名前を呼ぶ声
森の奥から聞こえた声に、レグは動けなかった。
「……レグ?」
もう一度。
今度は、はっきりと。
古い名ではない。
役目でもない。
何度も自分で選び直してきた名前だった。
人影の手から、薬草の束が落ちる。
白銀に近い長い髪。
静かな目。
薄暗い森の中でも分かるほど淡い肌。
額の脇には、小さな角が二本残っている。
レグはその顔を知らない。
少なくとも、思い出せる記憶の中にはなかった。
それでも。
「……おかあさん?」
声にした瞬間、胸の奥が痛くなった。
女――ミレアの顔が歪む。
驚いているのか。
泣きそうなのか。
レグには分からなかった。
「そう」
やっと、それだけ答えた。
レグの足が一歩前へ出る。
止まる。
もう一歩。
また止まる。
いつもなら迷わず走るところだった。
でも、今だけはどう動けばいいのか分からない。
ミレアの方も同じだった。
十数年。
離れていた娘。
最後に見た姿は、まだ小さな幼竜だったはずだ。
目の前にいるのは、人の姿をした成人のレグ。
それなのにミレアは、迷わず名前を呼んだ。
「レグ」
「……うん」
「本当に」
その先が続かない。
ミレアが一歩進む。
レグも。
二人の距離が縮まる。
あと少し。
ミレアが手を伸ばした。
レグの頬に触れる寸前で、その手が止まる。
「触ってもいい?」
レグが目を瞬いた。
母親なのに。
勝手に触らない。
レグはゆっくり頷いた。
「うん」
ミレアの指が頬に触れる。
温かい。
その瞬間。
レグの中で、何かが弾けた。
顔は思い出せない。
でも、この手。
頭を撫でられた感触。
抱き上げられたとき、頬に触れた指。
眠る前。
熱を出した夜。
断片ばかり。
なのに全部、同じ温度だった。
「……おかあさん」
レグの声が震えた。
「うん」
「おかあさん」
「うん」
三度目は言えなかった。
レグが前へ出る。
ミレアの胸にぶつかるように抱きついた。
ミレアの身体が一瞬硬くなる。
すぐに両腕がレグの背中へ回った。
「ごめんね」
小さな声だった。
レグの肩が震える。
「……なんで」
「うん」
「なんで……」
言葉にならない。
泣き声に混ざって消える。
ミレアは何も説明しなかった。
ただ、レグの背中をゆっくり撫でていた。
「ごめんね」
もう一度。
その言葉だけは、逃げなかった。
少し離れたところで、ハヤトは立ったまま動けなかった。
横を見る。
セラはすでに目元を拭っている。
「泣いてる?」
小声で聞く。
「……うるさい」
「俺も危ない」
「じゃあ見ないで」
「見てない」
カイルは何も言わず、少しだけ視線を外していた。
クロはレグのいた場所に伏せたまま、静かに尻尾を動かしている。
どれくらいそうしていたのか。
レグがようやく顔を上げる。
目は真っ赤だった。
「おかあさん」
「なに?」
「ほんもの?」
ミレアが少しだけ笑った。
「どう確かめる?」
「……わかんない」
「困ったね」
声は静かだった。
でも、その言い方にレグが少しだけ目を見開く。
「それ」
「何?」
「知ってる」
「そう?」
「おかあさん、よく言ってた」
ミレアの目が揺れる。
「覚えてるの?」
「ちょっとだけ」
「……そう」
嬉しい。
でも、それだけではない。
少し寂しそうにも見えた。
レグはそこで、後ろにいるハヤトたちを思い出した。
「あ」
慌てて涙を拭く。
「おかあさん」
「うん」
「紹介する」
レグが振り返る。
「ハヤト」
呼ばれた。
「セラ」
「うん」
「カイル」
「いる」
「クロ」
クロが顔を上げる。
レグは少し考えて。
「レグと一緒に来た」
ミレアは四人と一匹を見る。
その視線がクロの首元で一度止まった。
古い印。
だが何も言わない。
「初めまして」
セラが先に頭を下げた。
「セラです」
「ハヤトです」
「カイル」
ミレアも静かに頭を下げる。
「ミレアです」
そこまで普通に名乗ったあと。
「……娘がお世話になりました」
セラが一瞬固まった。
ハヤトも。
レグだけが首を傾げる。
「お世話?」
「こういうとき言うんだよ」
ハヤトが小声で教える。
「そうなの?」
「多分」
「じゃあ」
レグがミレアを見る。
「ハヤトとセラにいっぱいお世話された」
「レグ」
セラが慌てる。
「何?」
「その言い方だと全部面倒見てもらってたみたいになる」
「違う?」
「……違わないところもあるけど」
ミレアの口元がほんの少し緩んだ。
レグはそれに気づく。
「おかあさん、笑った」
「笑うよ」
「セイン、静かって言ってた」
「セインに会ったの?」
「うん」
「元気だった?」
「元気。レグが小さいとき指噛んだって」
ミレアが目を閉じた。
「覚えてたんだ……」
「ほんと?」
「三日くらい言ってた」
「セインが?」
「ガルドが」
レグが吹き出した。
「おとうさん?」
「『セインが娘に噛まれた』って、会う竜にずっと話してた」
「やっぱりうるさい」
「うるさいよ」
初めて。
ミレアの声に、はっきりと笑いが混じった。
レグはその顔をじっと見る。
「似てる?」
「何が?」
「レグ」
ミレアが少しだけ首を傾げる。
「誰に?」
「おとうさんと、おかあさん」
「……両方」
「ほんと?」
「顔は私に近い」
「うん」
「落ち着かないところはガルド」
「む」
「でも」
ミレアの指が、もう一度レグの髪に触れる。
「あなたはあなた」
レグはしばらく何も言わなかった。
それから。
「うん」
小さく答えた。
◇
「外で立ったまま話すのも変ね」
ミレアが落とした薬草を拾う。
「入って」
家の中は簡素だった。
小さな卓。
椅子。
寝台。
棚には乾燥させた薬草や瓶が並んでいる。
古代施設らしいものは何もない。
本当に、一人で暮らすための家だった。
「ここ住んでる?」
レグが辺りを見回す。
「今はね」
「ずっと?」
「ずっとではない」
「どれくらい?」
ミレアが少し考える。
「今の場所に落ち着いてからは、三年くらい」
「その前は?」
「何度か場所を変えた」
「なんで?」
質問が止まらない。
ミレアは嫌そうな顔をしなかった。
「追われないため」
「レグの名前?」
「それもある」
答えたところで、ミレアが一度話を止めた。
「その話は、ちゃんとする」
「今?」
「今でもいいけど」
ミレアはレグの顔を見る。
「あなた、まだ何も食べてないでしょう」
「食べた」
「いつ?」
「夕方」
「今もう夜」
「……」
「お腹空いてる?」
「ちょっと」
ハヤトが笑いそうになる。
母親には勝てないらしい。
「先に食べよう」
「うん」
ミレアが鍋を火にかける。
セラがすぐ立った。
「手伝います」
「ありがとう」
「私も」
レグも立つ。
「座ってて」
「なんで?」
「今日はいいから」
「レグもできる」
ハヤトが口を挟む。
「本当に?」
レグが振り返る。
「できる」
「何作れる?」
「……肉焼く」
「それ料理か?」
「料理」
ミレアが少し笑う。
「ガルドと同じこと言ってる」
「おとうさんも?」
「焼けば料理だって」
「ほら」
「そこ誇るところじゃないぞ」
レグは満足そうだった。
結局、セラだけが台所を手伝い、ハヤトとカイルは卓を整えた。
レグはミレアのすぐ近くから離れない。
クロもその足元。
食事が始まると、しばらくは本当に普通の話ばかりだった。
どこから来たのか。
どんな町を通ったのか。
レグが弓を練習していること。
人化を覚えたこと。
竜の谷でルクアという友達ができたこと。
「友達?」
ミレアが聞く。
「うん」
「勝手に布取る」
「……仲良いの?」
「仲いい」
「ならよかった」
温泉と牛乳の話までして。
セイン。
ネイラ。
オルネ。
トーレン。
名前が出るたび、ミレアは懐かしそうな顔をした。
「みんな元気?」
「うん」
「ネイラが、元気だったか聞いてって」
「そう」
「会いたいって言わなくていいって」
「ネイラらしい」
ミレアは少し目を伏せる。
「……帰らないとね」
「谷に?」
「いつか」
「レグも行く」
「一緒に?」
「うん」
ミレアの手が止まった。
「いいの?」
「なんで?」
「あなたは」
そこで言葉を選ぶ。
「私と一緒にいたいと思ってくれるの?」
レグは不思議そうにミレアを見る。
「おかあさんだから」
簡単な答え。
でも、すぐ続けた。
「でも、ずっとここにいるのは違う」
ミレアは黙る。
「レグ、ハヤトとセラと行く」
ハヤトもセラも口を挟まなかった。
「カイルとクロも」
「俺も入れてくれるのか」
「一緒だから」
「ありがとな」
レグはミレアを見る。
「でも、おかあさんとも会いたい」
「……うん」
「だからまた来る」
ミレアの目が潤んだ。
今度は隠さなかった。
「そう」
「泣いてる?」
「少し」
「なんで?」
「嬉しいから」
「嬉しいと泣く」
「泣くこともある」
レグは少し考える。
「レグもさっき泣いた」
「うん」
「同じ?」
「多分ね」
レグが笑う。
食事が終わる頃には、最初の緊張はかなり薄れていた。
けれど。
聞かなければならないことは残っている。
ミレアも分かっているようだった。
片付けを終える。
火の前。
レグとミレアが向かい合う。
ハヤトたちは少し離れた。
「おかあさん」
「うん」
「聞いていい?」
「何でも」
レグは胸元へ手を置いた。
「もう一個の名前」
ミレアの表情が変わる。
「うん」
「封じた理由、ちょっと分かった」
「誰から?」
「セインと、オルネ。おとうさんの記録も」
「ガルドの?」
「いっぱいあった」
「珍しい」
ハヤトが思わず吹き出しそうになる。
母親まで同じ評価だった。
「おとうさん、書くとちゃんとしてた」
「それも珍しい」
「ひどい」
レグは少し笑う。
でもすぐ真顔に戻った。
「古い名前、まだ知らない」
「そう」
「聞かなかった」
「どうして?」
「先に、なんで封じたか知りたかった」
ミレアはゆっくり頷く。
「それでいいと思う」
「おかあさん」
「うん」
「今なら聞いていい?」
ミレアはすぐには答えなかった。
「名前を?」
「違う」
レグは首を横に振った。
そして。
ずっと胸の中に残っていた問いを口にする。
「なんで迎えに来なかったの?」
部屋が静かになった。
ミレアの顔から、わずかに残っていた笑みが消える。
レグは逃げずに続けた。
「守るために離れたのは、分かった」
「……うん」
「名前も隠した」
「うん」
「おとうさんも、おかあさんも、レグのために色々した」
「……うん」
「でも」
レグの指が膝の上で握られる。
「レグ、ずっと一人だった」
ミレアが目を伏せた。
「ハヤトとセラに会うまで」
「……」
「なんで来なかった?」
今度は、子どものような声だった。
「レグがどこにいるか、知ってた?」
ミレアはしばらく答えられなかった。
やがて。
「知っていた」
レグの目が揺れる。
ハヤトもセラも動かなかった。
「……知ってたの?」
「場所までは分からなくても、生きていることは分かってた」
「じゃあ」
レグの声が震える。
「なんで?」
ミレアは逃げなかった。
娘の目を見た。
「怖かったから」
「何が?」
長い沈黙。
「私があなたのところへ戻ることで」
ミレアの手が僅かに震える。
「今度こそ、本当にあなたを失うことが」
レグは何も言わない。
「それが正しかったとは言わない」
ミレアは静かに続けた。
「あなたを守ったつもりだったとも、言い訳にしたくない」
そして。
「私は、あなたを一人にした」
その言葉だけは、はっきりと言った。
「それは、私が選んだこと」
レグの目から、また一粒だけ涙が落ちた。
「……うん」
「怒っていいよ」
「怒ってる」
「うん」
「会えて嬉しい」
「うん」
「でも怒ってる」
「それでいい」
レグは涙を拭かなかった。
「いっぱい聞く」
「全部聞いて」
「おとうさんのことも」
「うん」
「名前のことも」
「うん」
「なんで離れたかも」
「全部話す」
レグは少し黙ったあと。
「今日は逃げない?」
ミレアの目から、初めて涙が落ちた。
「逃げない」
短い返事だった。
レグはそれを聞いて、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。




