扉のこちら側
谷へ戻る道では、誰も急いで話そうとしなかった。
先頭を歩くレグは、何度か足を止めそうになりながらも、そのたびに前へ進んだ。背後には、完全には閉じきっていない巨大な扉がある。
その向こうから聞こえた歌。
そして声。
――まだ、開けないで。
本当にミレアなのか。それすら分からない。
だからこそ、開けなかった。
「レグ」
セラが隣へ並ぶ。
「大丈夫?」
「うん」
「戻りたいって思ってない?」
少し考えてから、レグは首を横に振った。
「気になる。でも、今開けたらだめな気する」
「声がそう言ったから?」
「それも」
レグは胸元へ手を置いた。
「でも、おとうさんも壊すなって書いた」
「ああ」
ハヤトも後ろから答える。
ガルドの警告。
黒い装置を壊すな。
外せば開く。
こちらへ来させるな。
ミレアらしき声だけではない。少なくとも二人が別々に、あの扉を不用意に開けることを止めている。
「二人とも同じもの見てたのかな」
セラが呟く。
「それを調べる」
カイルが灯りを持ち直した。
「今度こそ、順番にな」
「珍しい」
ハヤトが言うと、カイルが睨む。
「さっきの扉見てそのまま開けようとするほど馬鹿じゃない」
「俺も開けようとしてないけど」
「お前は最初、黒い装置に近づこうとした」
「見るだけだった」
「その台詞、最近の俺と同じだぞ」
「……やめよう、この話」
セラが小さく笑った。
張っていた空気が少しだけ緩む。
レグも振り返り、二人を見ていた。
「二人とも同じ」
「それは嫌だ」
「俺もだ」
「そこまで?」
今度はレグが笑った。
記録庫まで戻ると、オルネは入口の前で待っていた。
一行の顔を見た瞬間、老人の表情が変わる。
「何があった」
「扉があった」
レグが答えた。
「《閉じる》の?」
「たぶん」
カイルが前へ出る。
「完全には閉まってない。中央の石柱に後付けの黒い装置が埋め込まれてる。《閉じる》の溝へ直接つながってた」
オルネの片目が細くなる。
「触ったか」
「触ってない」
「壊してもない」
ハヤトも付け足す。
「そこまで聞いていない」
「先に言っとこうかと」
「余計な学習をしたな」
中へ入る。
オルネはすぐに机を空け、カイルが描いた簡単な見取り図を広げた。
円形の部屋。
六本の溝。
中央の石柱。
焼けた《閉じる》の線。
そして奥の扉。
「ここ」
カイルが黒い装置の位置を示す。
「石を削って後から入れてある。元の設備じゃない」
「ガルドの記録もあった」
レグが言う。
「何と」
「《壊すな》《外せば開く》」
オルネの指が止まった。
「ほかは?」
「《閉じているのは、向こうではない》《ここから先を、こちらへ来させるな》」
長い沈黙。
オルネが椅子へ座る。
「……そういうことか」
「分かるの?」
レグが身を乗り出した。
「全部ではない」
「またそれ」
「分からんものを分かったと言うよりいい」
「うん」
レグはすぐ引いた。
オルネは古い棚を見上げる。
「《閉じる》について、記録の意味が合わない箇所があった」
「どんな?」
カイルが反応する。
「古い記録では、《閉じる》は場所を封じる役目として書かれている」
「それは普通だよな」
「ああ。だが後の記録になると、表現が変わる」
オルネが一枚の石板を取り出した。
「《流れを止める》《帰るものを留める》《境を保つ》」
「扉だけじゃない?」
セラが尋ねる。
「おそらくな」
オルネは六本線の一つを指す。
「道そのものではなく、何かがこちらへ流れ込むのを防ぐ役目だった可能性がある」
ハヤトは扉の向こうから聞こえた音を思い出した。
「じゃあ、あれ開けたら何か来る?」
「ガルドの文をそのまま読むなら、そう警戒していた」
「何が?」
「そこは分からん」
「生き物?」
「それも分からん」
「魔力とか?」
「あり得る」
答えは増えない。
それでも、何が危険なのかの形は少しずつ見えてきた。
「黒い装置は?」
カイルが尋ねる。
「閉じるための補助か?」
「そう考えるのが自然だ」
「でもあれのせいで溝が焼けてる」
「負荷をかけているんだろう」
セラが眉を寄せる。
「壊れた《閉じる》を無理やり動かしてる?」
「その可能性が高い」
「だから外したら扉が開く」
ハヤトが言う。
「でも付けたままでも、少しずつ壊れていく」
「そういう状態なら説明がつく」
カイルが見取り図へ目を落とした。
「応急処置だ」
「ガルドがやった?」
レグの声。
オルネはすぐには答えない。
「本人が装置を作ったとは思わん」
「なんで?」
「ガルドは細かい作業が苦手だった」
「みんな言う」
「事実だからな」
「じゃあ誰?」
「装置そのものを別の場所から持ってきた可能性はある」
カイルが顔を上げた。
「西の施設」
全員の視線が集まる。
「ガルドが傷だらけになる前、西へ行ってた。道番の首輪を切ったのも西の施設だ」
「黒い装置もそこにあった……」
ハヤトが続ける。
「持って帰って、《閉じる》を無理やり支えた?」
「まだ推測だ」
オルネが釘を刺す。
「だが調べる価値はある」
レグは黙って考えていた。
「おとうさん、いっぱいやった?」
「何を?」
「クロみたいなの助けて、装置持って、ここ閉じて、それからまた東行った」
「記録通りならな」
「怪我してたのに?」
「そうなる」
レグの眉が寄る。
「ばか」
誰も否定しなかった。
「かなり」
ネイラの声が入口からした。
いつの間にか来ていた。
「聞いたよ。扉まで行ったんだって?」
「うん」
「開けなかった?」
「開けてない」
「偉い」
「レグ、ちゃんとしてる」
「最近それ気に入ってるね」
ネイラは笑いながら中へ入り、机の図を見る。
「声も聞いたって?」
笑みが消える。
レグが頷く。
「歌も」
「ミレアの?」
「たぶん」
「声は?」
「おかあさんに聞こえた」
「何て?」
「《まだ開けないで》」
ネイラは何も言わなかった。
目を伏せ、しばらく考える。
「ミレア本人だと思う?」
セラが尋ねる。
「分からない」
やはり答えは同じだった。
「でも、あの子なら残しそうな言葉ではある」
「記録?」
「そういう仕組みを作れる知識はあった」
「じゃあ今向こうにいる証拠にはならない?」
「ならないね」
レグの顔が少しだけ曇る。
「そっか」
「でも」
ネイラが続ける。
「ガルドがそこへ行ったあと、ミレアも同じ道を使った可能性は高くなった」
「なんで?」
「歌を残せるなら、少なくとも扉のところまでは来てる」
「あ」
レグの目が戻る。
小さなこと。
でも確かな一歩だった。
母親は、谷から東へ向かっただけではない。
あの場所にいた。
「もう一度、記録探す」
レグが言った。
「扉開ける前に」
「そうしよう」
オルネが立ち上がる。
「今度は《閉じる》の古い記録を全部見る」
カイルも立つ。
「俺も――」
「来い」
「今日は早いな」
「人手が要る」
「触っていい?」
「渡したものだけだ」
「よし」
ハヤトはセラを見る。
「俺らは?」
「また邪魔しない係?」
「それも仕事だ」
オルネが真顔で答える。
「つらい」
だが、今回はすぐに別の役目が見つかった。
セラが黒い装置の図を指す。
「これ、ヴァンやイリスの中にあるものと似てたんだよね?」
「色と材質はかなり近い」
カイルが答える。
「なら、二人に聞けたら何か分からないかな」
「あ」
ハヤトも気づく。
ノルドに残してきた、カイルの昔の仲間たち。
ヴァンは黒い装置を扱っていた。
イリスの左腕にも同じ系統のものが埋め込まれている。
「戻る?」
レグが尋ねる。
「今からノルドまでは無理」
「でも記録なら」
カイルが荷物を探る。
「ヴァンから聞いた内容を少し写してある」
「お前いつの間に」
「話した夜」
「寝てない原因それ?」
「半分」
セラの目が細くなる。
「帰ったらちゃんと寝てもらうからね」
「今そこ?」
「大事」
「おかあさんみたい」
レグがまた言う。
「もうそれ定着するの?」
セラが困った顔をする。
ハヤトは笑いを堪えながら、カイルの記録を覗いた。
「何て書いてある?」
「ヴァンが施設で使ってた黒い装置について。本人も全部は分かってなかったけど」
頁をめくる。
「魔力の流れを止めたり、別方向へ逃がしたりするのに使えるって言ってた」
「やっぱり」
オルネが図へ目を落とす。
「扉そのものを閉めているというより、《閉じる》へ流す魔力を無理やり維持しているのかもしれん」
「じゃあ原因は別?」
「そうなる」
「何が《閉じる》を壊した?」
誰も答えられない。
再び記録を探し始める。
夜までかかると思っていた。
だが、一時間も経たないうちにセラが一枚の石板を見つけた。
「これ」
「何だ?」
「さっきの《閉じる》の印と似てない?」
端の方。
かなり薄い。
中央に六本。
その一つだけを囲む小さな枠。
オルネが見る。
「……古い」
「読める?」
「少し待て」
老人とカイルが並ぶ。
二人で文字を追う。
最初に読めたのはカイルだった。
「《閉じるものは、扉ではない》」
ハヤトが顔を上げる。
ガルドの文字と似ている。
「次」
「《境を閉じる》」
「境?」
「その次……」
文字が欠けている。
オルネが指で位置を追った。
「ここは《記憶》ではないな」
「《流れ》?」
「違う」
何度か見比べる。
やがて。
「《名》だ」
部屋が静まり返った。
「名前?」
レグが尋ねる。
「ああ」
オルネが最後まで読む。
「《境を閉じる。名がこちらへ届かぬように》」
ハヤトは東の扉を思い出す。
レグを古い名で呼び続けていた声。
「……まさか」
カイルも同じことに気づいた。
「《閉じる》が弱ったから、レグの古い名前が外まで届いた?」
「その可能性がある」
オルネの顔が硬くなる。
「じゃあ声の向こう側って」
セラが言う。
「何かがレグを呼んでた場所?」
「おそらく」
「でも昨日、レグって認識させたら声止まった」
「《呼ぶ》側からの接続は切れた」
カイルが考えながら答える。
「でも扉の向こう自体が消えたわけじゃない」
「だから開けるな?」
「そう考えれば全部つながる」
レグは石板を見ている。
「向こうに、おかあさんいる?」
「分からない」
オルネが静かに答える。
「だが」
今度は、その先を続けた。
「ミレアが何を止めようとしていたのかは、見えてきた」
「レグの名前?」
「それだけではない」
石板の下。
最後の一行。
オルネがゆっくり読む。
「《名を奪う者を、こちらへ通すな》」
誰も動かなかった。
「名を奪う者……」
ハヤトが呟く。
クロの印を鎖へ変えた者。
竜の名を鍵から役目へ変えた者。
同じ存在なのか。
同じ集団なのか。
それすらまだ分からない。
ただ一つだけ。
あの扉の向こうにあるものを、ガルドとミレアは警戒していた。
「敵?」
レグが尋ねる。
オルネは首を横に振った。
「まだそう決めるな」
「うん」
「だが、味方だとも思うな」
レグは石板を見たあと、顔を上げる。
「じゃあ調べる」
「何を?」
「おとうさんとおかあさんが、何から閉じたか」
怖くないわけではない。
それでも声は落ち着いていた。
「それ分かるまで、扉開けない」
ハヤトは頷いた。
「賛成」
「私も」
セラが続く。
「俺もだ」
カイルも石板から目を離した。
「まず、ガルドが何を残したか全部洗う。あいつが傷だらけでここまで来た理由も、そこにあるはずだ」
「おとうさんの手掛かり」
レグが小さく言う。
「ああ」
次に探すものは決まった。
扉の向こうへ急ぐのではない。
その扉を閉じた側に残されたもの。
十数年前。
傷だらけのガルドが、何を見て、何を知り、それでも東へ向かったのか。
レグは古い石板から目を上げた。
「おとうさん、ちゃんと書いてて」
ハヤトは苦笑した。
「そこは期待しすぎない方がいいかもな」
「なんで?」
「今までのガルド見てると、肝心なところ書いてなさそう」
ネイラが深く頷いた。
「それはある」
「おとうさん……」
レグが少しだけ頬を膨らませる。
重かった空気の中に、小さな笑いが落ちた。
その夜。
扉を開ける者はいなかった。
代わりに、谷に残されたガルドの最後の足跡を探すことが決まった。




