閉じたままの風
通路へ入ってしばらくして、背後の光が細くなった。
入口はまだ開いている。
けれど、岩壁の向こうにあった竜の谷の明るさは、もう遠い。
カイルが灯りを掲げる。
「思ったより普通だな」
左右は削られた岩壁。
床も平らで、金属の管や黒い装置は見当たらない。これまで入ってきた古代施設より、ずっと単純な造りだった。
「普通って言ったあとに何か出るやつじゃない?」
セラが前を見る。
「やめろ」
ハヤトがすぐ返した。
「俺が言うと怒るのに」
「言ってない。確認しただけ」
「似たようなもんだろ」
先頭ではレグとクロが並んでいた。
レグは歩きながら何度か胸元へ手を置いている。
「まだ声しない?」
ハヤトが尋ねる。
「しない」
「熱い?」
「ちょっとだけ。でも昨日よりぜんぜん」
「変だったら言ってね」
セラの声に、レグが振り返る。
「うん」
それから少し考え。
「セラ、おかあさんみたい」
「え?」
「また?」
ハヤトが笑いそうになる。
セラが睨む。
「何が?」
「心配するところ」
「それだけならいいけど」
「ごはん食べてって言うところも」
「……それは普通でしょ」
レグはもう前を向いていた。
「おかあさんも普通」
返しづらい。
ハヤトは黙って歩いた。
しばらく進むと、通路の壁に細い溝が現れ始めた。
一本。
さらに一本。
少し先で六本になる。
「昨日の壁と同じ?」
セラが灯りを近づける。
「似てるな」
カイルがしゃがんだ。
「でもこっちは全部途中で分かれてる」
「触らないでよ」
「見てるだけだ」
「先に言えるようになったね」
「成長を感じるだろ」
「そこ?」
ハヤトも覗き込む。
六本の線のうち、五本は壁の別々の方向へ伸びている。
だが一本だけ。
途中で、深く削り取られたように途切れていた。
「これが《閉じる》?」
レグが聞く。
「位置で見るなら多分」
カイルは写しを出した。
「《呼ぶ》の隣だ。昨日の岩壁と並びが同じ」
「壊れてる?」
「自然に削れた感じじゃない」
溝の断面が不自然に平らだ。
「誰かが消した?」
ハヤトが言う。
「可能性はある」
そのとき、クロが鼻を壁へ近づけた。
「クロ?」
途切れた線。
そこから、ゆっくり奥へ歩き出す。
「何か匂う?」
レグもついていく。
数歩。
クロはまた止まった。
壁の低い位置。
鼻を押しつける。
「ここ?」
レグがしゃがむ。
何もないように見える。
だがカイルが灯りを下げると、薄い傷が見えた。
「文字か?」
「ちがう」
レグが先に言った。
「爪」
ハヤトも分かった。
細い。
竜の巨体でつけたものではない。
「人の姿?」
「それか、小さい竜」
カイルが傷を追う。
一本。
二本。
途中から文字へ変わっている。
「これ、あとから書いてる」
「読める?」
「待て」
かなり崩れた字だった。
カイルが何度か角度を変える。
「……《閉じるな》」
「え?」
セラが聞き返す。
「いや」
カイルが眉を寄せる。
「違う。《閉じたままにするな》」
「意味変わるな」
ハヤトが言う。
「誰が書いた?」
「筆跡までは――」
カイルが途中で止まった。
「これ」
傷の最後。
二本の線が重なり、先で分かれている小さな印。
ガルドの印。
「おとうさん?」
レグがすぐ近づく。
「ああ。少なくとも、あの箱や石板と同じ印だ」
レグは文字へ触れず、じっと見る。
「おとうさん、ここ来た」
「トーレンも見たって言ってたしな」
「この先行った?」
「多分」
レグは奥を見る。
「じゃあ、もっとあるかも」
声は弾んでいない。
急いでもいない。
ただ確かめたい。
その気持ちだけが伝わった。
「行こう」
ハヤトが言う。
通路をさらに進む。
今度は緩い下りになった。
空気も少し変わる。
「寒くなった?」
セラが腕をさする。
「風がある」
カイルが灯りの揺れを見る。
確かに、奥から風が流れてくる。
「外につながってる?」
「地下だぞ」
「地下でも穴あれば」
「それならあり得る」
レグが鼻を動かす。
「土じゃない」
「匂い?」
「うん」
「何の?」
「……わかんない」
珍しく曖昧だった。
「でも古いところのにおい」
「施設?」
「それとも違う」
「難しいな」
「うん」
クロは警戒している。
尻尾が少し下がり、歩幅も短くなった。
「クロが嫌がってる?」
セラが聞く。
「ちょっと」
「戻るほど?」
レグがクロを見る。
クロは進む。
「行くって」
「なら慎重に」
通路の終わりは、突然だった。
広い円形の部屋。
天井は高く、中央に大きな石柱が立っている。
その周囲を六本の溝が走っていた。
五本は石柱までつながっている。
一本だけ。
途中で黒く焼け焦げている。
「《閉じる》」
カイルが呟く。
部屋の奥。
焼けた溝の先に、巨大な扉があった。
閉じている。
ただし。
「隙間ある」
レグが言う。
扉の中央。
ほんの指一本ほど。
完全には閉じていない。
「これが弱ってるってこと?」
ハヤトが近づこうとする。
「待って」
セラが腕を掴んだ。
「何?」
「床」
見る。
扉の手前。
黒い筋が何本も残っている。
焦げ跡ではない。
何かが擦れた跡。
「出てきた?」
ハヤトが聞く。
「逆」
カイルがしゃがむ。
「跡が扉へ向かってる」
「じゃあ中に入った?」
「多分」
「何が?」
「分からん」
クロが低く唸った。
初めてだった。
「クロ?」
視線は扉ではない。
中央の石柱。
レグもそちらを見る。
「なんかいる?」
返事はない。
だがクロは動かない。
カイルが灯りを石柱へ向ける。
「裏?」
全員で距離を取りながら回る。
そこにあったのは、生き物ではなかった。
「……これ」
セラが息を呑む。
石柱の裏側。
人一人分ほどの高さに、黒い装置が埋め込まれている。
見覚えのある色。
ヴァン。
イリス。
クロの首輪。
これまで何度も見てきた、あの黒い素材。
「またこれか」
ハヤトの声が低くなる。
「でも古い設備の一部に見えない」
カイルが目を細める。
「後付けだ」
「分かる?」
「周りだけ石削って無理やり入れてる」
その下。
細い線が伸びている。
焼けた《閉じる》の溝へ直接つながっていた。
「これが壊してる?」
レグが聞く。
「可能性高いな」
カイルは触らず周囲を見る。
「本来の《閉じる》に、別のものを割り込ませてる」
「何のために?」
「まだ分からん」
装置の中央。
小さな窪みがある。
「印入れるところ?」
ハヤトが言う。
「似てる」
レグが胸を押さえる。
「レグの?」
「待て」
カイルがすぐ止める。
「ここは試さない」
「うん」
レグも触ろうとはしていなかった。
成長している。
そのとき。
扉の向こうから。
ご。
低い音。
全員が止まった。
「今の何?」
セラが杖を握る。
もう一度。
ご……。
扉が、ごく僅かに押された。
「内側から?」
ハヤトの手が剣へ行く。
抜かない。
まだ。
クロの唸りが少し強くなる。
レグも扉を見ていた。
「生きもの?」
「においしない」
「じゃあ何?」
「わかんない」
三度目。
扉が揺れる。
指一本ほどだった隙間が、ほんの少し広がった。
「これは戻った方がいい」
セラが言う。
「賛成」
ハヤトも即答する。
カイルは不満そうではなかった。
「俺もだ。情報足りない」
「珍しい」
「死んだら調べられん」
「理由はそれなんだ」
レグも頷く。
「オルネ呼ぶ」
「そうしよう」
引き返そうとした、そのとき。
「待って」
レグが止まった。
「どうした?」
「ここ」
石柱の下。
黒い装置とは反対側。
小さな傷。
「またガルド?」
カイルが灯りを当てる。
文字。
今度は短い。
「読める?」
「ああ」
カイルの顔が変わった。
「何て?」
最初の一行。
「《壊すな》」
全員が黒い装置を見る。
「これを?」
「続き」
カイルが読む。
「《外せば開く》」
「扉が?」
「多分」
さらに。
「《閉じているのは、向こうではない》」
「……どういう意味?」
ハヤトが尋ねる。
「まだある」
最後の一行。
文字は深く、急いで刻んだように乱れている。
「《ここから先を、こちらへ来させるな》」
レグの表情が固まった。
ご。
扉がまた揺れた。
今度はさっきより強い。
カイルが立ち上がる。
「黒い装置は《閉じる》を壊してるんじゃない」
「じゃあ?」
「逆かもしれない」
焼けた溝。
後付けの装置。
完全には閉まらない扉。
ガルドの警告。
「無理やり閉じ続けてる?」
セラが言う。
「本来の仕組みが壊れたから、別の装置を使って補ってる」
「ガルドがやった?」
「それは分からない」
「でも壊すなって書いた」
「少なくとも、必要だと知ってた」
また扉が揺れた。
隙間の向こう。
一瞬だけ。
淡い白い光が見えた。
「レグ!」
ハヤトが一歩前へ出る。
だがレグは動かない。
何かを聞いているような顔だった。
「声?」
セラが尋ねる。
「ちがう」
「何?」
「……歌」
ハヤトの背筋が冷える。
「ミレアの?」
レグはすぐに答えなかった。
耳を澄ませる。
四つ。
五つ。
あの短い旋律。
修道院の庭で思い出した。
母親が歌っていた歌。
「おかあさんの歌」
「向こうから?」
「うん」
レグが扉へ一歩近づく。
「待て」
ハヤトが腕を出す。
レグは止まった。
無理に進まない。
「行かない」
「うん」
「でも聞く」
「それならここで」
扉の向こう。
歌はすぐに消えた。
代わりに。
かすかな声。
今度はレグだけではなかった。
ハヤトにも。
セラにも。
カイルにも。
古い音の向こうに、人の言葉が混じる。
『……まだ……』
途切れる。
『……開けないで……』
レグが目を見開いた。
「おかあさん?」
返事はない。
ハヤトは扉を見る。
声が本人なのか。
昔の記録なのか。
何かが真似しているだけなのか。
今は分からない。
だから。
「戻ろう」
レグが先に言った。
「いいの?」
セラが確認する。
「うん」
扉を見る。
「開けるなって言った」
「本物か分からないぞ」
カイルが言う。
「うん」
「それでも?」
「だから調べる」
レグは扉へ背を向けた。
「開ける前に」
クロもすぐ隣へ戻る。
ハヤトは少しだけ笑った。
「ああ。それでいこう」
五人と一匹は来た道を戻り始める。
その背後。
扉がもう一度だけ低く軋んだ。
けれど今度は、誰も振り返らなかった。




