知らなかった暮らし
翌朝、レグが目を覚ましたとき、最初にしたことは胸元を確かめることだった。
熱くない。
声もしない。
昨夜まで何度も古い名を呼んできたものは、嘘のように静かになっている。
「……レグ」
自分で小さく言ってみる。
もちろん何も起こらない。
それでも少しだけ嬉しくなって、もう一度。
「レグ」
「朝から何してるの?」
セラの声に振り返る。
「名前いってた」
「それは聞こえた」
「ちゃんとレグ」
「昨日からずっとそうでしょ」
「うん」
レグが笑う。
ネイラの家では、すでに朝食の準備が始まっていた。大きな鍋から湯気が上がり、焼いた薄いパンのようなものが何枚も積まれている。
ハヤトはまだ完全に目が覚めていない顔で席についていた。
「おはよ」
「おはよう……」
「ねむい?」
「夜中に戻ったからな」
「レグ元気」
「知ってる」
カイルはさらにひどい。
卓へ頬杖をついたまま、片目しか開いていなかった。
「昨日、戻ってからも記録見てたでしょ」
セラが言う。
「少しだけ」
「どれくらい?」
「……一刻くらい」
「寝てください」
「もう朝だ」
「今夜は寝てください」
「はい」
ネイラが鍋を置きながら笑う。
「完全に扱い分かられてるね」
「昨日からずっとこんな感じだ」
「昔から?」
「最近特に」
「古いもの見つけると駄目になるんです」
セラが説明すると、カイルは不満そうに顔を上げた。
「本人の前で言うな」
「間違ってる?」
「……間違ってない」
レグはそのやり取りを聞きながら、皿へ視線を落とした。
「これなに?」
丸いものが三つ。
焼き色がついている。
「山芋に似た根を潰して、肉を混ぜて焼いたもの」
「肉!」
「そこだけ聞かない」
「食べていい?」
「全員座ったらね」
昨日と同じ。
レグは大人しく待った。
クロも足元へ座っている。
「クロも待ってる」
「クロの方が偉いかもね」
ハヤトが言う。
「レグも待ってる」
「そうだった。偉い偉い」
「子どもみたいに言わないで」
「そこは分かるんだ」
全員が揃い、ようやく朝食が始まった。
レグは一口食べて、目を見開く。
「おいしい」
「よかった」
「もう一個ある?」
「まず今の食べて」
「うん」
ネイラの言うことはちゃんと聞く。
昨日ガルドの木片に《半分聞け》と書かれていたが、今のところレグはかなりの割合で従っていた。
「今日、すぐ道に入る?」
ハヤトが聞く。
「まだ」
答えたのはネイラだった。
「オルネが朝から確認してる。昨夜開いた道が安定しているか、あと《閉じる》の状態も見るって」
「どれくらい?」
「昼前には分かると思う」
「じゃあ午前中空く?」
レグがすぐ反応する。
「なんで嬉しそうなんだ」
「ルクアと飛ぶ」
「ああ、あれか」
着地勝負。
まだ続いていたらしい。
「昨日あんなことあったのに?」
セラが少し驚く。
「昨日は昨日」
「切り替え早いな」
「約束したから」
ちょうどそのとき、外から声がした。
「レグ!」
「あ」
レグが椅子から立ち上がる。
「まだ食べてるでしょ」
ネイラの一言で座り直した。
「……ルクア、待って」
外から笑い声が返ってくる。
「急がなくていいよ!」
ハヤトは少し感心した。
「ちゃんと待つんだな」
「昨日ネイラに怒られたから?」
「聞こえてるよ!」
また外から声。
ネイラは満足そうに頷いた。
「学習するならいい」
朝食を終えたあと、レグはすぐ外へ飛び出した。
ハヤトたちも少し遅れて家を出る。
谷には朝の光が落ちていた。
上空を何頭もの竜が飛び、川辺では小さな竜たちが水を跳ね上げて遊んでいる。人の姿の竜たちは、畑を見たり、石造りの建物から荷物を運び出したりしていた。
昨日までは珍しいものにしか見えなかった景色が、少しずつ生活として見えてくる。
「普通に朝なんだね」
セラが呟いた。
「竜でも朝は朝だろ」
「分かってるけどさ」
「もっとこう、岩の上で吠えてるとか?」
「ハヤトの竜像どうなってるの?」
「知らないから想像で」
その前では、ルクアがすでに竜の姿になっていた。
『いくよ』
レグも竜へ戻る。
『今日は勝つ』
『何回目で?』
『一回』
『昨日もそう言ってた』
『今日はちがう』
二頭が飛び立った。
ハヤトは自然と空を見上げる。
昨日までなら、危なくないかと先に考えていた。
今も心配はある。
それでも、すぐ止めようとは思わなかった。
「変わったね」
隣からセラが言う。
「俺?」
「うん」
「何が?」
「前なら『高く飛ぶな』『遠く行くな』『無茶するな』って三つくらい言ってた」
「昨日言いすぎって怒られたから」
「私、怒ってないけど」
「似たようなもん」
セラが笑う。
「でも本当に、ちょっと慣れたんじゃない?」
「レグが?」
「ハヤトが」
空ではレグが大きく旋回し、岩場へ向けて高度を落としている。
一度翼を広げて速度を殺し、そのまま足をつく。
一歩。
止まった。
『できた!』
「おお!」
思わずハヤトが声を上げる。
ルクアも降りる。
ほとんど音がない。
『どう?』
レグが聞く。
『まだ私の方が上手』
『でも転ばなかった』
『それは認める』
『じゃあ半分勝ち』
『何その勝ち方』
二頭とも楽しそうだった。
「同年代くらいなのかな」
セラが尋ねる。
「竜の年齢分からないけどな」
「あとでネイラに聞いてみる?」
「本人に聞く方が早くない?」
「竜って年齢聞いていいのかな」
「それ人間でも相手によるだろ」
「じゃあやめとこ」
そこだけ妙に慎重だった。
カイルはというと、飛行練習には興味がないらしい。
少し離れた石壁を見ている。
「カイル!」
セラの声が飛ぶ。
「触ってない!」
「まだ何も言ってない!」
「先に言っとく!」
「完全に学習してるな」
ハヤトが笑う。
しばらくして、ネイラがセラを呼んだ。
「時間あるなら薬草見る?」
「いいの?」
「昨日興味ありそうだったから」
「見たい」
セラはすぐについていった。
ハヤトは残される。
「俺は?」
ネイラが振り返る。
「来たい?」
「薬草分からない」
「じゃあ好きにしてて」
「ですよね」
カイルは壁。
セラは薬草。
レグは飛行。
クロはレグが着地する場所の近くで伏せている。
「……暇だな」
ハヤトは谷を見回した。
久しぶりだった。
何かを探す必要もない。
誰かを助けに走る必要もない。
目の前に開いた道へ、すぐ飛び込む必要もない。
「旅って、こういう時間もあったよな」
一人で呟く。
第一部の頃。
町を歩いたり。
食事を探したり。
セラとレグの買い物についていったり。
何でもない時間が、もっとあった。
最近はずっと、次の謎が次の謎を呼んでいた。
「ハヤト!」
空から声。
顔を上げる。
『見て!』
「見てる!」
レグがもう一度着地する。
今度はさらに綺麗だった。
「うまい!」
『勝った?』
ルクアが横へ降りる。
『まだ』
『なんで!』
ハヤトは笑った。
こういうのでいい。
少なくとも今は。
昼前。
セラが薬草を抱えて戻ってきた。
「いっぱい持ってるな」
「分けてもらった。止血に使えるのと、軽い火傷に使えるの」
「谷の外にもある?」
「似た種類はあるみたい。ただ、こっちの方が魔力が濃いんだって」
「へえ」
「ハヤト何してた?」
「レグ見てた」
「ずっと?」
「ほぼ」
「暇だったんだ」
「言い方」
レグも人の姿へ戻ってやってくる。
額に少し汗をかいている。
「おなかすいた」
「知ってた」
「お昼?」
「オルネが来るまで待つ?」
「お昼は先」
「即答」
ルクアも人の姿でついてきた。
「私も食べていい?」
「ネイラに聞いて」
「なんで?」
「家主だから」
「前は勝手に食べた」
後ろからネイラの声がした。
「だから今日は聞きなさい」
「……食べていい?」
「いいよ」
「やった」
レグとルクアが並んで家へ入る。
「完全に友達じゃん」
ハヤトが言う。
「本人たちはまだ言ってないけどね」
セラも笑っている。
昼食は朝よりさらに賑やかになった。
ルクアが谷の外へ出たことがほとんどないと知り、レグは今まで食べたものの話を始めた。
「温泉のあと、牛乳」
「牛乳?」
「おいしい」
「谷にもあるよ」
「ほんと!?」
「山の向こうで飼ってる」
レグの表情が変わる。
「ハヤト」
「何」
「谷にも牛乳ある」
「よかったな」
「あとで飲む」
「道入るんじゃないの?」
「帰ってきてから」
「ちゃんと予定に入れた」
セラが笑う。
「温泉もある?」
ルクアが聞く。
レグが止まった。
「ある?」
ネイラを見る。
「谷の北側に湯が出るところはあるよ」
ハヤトとセラの動きが同時に止まった。
カイルだけが気づかず食べている。
「温泉?」
レグの目が輝く。
「入れる?」
「竜も入るけど」
「人でも?」
「入れるよ」
レグがハヤトを見る。
セラも見る。
「……なんで二人とも俺見るの?」
「前の温泉」
レグが言う。
「忘れて」
「仕切り」
「忘れて」
「ハヤト、のぞ――」
「言わなくていい!」
セラが顔を背ける。
耳が少し赤い。
ネイラとルクアが二人を見る。
「何したの?」
「何もしてません」
ハヤトが即答した。
「事故です」
セラも続ける。
カイルがようやく顔を上げた。
「俺は巻き込むなよ」
「まだ何も言ってないだろ」
「嫌な予感がした」
「温泉って怖い?」
ルクアが真面目に聞く。
「場所による」
「ハヤトがいると?」
「セラ!」
「冗談」
レグが笑っている。
ネイラまで口元を押さえていた。
そのとき、扉が叩かれた。
「いるか」
オルネだった。
一気に全員の表情が戻る。
「確認終わった?」
レグが立ち上がる。
「ああ」
「道、入れる?」
「少なくとも最初の区画までは」
「《閉じる》は?」
「昨夜から亀裂は広がっていない」
オルネが中へ入る。
「ただし、道の奥から弱い反応がある」
「何の?」
「《閉じる》だ」
カイルがすぐ食事を終えようとする。
「待ちなさい」
セラが止める。
「もう食べた」
「口に入ってる」
「……」
「飲み込んでから喋って」
レグが吹き出す。
「おかあさんと同じ」
「何が?」
「『食べてからしゃべって』」
セラが一瞬止まった。
ネイラも笑う。
「確かに似てるね」
「えぇ……」
セラは少し困った顔をした。
ハヤトは横で笑いそうになったが、視線が来る前に食事へ戻った。
昼食を終える。
荷物を必要最低限に整える。
水。
灯り。
治療道具。
ロープ。
カイルの筆記道具。
「それ必要?」
ハヤトが聞く。
「必要だ」
「絶対記録取る気じゃん」
「取れるなら取る」
「置いてかれるぞ」
「歩きながらやらん」
「ほんとに?」
「お前までセラみたいになってきたな」
「悪い?」
少し離れた場所で、レグはルクアと話していた。
「一緒に来る?」
「行かない」
「なんで?」
「あそこはお前の道だから」
「レグだけ?」
「違う」
ルクアはハヤトたちを見る。
「連れていくって決めたやつと行けばいい」
「ルクアは?」
「帰ってきたらまた飛ぶ」
「牛乳も」
「飲む」
「温泉も」
「それはネイラに聞く」
「うん」
約束が一つずつ増えていく。
レグは谷へ来るまで、ここに何があるか知らなかった。
両親の痕跡だけを探していた。
今は少し違う。
ルクアがいる。
ネイラがいる。
オルネもいる。
昔の自分を知る者がいて、今の自分から始まった関係もある。
それでも。
「レグ」
ハヤトが呼ぶ。
「行くぞ」
「うん!」
迷わず、こちらへ走ってくる。
ネイラが家の前から見送る。
「気をつけて」
「うん」
「何でも触らない」
レグがカイルを見る。
「俺に言ってる?」
「二人とも」
今度はハヤトも含まれていた。
「なんで俺まで」
「自覚して」
セラに言われる。
「はい」
谷の東。
昨夜開いた道の前には、まだ《レグ》の文字が淡く光っていた。
声はしない。
古い名も呼ばれない。
ただ、奥から冷たい風が流れている。
オルネは入口まで来たところで止まった。
「私はここに残る」
「来ない?」
レグが聞く。
「道を開いたのはお前だ」
「でも知ってること多い」
「必要なら戻って聞け」
「そっか」
「それと」
オルネがレグを見る。
「中で何かがお前を別の名で呼んでも、昨日と同じだ」
「返さない」
「違う」
レグが首を傾げる。
「返すかどうかも、お前が決めろ」
「……いいの?」
「名を知ること自体が悪いわけではない」
オルネは静かに言う。
「ただ、それを何のために使うのかを、自分より先に他人へ決めさせるな」
レグは少し考えた。
「うん」
「行ってこい」
レグが前を向く。
クロが隣へ。
その後ろにハヤトとセラ。
カイルが最後につく。
昨日までなら、谷は目的地だった。
今はもう、その先へ続く道がある。
レグは一歩、暗い通路へ踏み入れた。
数歩進んだところで振り返る。
「ルクア!」
少し離れた岩の上。
見送りに来ていたルクアが手を上げる。
「なに!」
「帰ったら勝負!」
「今度も負けない!」
「牛乳も!」
「それも!」
ネイラの声まで飛ぶ。
「帰ってから考えなさい!」
レグは笑った。
そして今度こそ、前を向いた。
暗い道の向こうへ。
待っているものを確かめるために。




