっと」
「だめって?」
「違う」
トルは鳥を握り直す。
「一年、外を見てから決めたいって言った」
道を見るのか。
別の何かをするのか。
あるいは、両方やるのか。
「親父は?」
「一回、海見てこいって」
レグの顔が一気に明るくなった。
「行く?」
「まだだよ」
「いつ?」
「だから一年あるって!」
トルが笑う。
レグも笑った。
石柱が決めたわけではない。
ハヤトの《自由》が決めたわけでもない。
昔の記録を知ったうえで。
トル自身が、一年という時間を選んだ。
それで十分だった。
そしてハヤトには、もう一つ気になることが残っていた。
本来なら道を見る者しか触れられなかった石。
それを自分は、役目も名前も持たずに開けた。
《自由》が越えられる境目は。
自分が思っていたより、ずっと多いのかもしれない。




