地図の余白に
その日の夕食。
カイルが持ち帰った地図は、卓の半分を埋めていた。
「でかいな」
ハヤトが皿を少しずらすと、カイルは地図の端を押さえながら頷く。
「元は商隊用らしい。十五年くらい前のものだけど、この辺りから北東は今持ってる地図より詳しい」
トルカの位置から街道を辿る。
北へ向かう道。
東へ抜ける道。
その間を縫うように、細い線が一本伸びていた。
セラが身を寄せる。
「これがミレアさんから聞いた道?」
「いや。ガルドが向かった地域はもっと先だ」
「じゃあ何?」
「昔の荷運び道」
カイルの指が、街道沿いの小さな丸で止まった。
「ここにルディアって町がある。今も残ってるらしい」
「大きい?」
レグが聞く。
「トルカより少し大きい。北東へ行く商人は、だいたいそこで一度補給するそうだ」
「おとうさん通った?」
「分からない」
カイルは曖昧にせず答えた。
「ただ、北東のことを調べるならトルカより情報は集まりそうだ」
レグは地図を見つめたあと、すぐには「行く」と言わなかった。
「いつ?」
「それを相談してる」
「明日?」
ハヤトはセラを見る。
治療所へ通い始めて、まだ数日だ。
「セラは?」
「私は……」
セラもすぐには答えず、食事の手を止めた。
「明日、マーナさんに聞いてみる。もう少しここで教わった方がいいなら、一日くらい残りたい」
「じゃあそれでいいんじゃない?」
ハヤトが言うと、レグも頷いた。
「レグも明日弓やる」
「俺はベルドのところかな」
カイルが三人を見回す。
「急がないな」
「お前が最初に言ったんだろ。今すぐどうこうじゃないって」
「そうなんだけどな」
カイルは少し笑って地図を畳み始めた。
北東への道は見つかった。
だからこそ、今日決めなくてもよかった。
◇
翌朝。
セラが治療所へ着くと、マーナは一人の少女の手を診ていた。
指先に小さな切り傷。
昨日までの怪我人と比べれば、治癒術を使うほどにも見えない。
「洗って、これ塗って終わり」
マーナは薬を薄く塗り、布を巻いた。
少女が礼を言って帰る。
セラはその背中を見送ってから尋ねた。
「治癒術、使わないんですね」
「使う理由がないから」
「でもすぐ治せます」
「だから?」
マーナがこちらを見る。
責める口調ではない。
答えを待っている。
セラは少し考えた。
「……魔力を使う必要がない」
「それもある」
「本人の身体で十分治る」
「それも」
まだあるらしい。
セラが考え込むと、マーナは棚から薬瓶を取り出した。
「治癒術が使える人間なんて、どこの町にもいるわけじゃない」
「あ」
「何でも術で治すのが当たり前になったら、術師がいない場所で困るだろ」
傷の洗い方。
薬の塗り方。
安静にする判断。
治癒術より前に知っておくことがある。
「治せることと、治療できることは同じじゃない」
セラはその言葉を何度か頭の中で繰り返した。
「私、今まで治せればいいと思ってたかもしれない」
「旅の冒険者なら、それで助かる場面も多いよ。傷を塞がなきゃ死ぬときに、薬草の勉強なんかしてられないからね」
「でも、それだけじゃない」
「そういうこと」
マーナは次の患者の記録を取り出した。
セラは横へ並びながら、昨日から考えていたことを口にした。
「マーナさん」
「ん?」
「治療でお金をもらうのって、怖くないですか?」
マーナの手が止まる。
「怖いよ」
あっさり返ってきた。
「今でも?」
「今でも」
「失敗したら?」
「ある」
セラが思わず顔を上げる。
「治せなかった人もいる。判断を間違えたこともある」
マーナは特別重く語らなかった。
だからこそ、言葉が残った。
「じゃあ、どうして続けられるんですか?」
「次に同じことをしないために覚えるから」
それだけ言って、マーナは記録をセラへ渡した。
「怖くなくなるのを待ってたら、何もできないよ」
セラは紙を受け取る。
そこには患者の名前、怪我の場所、治療内容が細かく書かれていた。
「まず記録。今日からあんたも書いてみな」
「私が?」
「昨日まで見てたろ?」
「見てましたけど……」
「ならやる」
迷っている暇はなさそうだった。
「はい」
セラは椅子を引いた。
◇
一方。
ハヤトはベルドの訓練場で、朝から同じ動きを繰り返していた。
前へ出る。
木剣を振る。
すぐ戻る。
また前へ。
「遅い」
「これ地味ですね」
「地味だからやるんだよ」
ベルドは腕を組んだまま動かない。
「技を覚えたいなら他へ行け。お前は足が先だ」
「そんな悪い?」
「悪いっていうより、癖がある」
ハヤトが木剣を下ろす。
「どんな?」
「何か起きてから動く」
「……普通じゃないですか?」
「喧嘩ならな」
ベルドは木剣を一本拾い、ハヤトの正面に立った。
「俺が打つと思ってから避けるな。打てる場所に立ち続けるなって話だ」
「なるほど」
「分かった顔する前にやれ」
「厳しいなあ」
「金取ってないから優しい方だ」
確かに。
もう一度構える。
ベルドの肩が動く。
その前に半歩ずれる。
木剣が空を切った。
「今の」
「たまたま」
「褒めてくれても」
「十回できたらな」
ハヤトは苦笑いしながら構え直した。
《自由》を使えば、もっと変わったこともできる。
魔法もある。
武器の制限も薄い。
それでも、足を一歩動かすだけの練習が役に立つ。
何となく、それが面白かった。
◇
組合裏の練習場では、レグが昨日よりゆっくり弓を引いていた。
「急ぐな」
狩人のディンが言う。
「獲物は待ってくれない」
「だからこそ、当たらない矢を早く射っても意味ない」
レグは口を閉じた。
的を見る。
矢を放つ。
今度は中心から少し右。
「当たった」
「今のはいい」
レグが嬉しそうに次の矢へ手を伸ばす。
「休め」
「まだ一個」
「今いいの射っただろ。そこで一回止めろ」
「なんで?」
「身体に覚えさせる」
レグは納得していない顔だったが、弓を下ろした。
横に伏せていたクロが顔を上げる。
「クロも休んでる」
「そいつは最初から何もしてないだろ」
「見てる」
「それは休憩だ」
ディンが笑った。
レグは少し考えてから、クロの横へ座る。
「十本全部当てたい」
「そのうちな」
「いつ?」
「分からん」
「遅い」
「弓はそういうもんだ」
レグは自分の指先を見る。
以前なら。
できないことがあると、少し不機嫌になっていた。
今も悔しい。
でも。
「明日もやる」
「明日も町にいるのか?」
「分からない」
「じゃあ次に来たときだな」
レグが顔を上げる。
「次ある?」
「町がなくならなきゃな」
「じゃあある」
妙に確信した返事だった。
◇
昼過ぎ。
全員が宿へ戻った。
カイルだけはすでに卓についていて、例の地図を眺めている。
「お前、今日もずっとそれ?」
ハヤトが座ると、カイルは首を横に振った。
「午前中は商人に話を聞いた」
「何かあった?」
「ルディアまでなら、明後日出る荷馬車がある」
「護衛?」
「そこまで大げさじゃない。同行者を募ってる。荷運びを手伝えば食事代くらいは出すそうだ」
レグが反応する。
「行く?」
「まだセラが」
三人の視線がセラへ集まった。
セラは水を一口飲んでから、少し考える。
「明日まで」
「ここに?」
「うん」
ハヤトが聞き返さず待つと、セラは続けた。
「マーナさんに、もう一日教わりたい。治療の記録とか、薬の使い方とか。まだ全然知らないことがあるから」
「じゃあ明後日ちょうどいいじゃん」
「いいの?」
「荷馬車も明後日なんだろ?」
カイルが頷く。
「朝出る予定」
レグも特に異論はない。
「明日ディンのとこ行く」
「俺もベルドにもう一日しごかれてくるか」
「しごかれてるの?」
セラが少し笑った。
「結構」
「何習ってる?」
「歩き方」
「歩けるでしょ」
「俺もそう思ってた」
セラがさらに笑う。
それぞれが、この町で見つけたもの。
大きな目的ではない。
けれど、途中で切り上げたくないと思える程度には、自分で始めたことだった。
「じゃあ明後日、ルディア」
セラが言った。
ハヤトも頷く。
「決まりだな」
◇
翌日は静かに過ぎた。
セラは治療所で、傷を治すより長い時間を記録と薬の整理に使った。
レグは矢を二十本だけ射ち、昨日より多く的へ当てた。
ハヤトは十回連続でベルドの初動から外れることに成功し、ようやく「まし」ではなく「それでいい」と言われた。
カイルは旅に必要な物資を揃えた。
夕方。
セラが治療所を出ようとすると、マーナに呼び止められた。
「これ、持ってきな」
渡されたのは、使い込まれた薄い冊子だった。
先日借りた薬草の本とは違う。
中には症状、治療方法、失敗例まで細かく書かれている。
「これ……マーナさんの?」
「昔の記録をまとめたやつ」
「借りていいんですか?」
「返しに来る理由になるだろ」
セラが冊子を見下ろす。
「いつになるか分かりませんよ」
「旅してるんだから当然だ」
マーナは気にした様子もなく、治療所の奥へ戻ろうとした。
セラが慌てて呼ぶ。
「マーナさん」
「何?」
「ありがとうございました」
「まだ何も教え終わってないよ」
「え?」
「次来たら続き」
セラは少し驚いて。
「はい」
笑った。
◇
翌朝。
トルカの門前には、二台の荷馬車が停まっていた。
商人たちが荷を確認し、馬の具合を見る。
その横で、ハヤトたちも荷物を背負った。
「忘れ物ない?」
セラが尋ねる。
「ない」
レグは弓を背負い直す。
クロも隣にいる。
カイルは当然のように地図を抱えていた。
「ハヤトは?」
「ない……と思う」
「曖昧」
「財布ある。剣ある。荷物ある。大丈夫」
「ならいいけど」
門を出る前に、ハヤトは一度だけ町を振り返った。
ほんの数日の滞在。
それでも最初に着いたときより、この町を知っている。
セラにも。
レグにも。
自分にも。
また戻ってきたい場所が一つ増えた。
「ハヤト、行くよ」
セラに呼ばれる。
「ああ」
追いつくと、荷馬車がゆっくり動き始めた。
向かうのはルディア。
北東へ続く道の途中にある町。
ガルドを追うためだけではない。
まだ、その先を決める必要もない。
まずは一つ先へ。
地図に書かれた道を、自分たちの足で確かめに行く。




