届かなかった続きを
《閉じる》が二度目に自力で動いたのは、夜が明ける少し前だった。
最初よりも光は強かった。
焦げた溝の途中で何度か揺らぎながら、それでも途切れずに中央の石柱まで届く。
「二回」
レグが眠そうな目をこすりながら数えた。
「あと一回だな」
カイルが壁にもたれて答える。
「寝てない?」
「少し寝た」
「どれくらい?」
「その質問、セラみたいになってきたぞ」
「寝てないんだ」
「……寝る」
横でセラが呆れたように息を吐いた。
谷へ戻り、短く休む。
三度目の光を確認できたのは、日がかなり高くなってからだった。
今度は誰も声を上げなかった。
床を走った淡い光が、壊れかけた箇所を越え、最後まで流れきる。
黒い装置はわずかに反応しただけだった。
「三度」
レグが言う。
「ああ」
オルネが床から手を離す。
何もしていない。
確認しただけだ。
「これで?」
「少なくとも、ガルドの書いた条件は満たした」
「装置外す?」
「今すぐは外さない」
トーレンが答えた。
「谷の連中で調べる。急に抜いてまた止まったら笑えん」
「ちゃんとする?」
「お前に言われたくない」
「レグ、ちゃんとしてる」
「知ってる」
最近は否定すらされなくなった。
トーレンは扉と黒い装置を見比べる。
「ここから先は任せろ」
「ほんとに?」
「ああ」
「壊さない?」
「壊す前にオルネへ聞く」
「俺にも聞け」
カイルが口を挟む。
「お前は谷の竜じゃないだろ」
「構造の写しは俺が一番持ってる」
「……必要になったら聞く」
「よし」
満足そうだった。
ハヤトはそのやり取りを眺めながら、改めて円形の部屋を見る。
ここへ来たときは、レグに何かをさせなければならない場所だと思っていた。
けれど違った。
レグが《呼ぶ》を正常な形へ戻したことで、止まりかけていたものが動き出した。
そこから先を直すのは、この谷で暮らしてきた者たちの仕事だ。
「行こう」
レグが先に扉へ背を向けた。
「もういい?」
セラが聞く。
「うん」
「気にならない?」
「気になる。でも」
レグは振り返らなかった。
「おとうさんが、レグにやらせるなって書いたから」
少しだけ間を置く。
「それに、トーレンいる」
「信用されたな」
トーレンが言う。
「ちょっと」
「ちょっとか」
「オルネもいるから」
「そっちか」
ネイラが笑った。
谷へ戻った一行は、そのまま南へ向かった。
ガルドが最後に立ち寄ったという見張り台。
竜の谷の中心からは少し離れているらしく、ネイラも途中までしか来たことがないという。
「何見るところ?」
歩きながらレグが尋ねる。
「昔は谷の外を見張る場所だったみたい」
ネイラが答える。
「どっち側?」
「東と南」
「おかあさんの方?」
「方角だけならね」
谷の道は次第に細くなった。
人の姿で通るには問題ないが、大型の竜が降りられる場所は少ない。
岩壁には古い足場。
ところどころ崩れた階段。
それでも道自体は残っている。
「ガルド、怪我してここ登ったのか」
ハヤトが上を見る。
「かなり酷かったって言ってたよな」
カイルが答える。
「飛べなかったの?」
レグがネイラを見る。
「翼にも傷があった」
「じゃあ歩いた?」
「多分」
レグは少し黙った。
「またばか」
「そこは本人に言ってやって」
ネイラの声は少しだけ優しかった。
見張り台へ着いたのは昼過ぎだった。
建物と呼べるものは、ほとんど残っていない。
岩の上に円形の足場があり、その周囲を腰ほどの石壁が囲んでいるだけ。
ただ。
「すごい」
セラが足を止めた。
谷の南側が一望できる。
さらにその向こう。
山と森。
遠く東へ連なる白っぽい岩山まで見えた。
レグはすぐ石壁へ近づく。
「どっち?」
「何が?」
「おかあさん」
ネイラは困ったように笑う。
「そこまでは見えないよ」
「そっか」
それでもレグは東を見続けた。
クロは見張り台の中央を一周し、すぐに端へ向かった。
「クロ?」
古い石壁の下。
匂いを嗅ぐ。
「また何かある?」
カイルがしゃがむ。
「壊すなよ」
ハヤトが言う。
「最近お前それ気に入ってるだろ」
「便利だから」
「何もしてない」
「知ってる」
石壁の一部。
他より少しだけ新しい。
「埋め直してるな」
カイルが指で縁を追う。
「外していい?」
「私を見るな」
ネイラが言う。
「ここ私の管理じゃない」
「じゃあ?」
「慎重にやるならいいんじゃない」
「急に軽いな」
カイルとハヤトで石を少しずつ動かす。
奥にあったのは、小さな空洞だった。
「革」
レグが先に見つける。
筒状に巻かれたもの。
紐で縛ってある。
「おとうさん?」
「印がある」
カイルが示す。
二本の線が重なり、最後で離れる。
間違いない。
「続き」
レグが呟く。
円形の部屋で見つけた革片。
切られていた文章。
その続きがここにある可能性が高い。
カイルが紐を解いた。
「読むぞ」
「うん」
最初の文字を見た瞬間、カイルが少し笑った。
「何?」
「《ちゃんと南まで来たか》」
「……」
「ガルドだな」
ネイラが即答した。
「おとうさん、見てる?」
レグが周囲を確認する。
「多分見てない」
ハヤトが答える。
「続きは?」
カイルが読む。
「《ここまで来たなら、《閉じる》は自分で戻ったんだろう》」
ガルドはそこまで予想していた。
「《ならもう谷のことは谷の連中にやらせろ》」
トーレンが聞けば顔をしかめそうだった。
「《特にトーレン。あいつは文句を言うが働く》」
「名前書いてる」
レグが笑う。
「本人に見せたいな」
「絶対嫌がる」
ネイラも笑っていた。
だが次の行で、カイルの表情が変わる。
「《ここからはミレアの話だ》」
笑いが消えた。
レグが一歩近づく。
「読んで」
「ああ」
カイルはゆっくり続けた。
「《扉の向こうへ行くな》」
「やっぱり」
ハヤトが呟く。
「《あそこに残っている声は、ミレアが置いたものだ》」
レグの目が動く。
「声、おかあさんだった?」
「本人の声を使った記録みたいなものだな」
カイルが答える。
「本人が今も向こう側にいる証拠じゃない」
「うん」
今回は落ち込まなかった。
すでにその可能性は考えていたからだろう。
「次」
革にはまだ長く文章が残っている。
「《あの先は古い名を拾う場所につながっている》」
「拾う?」
セラが聞き返す。
「そのまま読むとそうだ」
オルネがいないため、カイルも慎重だった。
「《ミレアはそこを止めた》」
さらに。
「《だから声だけ残して戻った》」
「戻った?」
レグが反応する。
「おかあさん、扉から戻った?」
「ああ」
「じゃあ」
レグの声が少し明るくなる。
「向こうに閉じ込められてない」
「この記録が書かれた時点では、そうなる」
大事なことだった。
今まで、ミレアが扉の向こうへ行ったまま戻れなくなった可能性も残っていた。
少なくとも、それは違う。
「それからどこ行った?」
レグが急ぐ。
「待て、今読む」
カイルが次の行へ。
「《谷へは戻らなかった》」
「……」
「《戻れば、お前の名を追うものに道を残す》」
レグの表情が静かになる。
「レグのため?」
「そう読める」
「《だからミレアは東へ抜けた》」
全員の目が、見張り台の向こうへ向いた。
東。
白い岩山。
そのさらに先。
「どこ?」
「次にある」
カイルが読む。
「《古い街道を越えた先に、白い岩が三つ並ぶ場所がある》」
ネイラがすぐ反応した。
「知ってる」
「どこ?」
「谷の外。かなり東」
「行ったことある?」
「途中までなら」
「名前は?」
「今は特にない。昔は《白石の境》って呼ぶ竜もいた」
レグが東を凝視する。
「そこにおかあさん?」
「まだ続きがある」
カイルの声。
「《その先に、小さな森がある》」
「森」
「《ミレアはそこへ向かった》」
レグは何も言わなかった。
「それだけ?」
「いや」
カイルは続ける。
「《俺は追わなかった》」
「なんで?」
「書いてある」
少し間。
「《俺が一緒に行けば、二人まとめて見つかる》」
ハヤトの眉が寄る。
「誰に?」
「そこは書いてない」
「またか」
「ただ次がある」
カイルが革を少し持ち上げる。
「《ミレアには、お前の名を隠す役目を任せた》」
「おかあさんに?」
「ああ」
「《俺は、名を追うものがどこから来ているか探す》」
レグがゆっくり理解していく。
母親は。
レグの名前を守るため、東へ。
父親は。
その名前を追っていた原因を探すため、別の道へ。
「別れたの、自分たちで?」
「そうみたいだな」
ハヤトが答える。
「喧嘩じゃない?」
「それは多分違う」
ネイラが言った。
「ガルドがこんなにちゃんと説明残してるくらいだし」
「ちゃんと?」
ハヤトが聞く。
「ガルド基準ではかなり」
「なるほど」
カイルが先を読む。
「《俺の方は追わなくていい》」
レグが少し顔をしかめる。
「また言ってる」
「まだある」
「《どうせ止めても来るなら、せめてミレアを先に見つけろ》」
「……」
今度はレグが黙ったあと。
「おとうさん、レグのこと分かってる」
「そうだな」
「《あいつなら、お前に全部話す》」
「全部?」
「そう書いてる」
カイルの声が少し低くなる。
「《俺が何を追ったのかも》」
これまで残してきた断片。
首輪。
黒い装置。
古い印。
改変された名。
ガルドはそれを追っていた。
だが答えを、この記録には残していない。
「おかあさん知ってる?」
「少なくともガルドはそう思ってた」
レグは東を見る。
「じゃあ行く」
迷いはほとんどなかった。
「白い岩三つ」
「その先の森」
「うん」
ネイラが腕を組む。
「谷からなら、普通に歩けば何日かかかる」
「飛んだら?」
「レグ一人なら早い」
レグがすぐハヤトたちを見る。
「歩く」
「そこ即決なんだ」
ハヤトが笑う。
「一緒に行くから」
「うん」
セラも自然に笑った。
カイルはまだ革を見ている。
「最後にもう少しあるぞ」
「まだ?」
「ガルド、今回は頑張ったな」
「おとうさんえらい」
「本人いないところで褒められてる」
最後の数行。
「《レグ》」
名前だけが一度、書かれていた。
「《お前が何を思い出しても、それで昔のお前に戻る必要はない》」
レグから笑みが消えた。
真剣に聞いている。
「《ミレアに会って、俺の話を聞いて、それから決めろ》」
「何を?」
レグが小さく聞く。
次の一文。
「《誰といるか》」
その次。
「《どこへ行くか》」
そして。
「《何て呼ばれるか》」
風が見張り台を抜けた。
レグは何も言わない。
カイルが最後を読む。
「《全部、お前のものだ》」
そこで文章は終わっていた。
しばらく誰も喋らなかった。
東から吹く風が、レグの髪を揺らしている。
「……おとうさん」
レグが呟く。
「うん」
「うるさいって聞いてた」
「相当な」
ネイラが答える。
「でも」
レグは革を見る。
「書くと、ちゃんとしてる」
「たまにね」
「たまに?」
「そこ大事」
レグが少し笑った。
それから、また東を見る。
「おかあさん、ほんとにいるかな」
誰も軽く「いる」とは言わなかった。
ハヤトも。
セラも。
ネイラも。
今分かっているのは、十数年前にミレアが生きて東へ向かったこと。
ガルドが、その行き先を知っていたこと。
そして、ミレアならその先の話を知っていると信じていたことだけだ。
「行けば分かる」
ハヤトが言った。
「うん」
レグは頷く。
「行く」
今度ははっきり。
「おかあさんのところ」
クロが足元で立ち上がる。
セラも笑った。
「じゃあ準備しないとね」
「今日出る?」
「今日はやめよう」
「なんで?」
レグがすぐ聞く。
「急いで出ても夕方になるし、谷を出る前に食料と道を確認した方がいいでしょ」
「……うん」
「それに」
セラは谷の方を見る。
「ここへ来てからずっと動いてたんだから、一日くらいちゃんと休んでもいいと思う」
レグは少し考えた。
「ルクアと飛ぶ」
「休むって知ってる?」
「楽しいから休み」
「まあ、それならいいか」
ネイラが笑う。
「谷には他にも見せたいところあるしね」
「牛乳?」
「そこ覚えてたの?」
「温泉も」
ハヤトの顔が少し引きつった。
「……それも覚えてたのか」
レグが満面の笑みで頷く。
「うん!」
セラがちらりとハヤトを見る。
「どうする?」
「なんで俺に聞くの」
「前科が」
「事故だから!」
レグの笑い声が、古い見張り台に響いた。
東へ向かう道は見つかった。
だからこそ。
出発する前に一度だけ、竜の谷で過ごす時間が残っていた。




