雨上がりの道
トルカを出て一時間ほど。
昨日までの雨はすっかり上がっていたが、街道にはまだ深い轍が残っていた。
二台の荷馬車は泥を避けるように、ゆっくり進んでいる。
「遅い」
レグが荷台の横を歩きながら言った。
「雨のあとなんだから仕方ないだろ」
ハヤトが返すと、先頭の御者が振り向いて笑った。
「急いで車輪折るよりましさ。ルディアまでは二日ある。焦る道じゃないよ」
同行している商人は三人。
穀物や干した果物、それにトルカで仕入れた布を運んでいるらしい。
護衛を雇うほど危険な道ではないが、人手は欲しい。
だから荷運びを手伝う代わりに、ハヤトたちも同行させてもらっている。
「二日」
レグが前を見る。
「走ったら早い」
「荷馬車置いていく気?」
「レグだけなら」
「今回の目的忘れてるだろ」
レグは少し考えたあと、荷馬車を見た。
「一緒に行く」
「それで正解」
セラはそのやり取りを聞きながら、歩きつつマーナから借りた冊子を開いていた。
「歩きながら読むと転ぶぞ」
「分かってる。見てるのは少しだけ」
「昨日まで俺に前見ろって言ってなかった?」
「前も見てる」
そう言った直後、道端の石を踏みかける。
ハヤトが無言で腕をつかんだ。
「……今のは」
「前見てた?」
「見てた」
「そういうことにしとく」
セラは少しむっとした顔で冊子を閉じた。
「離して」
「あ、ごめん」
腕から手を離す。
ほんの一瞬だけ妙な間ができたが、前を歩いていたレグは気づいていない。
代わりにクロが振り返っていた。
「クロ、何?」
レグが聞くと、クロはまた前を向いた。
ハヤトも何もなかったように歩き出した。
◇
昼前。
街道は低い丘の間へ入った。
雨水が流れ込んだらしく、ところどころ道の端が削れている。
先頭の荷馬車が止まったのは、細い石橋の手前だった。
「何かあった?」
ハヤトが前へ行く。
御者は橋ではなく、その向こうを見ていた。
「道が沈んでるな」
橋を渡った先。
十歩ほどの範囲で土が大きく抉れ、泥水が溜まっている。
通れないほどではない。
ただ、荷を積んだ車輪が沈めば厄介そうだった。
カイルが先へ歩き、靴の先で地面を確かめる。
「真ん中は柔らかい。右側の方がまだ固いな」
「通れる?」
「一台ずつなら。荷を少し下ろした方が安全だと思う」
商人たちも同意した。
ここで無理をする理由はない。
全員で一部の荷物を下ろし、橋の向こうへ先に運ぶことになった。
「レグ、これ頼める?」
ハヤトが軽い布の束を渡す。
「もっと重いのいける」
「足元悪いからそれでいい」
「ハヤトは?」
「穀物」
「重いやつ」
「俺は昨日からそういう担当らしい」
レグは納得したような、していないような顔で布を抱えた。
セラも荷物を持つ。
カイルは橋の先で、車輪を通す位置を確認していた。
昨日までならただの面倒に思えたかもしれないが、今回は全員の動きが早い。
トルカで何度か荷運びをしたせいだろう。
「ハヤト、そこ滑る」
先を歩くセラが振り返った。
「見えてる」
「昨日もそう言って泥にはまったでしょ」
「車輪がな」
「足も半分入ってた」
「細かいな」
「転んで荷物駄目にしたら困るから」
言われた通り、少し外側へ足を置く。
確かにこちらの方が固い。
「……ありがとう」
「素直」
「最近それ言うよな」
「最近素直だから」
セラは笑いながら先へ進んだ。
◇
荷物を減らした一台目は無事に抜けた。
二台目も橋を渡る。
「右! もうちょい右!」
カイルの声に御者が手綱を調整する。
前輪が泥を避けた。
後輪も続く。
――はずだった。
鈍い音がして、荷馬車が傾いた。
「止めろ!」
後輪の一つが、道の端へ沈んでいる。
完全にはまったわけではないが、このまま進めばさらに深くなる。
ハヤトが後ろへ回ろうとしたところで、ベルドの声が頭をよぎった。
何か起きてから動くな。
まず、立つ場所を見る。
「待って。すぐ押さない方がいい」
商人が振り返る。
「どうする?」
ハヤトは車輪の前を見る。
柔らかい泥。
その少し先には固い土。
「板とかある?」
「荷台に二枚ある」
「車輪の前に敷こう」
レグと商人が板を運び、カイルが泥を少し掘って位置を整える。
セラは馬の横へ回った。
「こっちは大丈夫。少し怯えてるけど」
クロは近づきすぎず、その場に伏せている。
レグも馬の首を撫でながら声をかけていた。
「大丈夫。もうちょっと」
準備が整う。
今度は全員で押さない。
御者が馬を進ませ、ハヤトと商人二人が後ろから力を加える。
後輪が泥を噛む。
一度滑った。
もう一度。
「今!」
ハヤトが声を上げた。
車輪が板へ乗る。
そのまま一気に固い地面へ出た。
「抜けた!」
レグが喜ぶ。
荷馬車を安全なところまで動かしてから、商人の一人が笑った。
「助かったよ。力任せにやってたら、たぶん余計沈めてたな」
「俺も前なら押してました」
「今は?」
「最近、足元見ろって怒られてるんで」
「誰に?」
「町の怖いおじさん」
「誰が怖いおじさんだって?」
後ろから声がした気がして、ハヤトは思わず振り返った。
当然ベルドはいない。
セラが吹き出した。
「何してるの?」
「いや……ちょっと声が聞こえた気がした」
「相当しごかれたんだね」
◇
橋を越えた先で昼休憩になった。
レグはパンを食べながら、さっきから何度も空を見ている。
「どうした?」
ハヤトが聞くと、レグは指を差した。
「鳥」
大きな黒い鳥が三羽。
荷馬車の上を旋回している。
「荷物狙ってる?」
「多分干し果物だな」
商人が嫌そうな顔をした。
「あいつら、一回味覚えるとしつこいんだ」
鳥は少しずつ高度を下げている。
レグが弓へ手を伸ばした。
ハヤトは止めなかった。
「撃つ?」
「当てなくていい。追い払えれば」
「分かった」
レグは立ち上がり、矢を一本つがえる。
すぐには放たない。
飛び方を見る。
旋回。
また旋回。
ディンに教わった通り、焦らず狙う。
鳥が荷馬車へ降りようとした瞬間。
矢が放たれた。
鳥のすぐ横を抜け、向こうの木へ突き刺さる。
三羽が一斉に高度を上げた。
「外れた」
レグが言う。
「今のはそれでいいだろ」
ハヤトが答えると、商人も頷いた。
「十分だ。荷を破られなきゃいい」
レグは少しだけ考える。
「倒さなくても成功?」
「そういう仕事もある」
レグは弓を見下ろした。
「弓、前より便利」
「前は?」
「当てるもの」
「今は?」
「当てなくても使える」
「ディンに聞かせたら喜ぶんじゃない?」
「次会ったら言う」
もう次に会うことを前提にしている。
ハヤトはそれが少し嬉しかった。
◇
午後になると、街道は森へ入った。
ここから先は今日の野営地まで人家がないらしい。
カイルは歩きながら、商人の一人と道について話していた。
「ルディアより先へ行ったことは?」
「俺は二度だけだな。北へなら何度もあるけど、北東は荷が少ない」
「道が悪い?」
「それもある。でも町が少ない」
カイルが地図を取り出す。
「この辺り?」
商人は一度足を止め、紙を覗いた。
「ああ。ただ、その地図なら古い村も載ってるだろ」
「古い村?」
「今はもう人がほとんどいないところがある」
ハヤトたちも自然に耳を傾ける。
「何で?」
レグが尋ねた。
「知らんよ。水が出なくなったとか、街道が変わったとか。そういう話はいくらでもある」
商人は軽く答えたあと、地図の一点を指した。
「ただ、ここは少し変わってる」
「何が?」
「まだ人はいる。でも外から来た奴が住み着くことはほとんどないらしい」
カイルが目を細める。
「閉鎖的な村?」
「そういうのとも違うんだよな」
商人は言葉を探した。
「生まれた家で仕事が決まってるとか聞いたことがある」
ハヤトが思わず地図を見る。
「家で?」
「農家の子は農家、道を見る家の子は道を見る。昔からずっと変えないんだと」
「本人が違うことしたいって言ったら?」
セラが聞いた。
「さあ。俺は泊まっただけだから、そこまでは知らん」
商人は肩をすくめた。
「名前も……確か変わった付け方してた気がするな」
カイルが反応する。
「名前?」
「悪い。そこはうろ覚えだ。十年くらい前の話だし」
それ以上は分からないらしい。
商人はまた前を向いた。
レグは少しの間、カイルの地図を見ていた。
「行く?」
そう聞いたのはハヤトだった。
レグはすぐには答えなかった。
「ルディア行く」
「うん」
「そのあと考える」
「それでいい」
カイルも地図を畳んだ。
今すぐ進路を変える必要はない。
ただ。
地図の上に、気になる場所が一つ増えた。
◇
夕方。
野営地へ着く頃には、空が橙色に染まっていた。
商人たちが馬を休ませ、ハヤトたちも簡単な寝床を作る。
セラは火を起こしながら、昼の話を思い返しているようだった。
「生まれた家で仕事が決まるって、どのくらい本当なんだろ」
「行けば分かるかもな」
ハヤトが薪を置く。
「行くって決めたわけじゃないけど」
「分かってる」
レグはクロの隣に座り、弓の弦を確かめていた。
少し離れたところではカイルが地図に何かを書き足している。
「レグは嫌?」
セラが尋ねる。
「何が?」
「生まれた家で、やること全部決まってるの」
レグの手が止まる。
ほんの少しだけ考えてから。
「嫌」
答えは短かった。
けれど、以前とは理由が違う。
「でも」
レグは弦から顔を上げた。
「それやりたい人もいる?」
「いると思う」
「じゃあ、その人はいい」
ハヤトは思わず笑った。
「なるほど」
「やりたくないのにやるのは嫌」
「うん」
「やりたいならやる」
レグはそれだけ言うと、また弓へ目を戻した。
セラも何も付け足さなかった。
夕食の匂いが漂い始める。
明日はルディアへ着く。
その先を決めるのは、着いてからだった。
火の向こうで、カイルの地図だけが風にめくれた。
押さえられた紙の端に。
まだ名前も知らない、小さな村の印が残っていた。




