明日の前に
東へ向かう準備は、昼前にはほとんど終わった。
白い岩が三つ並ぶ場所。
その先にある、小さな森。
ガルドが残した記録をもとにネイラとオルネから道を聞き、食料と水も揃えた。明日の朝に谷を出れば、無理をせず進んでも数日で辿り着けるらしい。
あとは休むだけ。
そんな時間ができたのは、いつ以来だろう。
「レグ!」
家を出た途端、頭上から声が落ちてきた。
岩の上にルクアが立っている。
「飛ぶよ!」
「あ」
レグの顔が明るくなる。
「行く!」
「ちょっと待って」
セラが呼び止めた。
レグはもう走り出しかけている。
「弓置いていきなよ」
背負ったままだった。
「……忘れてた」
「あと水」
「飛ぶだけ」
「昨日もそれで喉渇いたって言ってたでしょ」
「持ってく」
素直に荷物を置き直す。
ハヤトはその様子を眺めながら笑った。
「完全に扱い分かってるな」
「何が?」
「いや、別に」
余計なことを言うと矛先がこちらへ来そうなのでやめた。
準備を終えたレグは竜の姿へ戻り、ルクアと一緒に谷の上空へ飛び出した。
二頭が岩壁の間を抜けていく。
レグの飛び方は、谷へ来たばかりの頃より明らかに安定していた。
「速くなったね」
セラが眩しそうに空を見上げる。
「着地もだいぶ上手くなった」
「昨日ずっとやってたもんね」
「勝てたのかな」
「本人は勝ったって言いそう」
「ルクアは絶対認めなさそうだけど」
二人で笑う。
少し離れた場所では、カイルがオルネのところへ向かう準備をしていた。
「また記録?」
ハヤトが聞く。
「出る前に見られるものは見とく」
「夕飯までには戻れよ」
「分かってる」
「本当に?」
「お前までセラみたいなこと言うな」
「便利なんだよ、この立場」
「やめろ」
カイルは嫌そうな顔をして去っていった。
昼を過ぎても、谷は穏やかだった。
人の姿で畑を見て回る竜。
川辺で遊ぶ小さな竜。
岩の上で何時間も動かず昼寝をしている大きな竜。
最初に見たときは何もかもが珍しかった景色が、今は少しずつ生活として見える。
やがてレグとルクアが戻ってきた。
二頭が順番に高度を落とす。
先に降りたルクアはほとんど音もなく着地した。
次にレグ。
翼を広げ、速度を落とし――。
足が地面につく。
一歩。
止まる。
「できた!」
人の姿へ戻ったレグがすぐこちらを見る。
「見た?」
「見た」
「きれいだった?」
「かなり」
レグは満足そうに頷く。
隣でルクアが腕を組んだ。
「でもまだ私の方が上手」
「今日は同じくらい」
「違う」
「ちょっとだけ?」
「もっと」
レグがハヤトを見る。
「どっち?」
「俺に振るなよ」
「見てた」
「見てたけど」
ルクアまでこちらを見る。
「どっち?」
「……ルクア」
「ハヤト!」
「聞いたのレグだろ!」
レグが頬を膨らませる。
「次は勝つ」
「明日出るんじゃないの?」
「帰ってきたら」
ルクアが一瞬止まった。
「帰ってくる?」
「うん」
「いつ?」
「わかんない」
それでもレグは迷わなかった。
「でも来る」
ルクアが笑う。
「じゃあ次」
「勝つ」
「まだ言ってる」
二人がまた言い合い始める。
ハヤトはそれを見ながら、少しだけ安心していた。
レグにとって竜の谷は、両親の痕跡を探すだけの場所ではなくなった。
ここにも、帰ってきたい理由ができた。
◇
午後。
「じゃあ行くよ」
ネイラに案内され、谷の北側へ向かった。
「どこ?」
レグが聞く。
「昨日言ってたでしょ」
「牛乳?」
「その前」
「温泉!」
「そう」
レグが嬉しそうにルクアを見る。
「温泉!」
「そんなに珍しい?」
「好き」
ハヤトとセラは一瞬だけ目を合わせた。
前に温泉へ泊まったときのことを、二人とも思い出したらしい。
「……今回は何も起きないよね」
セラが小さく言う。
「俺に聞くなよ」
「一応」
「前のも俺が起こしたわけじゃないからな」
「分かってる」
「本当に?」
「しつこい」
「はい」
岩場を抜けると、白い湯気が見えてきた。
いくつもの天然の湯溜まりが段々に並んでいる。
一番大きな湯には、竜がそのままの姿で入っていた。
巨大な身体が半分ほど湯に沈んでいる。
「でっか……」
ハヤトが立ち止まる。
「普通に入ってる」
「温泉なんだから入るよ」
ルクアには何もおかしくないらしい。
別の湯には人化した竜たちもいる。
ハヤトが周囲を確認する。
「……分かれてない?」
「何が?」
ルクアが聞く。
嫌な予感が当たった。
「いや、人間は普通、男と女で」
「なんで?」
「なんでって……」
説明しようとして困る。
セラが横から言った。
「人間はそういうものなの」
「見たらだめ?」
「だめというか……」
「恥ずかしい?」
「そう」
「竜はあんまり気にしない」
「それは見れば分かる」
ネイラが少し先を指した。
「人間が使うなら下の方がいいよ。岩で分かれてるから」
二つの小さな湯。
中央には高い岩壁がある。
ハヤトは心底安心した。
「最初からあそこ教えてほしかった」
「そんなに気にするとは思わなかった」
「気にするんです」
セラの返事は速かった。
男女に分かれて湯へ入る。
こちら側にはハヤトと、途中で合流したカイル。
向こうにはセラ、レグ、ルクア。
岩壁は十分高い。
「今回は平和だな」
ハヤトが肩まで浸かる。
「何が?」
「こっちの話」
カイルは気にせず湯へ沈む。
「生き返るな……」
「記録庫いた時間長すぎじゃない?」
「最後だからな」
そのとき。
向こうからレグの声が飛んだ。
「ハヤト!」
「何ー?」
「ルクア、尻尾だけ出せる!」
「……どういうこと?」
返事の代わりに。
ばしゃん。
大量の湯が岩壁を越えて降ってきた。
「熱っ!」
ハヤトとカイルが同時に身を起こす。
向こうから笑い声。
「ごめん!」
ルクアだ。
「なんで尻尾出した!?」
「レグが見たいって」
「レグ!」
「長かった」
「感想じゃない!」
さらに奥の大きな湯で、竜が寝返りを打った。
水面が大きく動く。
「待て待て待て」
嫌な予感。
次の瞬間、こちらの湯にも波が押し寄せた。
「うわっ!」
向こうではレグが大笑いしている。
「竜の温泉、落ち着かねえ……」
カイルが湯を拭いながら呟く。
「同感」
前の温泉とは、別の意味で騒がしかった。
◇
湯上がり。
約束していた牛乳を受け取ると、レグとルクアは並んで一気に飲んだ。
「おいしい」
「でしょ?」
「もう一本」
「早くない?」
ネイラが呆れる。
「夕飯食べるんだから一本にしなさい」
「入る」
「入るかどうかじゃない」
レグは少し残念そうに瓶を置いた。
そのあとも、ルクアは谷のあちこちを案内した。
普段使っている飛行場所。
道具を作る工房。
小さな竜たちが集まる水場。
両親とは何の関係もない場所ばかりだった。
それでもレグは楽しそうだった。
夕食を終えたあと。
「レグ」
ルクアが声をかける。
「今日うち泊まる?」
「いいの?」
「うん」
レグは少し考えてから、ハヤトとセラを見る。
「行っていい?」
「レグが行きたいなら」
ハヤトが答える。
「明日の朝は戻ってきてね」
セラが続けた。
「出発するから」
「うん」
「寝坊しないでよ」
「しない」
ルクアが笑う。
「私が起こす」
「ルクアも寝坊しそう」
「しないよ」
「ほんと?」
二人で言い合いながら準備を始める。
クロもレグについていくらしい。
「じゃあまた明日」
「おやすみ」
「まだ寝ない」
「知ってるよ」
レグとルクア、クロが夜の谷へ消えていった。
その背中を見送りながら、ハヤトはふと気づく。
「初めてじゃないか?」
「何が?」
「レグが俺たちと別のところに泊まるの」
セラも少し考える。
「……そうかも」
「変な感じだな」
「寂しい?」
セラがこちらを見る。
「ちょっと」
「私も」
素直な答えだった。
二人でしばらく、レグが消えた方向を見る。
「でも」
セラが言う。
「よかった」
「何が?」
「ここにレグの友達ができて」
「ああ」
「最初、谷に来るのちょっと怖かったんだ」
「前にも言ってたな」
「うん」
セラは家の前の石段へ腰を下ろす。
ハヤトも少し間を空けて隣へ座った。
「レグが、ここに残りたいって言うかもしれないと思ってた」
「俺も」
「もしそう言ったら、止められないでしょ?」
「止めない」
「……寂しくても?」
「寂しくても」
セラが笑う。
「同じだ」
「でも今は」
ハヤトは夜の谷を見る。
「ここも好きで、俺たちとも旅する。それでいいんだろ」
「うん」
「どっちか選ばなきゃいけないわけじゃない」
「そうだね」
少しの沈黙。
風が気持ちいい。
湯上がりの身体から、ようやく熱が引き始めていた。
「明日から、また三人だね」
「クロとカイルもいるけどな」
「そこは分かってる」
セラが少し笑う。
「最初の三人って意味」
「ああ」
「ミレアに会えたら、どうなるんだろ」
「分からない」
「レグ、泣くかな」
「どうだろうな」
「ハヤトは?」
「俺?」
「泣きそう」
「なんで俺が」
「レグが泣いたらつられそうじゃない?」
「……否定できない」
「でしょ」
セラが笑った。
話はそこで途切れた。
けれど、どちらも立とうとしない。
しばらくしてハヤトが気づく。
最初より距離が近い。
いつ縮まったのかは分からない。
「……セラ」
「何?」
「近くない?」
セラがこちらを見る。
視線を落とし、二人の間を見る。
「そうかも」
「離れないんだ」
「嫌?」
「いや」
答えると。
セラが少しだけ困ったように笑った。
「じゃあいいでしょ」
「……まあ」
また沈黙。
今度はさっきまでとは違った。
前の温泉では酒があった。
セラは酔っていた。
ハヤト自身も、どこまで本気にしていいのか分からなかった。
今日は違う。
セラは素面だ。
自分も。
「前の温泉のとき」
セラがぽつりと言った。
「またその話?」
「私、どれくらい酔ってた?」
「かなり」
「何か言った?」
「少し」
「何」
「聞かない方がいい」
「何それ」
「覚えてないならそのままでいいだろ」
「気になる」
「やめとけって」
「……ハヤトが困ること?」
「困るというか」
「じゃあ言ったんだ」
「何を」
「何か」
「雑だな」
セラはしばらくハヤトを見ていた。
「私、ハヤトに近かった?」
「近かった」
「どれくらい?」
「……かなり」
セラがほんの少しこちらへ寄った。
「これくらい?」
「お前、わざとやってるだろ」
「ちょっと」
「ちょっとかよ」
離れない。
ハヤトも離れなかった。
目が合う。
今までは、こうなるとどちらかが冗談を言った。
レグが割って入ることもあった。
今回は誰もいない。
「……セラ」
「うん」
名前を呼んだだけ。
次の言葉が出てこない。
セラも待っている。
ハヤトは少し迷ってから、頬にかかった髪へ手を伸ばした。
指先で払う。
セラは動かなかった。
「これ、前もやろうとしてなかった?」
「……よく見てるな」
「止めたから気になった」
「今は?」
セラが答える代わりに、ハヤトの袖を軽く掴んだ。
それで十分だった。
ゆっくり顔を寄せる。
セラも目を閉じる。
唇が触れた。
ほんの短い時間。
すぐに離れる。
「……」
「……」
二人とも何も言えなかった。
先に目を逸らしたのはセラだった。
頬が赤い。
「……今の」
「うん」
「勢い?」
ハヤトは少し考えた。
「勢いってことにした方がいい?」
セラがこちらを見る。
しばらく黙って。
「それは嫌」
小さな声だった。
「俺も」
それを聞いたセラが、今度は自分から距離を詰めた。
二度目。
さっきより長い。
ハヤトの手が自然にセラの肩へ回る。
セラも服の胸元を掴む。
離れたあとも、距離はほとんど戻らなかった。
「……これ」
ハヤトが言う。
「何?」
「結構まずくない?」
「何が?」
「いや」
「ちゃんと言って」
「言わせる?」
セラも意味は分かっているらしい。
顔を赤くしたまま、それでも逃げない。
「……部屋、戻る?」
どちらから言ったのか。
言ったあとで、二人とも黙った。
結局、並んで立ち上がる。
ネイラの家へ戻る道。
会話はほとんどなかった。
肩が時々触れる。
それだけで意識する。
家に着く。
カイルの部屋は奥だ。
ネイラももう休んでいるらしい。
静かだった。
ハヤトの部屋の前。
二人とも立ち止まる。
扉へ手を掛けて。
ハヤトが動きを止めた。
「セラ」
「……何?」
「入ったら」
言葉を探す。
「多分、普通に話して終わらないと思う」
セラの顔がさらに赤くなった。
「……分かってる」
「嫌なら、ここでやめる」
「嫌じゃない」
即答だった。
それで今度はハヤトが黙った。
「嫌じゃないから」
セラが視線を落とす。
「困ってる」
「ああ」
「ハヤトは?」
「同じ」
扉の前で、しばらく動けなかった。
セラが小さく息を吐く。
それから。
「……今日は、ここまでにしない?」
ハヤトはセラを見る。
「今日は?」
セラが顔を上げる。
「そこ拾わないで」
「いや、大事だろ」
「もう」
困ったように笑う。
それでも、少し考えてから。
「……帰ってきたら」
「うん」
「そのとき、また考える」
「分かった」
「絶対覚えてる顔してる」
「忘れる方がおかしいだろ」
「そうだけど……」
セラは一歩離れた。
でもすぐには帰らない。
「ハヤト」
「ん?」
「さっきの」
「どっち?」
「……二回とも」
「うん」
「後悔してないから」
ハヤトは少し笑った。
「俺も」
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみ」
セラが自分の部屋へ向かう。
途中で一度だけ振り返る。
目が合う。
今度は二人とも少し笑った。
◇
翌朝。
「ただいま!」
まだ日が昇りきる前から、レグの声が響いた。
「早いな……」
ハヤトが部屋を出る。
同じタイミングで、向かいからセラも出てきた。
目が合う。
「……おはよう」
「おはよう」
昨夜のことを思い出したのは、おそらく同時だった。
セラの顔が少し赤くなる。
そこへレグが走ってくる。
「セラ」
「何?」
「顔赤い」
セラが固まる。
「……見ないで」
「なんで?」
「いいから」
レグは不思議そうにしながら、今度はハヤトを見る。
「ハヤトも変」
「俺は何も言われてないだろ」
「なんか変」
「朝だから」
「いつも朝」
「それはそうだけど」
後ろからルクアもやってくる。
「二人とも眠いの?」
「多分そう」
レグが勝手に納得した。
「じゃあごはん食べたら元気になる」
「そうだな」
ハヤトはそれに乗ることにした。
セラは何も言わず、こちらを一度だけ睨む。
でもその目には、本気で怒っている様子はなかった。
朝食を終えれば。
東へ出発する。
ミレアを探す旅が始まる。
その前の一日で。
レグには、また戻ってきたい場所が増えた。
そしてハヤトとセラの間にも。
昨日までにはなかったものが、一つ増えていた。




