古い石の前で
鐘が三度鳴り終わる頃には、広場の空気が変わっていた。
宿や家から人が出てきて、道の端へ寄る。慌てているように見えるのに、誰も勝手には動かない。
走っていったのは、トルと同じ名を持つ者たちだけだった。
「何があったんですか?」
ハヤトがシアに尋ねると、彼女は広場の北を見たまま答えた。
「北の見回りから合図が来たんだよ。三回は『道が止まった』」
「道が止まった?」
「崩れたか、倒木か。人が巻き込まれてる可能性もある」
セラの表情が変わる。
「怪我人がいるかもしれない?」
「かもしれないね。でも、まずトルの家が見に行く」
それがこの村のやり方なのだろう。
道の異常は道を見る家。
水なら水の家。
畑なら畑の家。
役目ごとに動く者が決まっている。
レグは広場の先をじっと見つめていた。
「手伝わない?」
誰にというわけでもなく言う。
ハヤトも同じことを考えていた。
「聞いてみよう」
シアは少し驚いたが、止めはしなかった。
「村の北口に行けば、誰か残ってるよ。勝手に先へ行くんじゃないよ」
「分かりました」
四人と一匹は宿へ戻り、必要な荷物だけ持った。
セラは治療道具。
ハヤトとカイルは武器。
レグも弓を背負ったが、今日は使うためというより、いつもの装備としてだった。
◇
北口には一人の男が残っていた。
昼間に見たトルの父親ではない。
年は三十代ほど。腰に槍を差し、道の向こうを気にしながら待っている。
「旅の人か?」
「手伝えることがあればと思って」
ハヤトが事情を話すと、男は少し迷った。
「俺はトル・ガン。今、先へ行った連中から次の合図を待ってる」
やはり名前の頭は同じだった。
「何か分かった?」
レグが聞く。
「北の坂で土が崩れたらしい。荷車が一台止まってる」
「人は?」
「そこまではまだ」
セラがすぐに治療鞄へ手を置いた。
「怪我人がいるなら行きたいです」
トル・ガンは彼女の装備を見て、冒険者証を確認する。
「治癒術師?」
「使えます」
「なら助かる」
ようやく話が決まったところで、道の奥から甲高い笛が二度聞こえた。
トル・ガンの顔が引き締まる。
「怪我人ありだ。行くぞ」
◇
現場までは歩いて二十分ほどだった。
道は斜面に沿って作られている。
その一部へ、雨で緩んだ土と石が流れ込んでいた。
荷車が横向きに止まり、片方の車輪が土へ埋まっている。
すでに数人が馬を落ち着かせ、荷台から荷物を下ろしていた。
「セラ!」
ハヤトが先を指す。
道端に男が一人座り込んでいる。
額から血が流れていた。
セラは返事をするより先に駆け寄った。
「意識ありますか?」
「ああ……石が当たっただけだ」
「頭だから、だけで済ませないでください」
傷を見る。
目の動き。
受け答え。
吐き気がないか。
以前のセラなら、出血を見ればすぐ治癒術を使っていただろう。
今は違った。
まず状態を確かめる。
「傷は塞ぎます。でも今日は荷車押さないでください。頭が痛くなったり、気分悪くなったらすぐ言って」
「でも荷が――」
「他に人います」
言い切ってから、必要なところだけ術を使う。
淡い光が消えても、男をすぐ立たせなかった。
その様子を見ていたハヤトは、数日前との違いをはっきり感じた。
「ハヤト!」
別の方向からレグに呼ばれる。
今度は道の崩れた場所だった。
「こっち」
近づくと、トルが斜面の下を覗き込んでいる。
「何かある?」
「荷物が落ちた」
木箱が一つ、崩れた土の途中で止まっていた。
そのさらに下は浅い谷になっている。
「取りに行く?」
レグが聞く。
トルは首を横に振った。
「今は行かない。土がまだ動いてる」
見れば、小石が時々斜面を転がっている。
「でも箱ある」
「箱より人の方が大事だろ」
迷いのない言葉だった。
昼間、海を見たいと話していた少年と同じ人間とは思えないほど、今のトルは落ち着いている。
父親らしい男が向こうから声を上げた。
「トル! 上の道見てこい!」
「分かった!」
返事をして、少年はすぐ走った。
レグはその背中を目で追う。
「上手」
「何が?」
「道のこと」
「ああ」
ハヤトもそう思った。
嫌々連れ出されて何もできないわけではない。
むしろ慣れている。
どこに立てば危ないか。
どこを通せばいいか。
何を後回しにするか。
きちんと知っている。
◇
荷車を動かす前に、崩れた土を少し除くことになった。
全て片付ける必要はない。
車輪が通れる幅だけ確保し、残りは明日、村から人を出す。
ハヤトも石を運んだ。
カイルは斜面を見ながら、どこまで触っていいかトルの父親と相談している。
レグは小さな石や枝を脇へ寄せていた。
「そこ、触らないで」
戻ってきたトルがレグを止める。
「なんで?」
「その石、上の土支えてる」
言われて見ると、何でもない石に見える。
「取ったら?」
「多分、少し崩れる」
レグは伸ばしていた手を引っ込めた。
「分かった」
「こっちは大丈夫」
トルが別の石を指す。
レグはそちらを持ち上げた。
「トル、詳しい」
「小さい頃から親父についてきてるから」
「好き?」
レグは作業をしながら聞いた。
トルの手が少し止まる。
「今聞く?」
「今分かったから」
「何が?」
「トル、ちゃんとできる」
少年は少し困ったように笑った。
「できるのと、ずっとやりたいのは別じゃない?」
レグが止まった。
ハヤトにも、その言葉は聞こえていた。
トルはすぐ作業へ戻る。
「嫌いじゃないよ。こういうとき、誰かがやらないと困るし」
「じゃあ好き?」
「それも分かんない」
「難しい」
「だから昨日そう言っただろ」
「うん」
レグは少し考えてから、また石を運び始めた。
◇
一時間ほどで、荷車を通せる幅ができた。
泥に沈んだ車輪の下へ板を入れる。
ハヤトには見覚えのある作業だった。
「最近こればっかだな」
「得意になってよかったじゃん」
セラが怪我人の横から言う。
「剣より先に荷車の救出が上手くなりそう」
「冒険者ってもっと格好いい仕事じゃなかった?」
トルの父親が笑う。
「荷車通せなきゃ、村じゃ十分格好いい仕事だぞ」
「そう言われると悪くないな」
全員で位置につく。
馬を前へ。
後ろから押す。
今回は深く沈んでいない。
一度大きく車輪が滑ったあと、そのまま板へ乗った。
荷車が安全な道まで抜ける。
周囲から小さく安堵の声が上がった。
レグも両手を上げかけ、途中で思い出したようにセラを見る。
「怪我の人は?」
「大丈夫そう。でも村まで一緒に戻る」
「じゃあ終わり?」
「道はまだ」
トルが答えた。
崩れた斜面へ、木の杭を何本か打ち込む。
夜に誰かが通っても分かるよう、縄を張るらしい。
「鐘鳴ったら、ここまで全部?」
「そう」
「毎回?」
「大体」
「大変」
「雨の後はね」
それでもトルは手際よく縄を結んでいた。
◇
村へ戻ったのは、日が沈む少し前だった。
怪我人は宿の一室へ運ばれ、セラがもう一度状態を確認する。
残りの三人は広場へ出た。
昼間置き去りになっていた木彫りの鳥は、まだ同じ石の上にある。
トルがそれを拾い、土を払った。
「忘れてた」
「壊れてない?」
レグが覗き込む。
「大丈夫」
少年は鳥を手の中で転がしながら、広場の端へ座った。
レグも隣へ。
少し離れてハヤトとカイルが立っている。
「今日の仕事」
レグが言う。
「うん」
「嫌だった?」
トルはすぐには答えなかった。
「嫌じゃなかった」
「楽しかった?」
「楽しくもない」
「じゃあ何?」
「必要だった」
木彫りの鳥を見つめる。
「怪我した人もいたし、放っといたら明日もっと道崩れてたかもしれない。俺がやり方知ってるなら、やった方がいい」
レグは真剣に聞いている。
「でも海も見たい?」
「見たい」
「両方できない?」
「……それが分からない」
トルは苦笑した。
「村じゃ、道を見るならずっと道を見るのが普通だから」
「誰が決めた?」
「昔から」
「昔って誰?」
「知らないよ」
少し困ったような返事だった。
レグはさらに聞こうとして、一度口を閉じる。
以前なら、そのまま「じゃあ変えればいい」と言ったかもしれない。
けれど今日は。
「トルは、どうしたい?」
それだけだった。
少年は答えなかった。
答えられないのだろう。
ただ、木彫りの鳥を握ったまま、遠くの空を見た。
◇
夕食のあと。
宿の食堂で、シアから道の家についてもう少し話を聞いた。
「トルの家が道を見るようになったのは、いつからなんですか?」
カイルの質問に、シアは首を傾げる。
「いつからって言われてもね。私が生まれる前。母が生まれる前。そのまた前からだよ」
「役目を変えた家は?」
「昔にはいたって聞くけど、今はほとんどないね」
「変えちゃいけない決まりがある?」
今度はレグが聞いた。
シアは少し考える。
「駄目とは書いてない」
「じゃあ変えられる?」
「簡単じゃないよ」
四つの役目は、それぞれ必要だった。
誰かが道を見るのをやめれば、その分を別の誰かが引き受けなければならない。
水路も。
森も。
畑も。
「自由に好きな仕事をしろって言われても、全員が明日から旅人になったら村は終わるだろ?」
「それはそうですね」
ハヤトが答える。
「だから、昔から家で分けてきた。教えるのも楽だからね」
理屈はある。
ただの嫌がらせではない。
むしろ村を続けるために生まれた形なのだろう。
「でも」
セラが静かに口を開いた。
「やりたくない人が出たら?」
シアは少し黙った。
「それが難しいんだろうね」
否定もしなかった。
「私だって水の家に生まれて、今も水路の帳面をつけてる。嫌だと思ったことはない。でも、だから全員同じとは言えないよ」
レグが顔を上げる。
「シアは好き?」
「嫌いじゃない。それに、私がやった方が早い」
「トルとちょっと違う」
「そうかもしれないね」
そこでカイルが、昼間から気になっていたらしいことを尋ねた。
「名前の音を揃えるのも、役目を教えるためですか?」
「そう聞いてる」
「古い道具や仕組みに名前を使ったりは?」
「名前を?」
シアは本気で分からない顔をした。
「そんな話は知らないよ」
カイルとハヤトが目を合わせる。
少なくとも、この村の人間が意識して古代の仕組みを使っているわけではなさそうだった。
「ただ」
シアが思い出したように続けた。
「昔の石なら、北の見張り小屋にあるよ」
「石?」
「道を見る家が使ってる古い石柱。今は目印くらいにしか使ってないけどね」
カイルの表情が変わる。
「どんな印があります?」
「道が二つに分かれたような印だったかな」
その瞬間。
レグではなく、クロが顔を上げた。
伏せていた耳が立つ。
ハヤトたちは誰もすぐに口を開かなかった。
道を示す印。
分かれる線。
そして、古い石柱。
それだけで同じものだと決めるには早い。
カイルもそれを分かっている。
「明日、見せてもらえますか?」
「トルの家に頼めばいいよ」
「お願いします」
話はそこで終わった。
レグは食事を終えたあとも、少し考えていた。
「何考えてる?」
ハヤトが聞く。
「役目」
「トルの?」
「うん」
少し間を置いて、レグは続けた。
「役目あるの、悪くないかも」
ハヤトは意外に思った。
「そう思う?」
「今日、道見る人いなかったら困った」
「確かに」
「でも」
レグはそこでハヤトを見る。
「ずっとそれしか駄目なのは、やっぱり嫌」
ハヤトは笑った。
「俺もそんな感じかな」
必要だから引き受けること。
生まれた瞬間から、それ以外を選べないこと。
同じように見えて、たぶん全然違う。
翌朝。
それを確かめるように、一行はトルとともに北の見張り小屋へ向かうことになった。




