繋ぎ目に残る物
翌朝。
東の道へ向かう前に、レグたちはもう一度オルネの記録庫へ集まった。
昨夜見つけた石板。
《境を閉じる。名がこちらへ届かぬように》
そして、その下に残されていた言葉。
《名を奪う者を、こちらへ通すな》
机の中央には、カイルが描いた円形の部屋の見取り図が広げられている。
「最初に一個だけ整理したい」
ハヤトが言った。
「《名を奪う者》って、誰かが向こう側にいるって意味?」
「まだそうとは限らん」
オルネが答える。
「昔の言葉は、人そのものではなく仕組みを指す場合もある」
「名前を奪う仕組み?」
レグが聞く。
「その可能性もある」
カイルが昨夜の石板の写しを指した。
「少なくとも俺たちが見てきたものには共通点がある。道番の印は、本人を見分けて道を開くためのものだった。それが首輪に使われ、従わせるものへ変わった」
「レグの名前も」
セラが続ける。
「本当は本人を認識するためだったのに、途中から役目まで押しつけるように変えられた」
「ああ」
カイルが頷く。
「《奪う》って、名前そのものを消す意味じゃないのかもしれない」
「じゃあ?」
「名前が持ってた意味を、別のものに変える」
レグが少し考える。
「レグって言ってるのに、『料理する人』にされる?」
「昨日の例まだ覚えてたのか」
「わかりやすかった」
「ならまあ、そんな感じ」
ハヤトは少し複雑だった。
「例えが役に立ったならいいけど」
「レグ、料理しない」
「そこも覚えてるんだ」
オルネは二人の会話を待ってから、見取り図へ指を置いた。
「これが正しいなら、《閉じる》が防いでいたのは何者かの侵入というより、向こう側の仕組みがこちらの名へ干渉することだった可能性が高い」
「扉は?」
セラが聞く。
「物理的な境でもある。だが扉を閉めること自体が目的ではない」
「だからガルドが《閉じているのは、向こうではない》って書いた?」
「おそらくな」
まだ推測は残る。
だが昨日までより、はるかに筋が通っていた。
「じゃあ」
レグが胸元へ手を置く。
「昨日、レグって名前で《呼ぶ》を変えたから、声止まった」
「ああ」
「《閉じる》も楽になった?」
オルネが僅かに目を細めた。
「それを確かめに行く」
東の岩壁へ向かうと、昨夜までの騒がしさはなかった。
《呼ぶ》の白い線は穏やかに灯っている。
《閉じる》は赤くない。
黒い亀裂も、昨日から広がった様子はなかった。
トーレンが入口で待っていた。
「夜の間に変化は?」
オルネが尋ねる。
「二度だけ光った。だが昨日までのような強さじゃない」
「音は?」
「なし」
「扉側は?」
「見張りを置いていない。お前が勝手に入るなと言っただろ」
「珍しく言うことを聞いたな」
「お前までそういう扱いするのか」
トーレンが顔をしかめる。
ネイラが笑った。
「谷で長く生きると大体そうなるよ」
「お前は黙れ」
レグは二人を見た。
「仲いい?」
「違う」
二人の返事が重なった。
レグが少し笑った。
「同じだった」
「そういう意味じゃない」
今回は長く遊ばず、すぐに道へ入った。
オルネとネイラ、トーレンも同行する。
東の道を開いたレグ。
ハヤト、セラ、カイル、クロ。
昨日より人数は増えたが、通路は十分な広さがあった。
円形の部屋へ着く。
巨大な扉。
指一本ほどの隙間。
中央の石柱に埋め込まれた黒い装置。
「これか」
トーレンが低く言う。
「触るなよ」
ハヤトが言う。
「お前に言われるとは思わなかった」
「俺も成長してるから」
「自分で言う?」
セラに返される。
「レグが言ってたから真似した」
「レグはちゃんとしてる」
「はいはい」
そんな会話の間も、オルネとカイルは装置の周囲を確認していた。
「昨日より焼けた溝の光が弱い」
カイルが言う。
「黒い装置も?」
「動いてはいる」
中央にある細い黒線。
昨日は淡く脈打っていたが、今はかなり間隔が長い。
「やっぱり負荷下がってる?」
セラが尋ねる。
「そう見える」
カイルは装置に触れず、その下を覗き込んだ。
「問題はこれをどうするかだな」
「ガルドは壊すなって」
レグが言う。
「だから壊さない」
「外す?」
「それもまだ」
オルネが答えた。
「まず本来の《閉じる》がどこまで戻っているか確認する」
「どうやって?」
トーレンが尋ねる。
オルネは部屋中央の六本の溝を見る。
「魔力を流す」
「誰の?」
「私の」
「危なくない?」
レグが聞く。
「少量だ。何十年もこの手の確認をしてきた」
「失敗したことある?」
「ある」
「……」
「顔をするな。だから慎重にやる」
レグは納得していないようだったが、邪魔はしなかった。
オルネが床へ片手を置く。
淡い光。
六本の溝へ、ほんの僅かな魔力が流れる。
一つ。
二つ。
順番に中央の石柱へ届いていく。
最後。
焼け焦げた《閉じる》の溝。
途中まで光が走る。
焦げた部分で一度弱くなり――。
その先。
再び灯った。
「通った」
カイルが身を乗り出す。
「昨日は?」
「ここで消えてた」
オルネも驚いている。
「完全ではないが……戻り始めている」
トーレンがレグを見る。
「お前が《呼ぶ》を書き換えたから?」
「その可能性は高い」
オルネが立ち上がる。
「これまで《呼ぶ》は、古い名を探し続けていた。その名がこの谷に戻ったと判断しながら、本人から応答がない」
「だから呼び続けた」
セラが言う。
「ああ。そして向こう側からも古い名が届いていた」
「《閉じる》は、それを止めようとしてた」
「そう考えればいい」
カイルが黒い装置を見る。
「両方がずっと引っ張り合ってたのか」
「おそらく」
古い名を呼び続ける《呼ぶ》。
それを外へ通さない《閉じる》。
その間で、十数年。
あるいはもっと長い時間。
「それで壊れかけた」
ハヤトが呟いた。
「でも誰かが黒い装置で支えた」
「ガルドだろうな」
ネイラが言う。
「本人が作ったとは思えないけど、持ってきたのは多分あいつ」
「確認できる?」
レグが聞く。
「それを探そう」
カイルが装置の周囲を見る。
昨日までは触るな、壊すな、で終わっていた。
だが今回は、外すためではない。
誰がどう取り付けたのか。
その痕跡を確認する。
「ここ」
セラが先に気づいた。
石柱の右側。
黒い装置を埋め込むために削られた石の端。
「何か挟まってない?」
細い茶色。
カイルが灯りを近づける。
「紙……じゃないな」
「革?」
「多分」
「取れる?」
オルネが確認し、頷く。
「装置には触れない。革だけならいい」
カイルが細い道具で慎重に引き出す。
折り畳まれた小さな革片。
「文字ある」
開いた瞬間。
レグが近づいた。
「おとうさん?」
「待て」
カイルが最初の一行を見る。
それから笑った。
「多分な」
「なんて?」
「《これを見つけたなら、先に装置を壊そうとした馬鹿はいなかったらしい》」
「……おとうさんだ」
レグが即答した。
ネイラが額を押さえる。
「こういうときまでそれなの?」
「ガルドらしい」
トーレンは笑っていた。
「続き」
レグが促す。
カイルの表情が少し戻る。
「《これは西から持ってきた》」
「やっぱり」
ハヤトが言う。
「《本来は魔力の流れを逃がすためのものらしい》」
ヴァンが扱っていた黒い装置。
その説明とも合う。
「次」
「《俺には直せない》」
「正直」
「《だから壊れるまで時間を稼ぐ》」
部屋が静かになる。
ガルドはこれを恒久的な修理だと思っていなかった。
壊れるまで。
ただ時間を稼ぐ。
「誰のために?」
レグが小さく言う。
カイルが先を読む。
「《ミレアが《呼ぶ》を切る方法を探している》」
レグの目が大きくなる。
「おかあさん?」
「ああ」
「《成功すれば、こいつの負担は減る》」
黒い装置。
今まさに起きていることだ。
「ミレアは切らなかった」
セラが言う。
「別の方法にした」
「古い名前を使わない《呼ぶ》に変えた」
ハヤトが続ける。
「完全に切れば、必要なとき誰も呼べなくなるから?」
「かもしれない」
カイルが答えた。
「ミレアは元の役目まで壊したくなかったんだろう」
レグは、床を走る《呼ぶ》の線を見る。
今は静かだ。
古い名ではなく、自分が選んだ《レグ》を認識している。
「おかあさん、直した」
「半分はな」
オルネが言う。
「最後に動かしたのはお前だ」
「レグも?」
「ああ」
レグは少し嬉しそうに笑った。
「二人で直した」
誰も否定しなかった。
カイルはさらに革を読む。
「まだある」
「おとうさん、いっぱい書いた?」
「珍しくな」
「聞こえてる気がするぞ、その言い方」
ハヤトが笑う。
「続き」
カイルが少し慎重になった。
「《もしレグがここまで来たなら》」
空気が変わった。
名前。
最初からレグと書かれている。
「《古い名を使って来たなら、この先は読ませるな》」
「また」
レグが呟く。
ガルドは徹底している。
「《レグのまま来たなら――》」
そこで革が切れている。
「え?」
「終わり?」
ハヤトも覗く。
「いや」
カイルが裏返す。
「続きある」
「びっくりした」
レグが胸を押さえる。
「おとうさん、こういうのやめて」
「本人に言えたら言おう」
裏面。
「《まず、この装置を外すな》」
「やっぱり」
「《《閉じる》が自力で三度流れるまで待て》」
オルネが反応した。
「三度」
「今一回?」
レグが聞く。
「私が流したのは確認だ。自力ではない」
「じゃあ待つ?」
「ああ」
「何日?」
「分からん」
「またそれ」
オルネが少しだけ笑った。
「だがもう一つ確認できる」
「何?」
「今夜、誰も魔力を流さずに《閉じる》が動くか見る」
カイルは最後の部分へ目を向ける。
「そのあとがある」
「読んで」
「《三度戻ったら、あとは谷の連中で直せ》」
トーレンの眉が動く。
「俺たち?」
「《娘にやらせるな》」
レグが止まった。
「……」
「もう一行」
カイルは少し笑った。
「《あいつにはあいつの行くところがある》」
誰もすぐには喋らなかった。
レグは革の文字を読めない。
それでも、その一文を見つめている。
「おとうさん」
小さな声。
「レグに直せって言わない」
「そうだな」
ハヤトが答えた。
「役目だから残れ、とも書いてない」
「うん」
トーレンが静かに息を吐く。
以前、古い名を使い、《呼ぶ》を戻すべきだと言った男。
「ガルドは最初から分かっていたのか」
「何を?」
レグが聞く。
「この谷の問題を、お前の責任にするなということだ」
「レグのせいじゃないってセラも言った」
「そうだったな」
トーレンはセラを見る。
「改めて礼を言う」
「私は思ったこと言っただけ」
「それで十分だ」
セラは少し照れたように視線を逸らした。
革片には、あと数行残っている。
「最後」
カイルが読む。
「《もし俺を探すなら、ここから先じゃない》」
レグの顔が上がる。
「え?」
「扉の向こうじゃない?」
「ああ」
カイルも驚いている。
「《俺はもう一度、谷へ戻る》」
「戻った?」
ネイラが眉を寄せる。
「私は見てない」
「いつの話?」
「革には日付がない」
「続き」
レグの声が少し早くなる。
「《そのあと東へ行く》」
「結局東?」
「ただし」
カイルが最後の二行を見る。
「《ミレアとは別の道だ》」
レグの表情が止まった。
「別?」
「ああ」
「じゃあ、おかあさんとおとうさん」
「同じ場所へ行ったわけじゃない」
これまで二人の痕跡が東へ続いていたため、どこかで合流した可能性を考えていた。
だが。
ガルド自身が否定している。
「おかあさんは、扉の向こう?」
レグが聞く。
「そこまでは書いてない」
「でもおとうさんは違う」
「ああ」
「じゃあ」
レグは少し考える。
「先におかあさん?」
ハヤトは答えなかった。
それを決めるのはレグだ。
本人も分かっているらしい。
「……まだ決めない」
「うん」
「革、まだある?」
「ここで終わりだ」
「そっか」
レグは少し残念そうだった。
「でも」
カイルが革を光へ透かす。
「端が綺麗すぎる」
「どういう意味?」
「これ、元はもっと長かった」
切られた跡。
自然に破れたのではない。
「続きがある?」
レグの声。
「可能性は高い」
「どこ?」
ハヤトが聞く。
カイルは黒い装置を見る。
「ガルドがここへ半分隠したなら」
視線が、部屋の別の場所へ動く。
「残りは別のところに置いたはずだ」
トーレンが何かを思い出したように顔を上げた。
「待て」
「何?」
「ガルドが谷を出る前」
十数年前。
傷だらけの父親。
「ここ以外に、もう一か所行った」
ネイラがトーレンを見る。
「どこ?」
「谷の南端」
「何しに?」
「知らない。当時は誰も使っていない場所だった」
「今は?」
「今もほとんど使わん」
トーレンはレグを見る。
「ただ、そこには古い見張り台がある」
「おとうさん、そこ行った?」
「ああ」
「一人?」
「一人だ」
レグは少しだけ考えた。
「行く」
「今から?」
「今日は《閉じる》見る」
オルネが言っていたことを覚えている。
「そのあと」
「それがいい」
ハヤトが頷いた。
今度は急がない。
目の前の問題を途中で放り出して、次の手掛かりへ走らない。
夜。
一行は円形の部屋へ戻った。
誰も床へ魔力を流さない。
ただ待つ。
しばらくは何も起きなかった。
「来ない?」
レグが小声で言う。
「もう少し」
カイルが答える。
五分。
十分。
さらに少し。
そのとき。
黒い装置が淡く光った。
「動いた」
だが今までとは違う。
装置から流れたのではない。
床。
《閉じる》の溝そのものが、扉側からゆっくり灯り始める。
弱い光。
焦げた部分で一度揺らぎ。
それでも止まらない。
石柱まで届いた。
「一回」
レグが言う。
オルネが頷く。
「ああ」
誰も触れていない。
誰も命じていない。
《閉じる》は、自分で動いた。
「戻ってきてる」
セラの声に、オルネが珍しくはっきり笑った。
「そうらしい」
トーレンが扉を見る。
「なら、あとは俺たちの仕事か」
「ガルドはそう言っている」
「面倒な置き土産だ」
口ではそう言いながら、嫌そうには見えなかった。
レグが聞く。
「手伝わなくていい?」
「手伝うな」
トーレンが答えた。
「なんで?」
「お前には、お前の行くところがあるんだろう」
父親と同じ言葉。
レグは少し驚いて。
それから笑った。
「うん」
扉の向こうから、今夜は歌が聞こえなかった。
声もない。
ただ《閉じる》の淡い光だけが、古い溝を静かに流れていた。
あと二度。
それを確認すれば、この場所は谷の竜たちへ任せられる。
そして次は。
ガルドが最後に向かったという、南の見張り台。
父親が残した言葉の続きを探すことになる。




