誰のための名前
東の岩壁へ向かう道を、レグたちは急いだ。
夜の谷には、すでに何十もの竜が集まっている。
岩の上。
空。
川沿い。
けれど騒いでいる者はいなかった。
全員の視線が、同じ場所へ向いている。
六本の光。
白く灯る《呼ぶ》。
そして、その隣で赤く明滅する《閉じる》。
先ほどまでは細かった黒い亀裂が、今は岩壁の途中まで伸びていた。
「遅かったか?」
トーレンが駆け寄る。
「まだだ」
オルネが答えた。
腕には、記録庫の床下から見つかった金属板を抱えている。
「それは?」
「ミレアが残した」
トーレンの顔が変わった。
「ミレアが?」
「説明はあとだ」
オルネはそのまま岩壁へ近づいた。
六本の線が集まる中央。
昼間には遠くからしか見えなかったが、近づくと岩そのものに薄い窪みがある。
「これ」
カイルが灯りを掲げた。
「形同じじゃないか?」
オルネが持つ金属板。
大きさまで、ほとんど一致している。
「ここへ入れる?」
レグが聞く。
「おそらくな」
「おそらく……」
ハヤトが思わず呟いた。
「今からやるの、それで大丈夫?」
「他に案があるか?」
「ないです」
「なら黙って見ていろ」
「はい」
素直に下がる。
オルネはすぐには金属板を入れなかった。
レグを見る。
「もう一度確認する」
「うん」
「これを使えば何が起こるか、私にも全部は分からん」
「うん」
「ミレアは古い名を使わず、お前が今選んでいる名で道を開けるよう手を加えようとしていた」
「うん」
「だが成功した記録はない」
「レグが最初?」
「そうなる」
レグは金属板を見る。
少しだけ息を吸った。
「やる」
「いいの?」
セラが尋ねる。
「怖くない?」
「怖い」
レグはあっさり認めた。
「でも、古い名前言うよりいい」
「途中で嫌になったら?」
「やめる」
「うん」
セラが頷く。
「それでいい」
トーレンが二人の会話を聞いていた。
「レグ」
「なに?」
「私は、今でも古い名を使った方が確実だと思っている」
ハヤトの身体が少しだけ強張る。
だがトーレンは続けた。
「それでも、お前が選んだ方法を先に試す」
「……怒ってない?」
「納得していないだけだ」
「それ前も言った」
「ああ」
「じゃあ大丈夫」
「何がだ」
トーレンが少しだけ笑った。
「ガルドならもっと面倒だった」
「おとうさんなら何する?」
「もう壁を殴ってる」
「やっぱり」
緊張していたレグの肩から、少しだけ力が抜ける。
オルネが金属板を窪みへ当てた。
ぴたりと収まった。
だが何も起こらない。
「……終わり?」
ハヤトが聞く。
「そんなわけあるか」
「ですよね」
「レグ」
「うん」
金属板には二つの空白がある。
一つは印。
もう一つは名。
「印の方からだ」
レグが手を伸ばす。
触れる直前。
胸の奥が熱くなった。
「っ」
「レグ?」
セラがすぐ動く。
「だいじょうぶ」
本当に痛みはないらしい。
レグはそのまま手を金属板へ置いた。
淡い光が指先から広がる。
円。
細い線。
母から受け継いだ印が、金属板の最初の空白へ浮かんだ。
「入った……」
カイルが呟く。
その瞬間。
声が来た。
レグだけが聞いていた、あの声。
古い名。
何度も自分を呼び続けていた響き。
レグの顔が強張る。
「来た?」
ハヤトが聞く。
「うん」
「返さなくていい」
「わかってる」
声は一度で終わらなかった。
二度。
三度。
今までより近い。
耳元で囁かれているように。
レグが目を閉じる。
「レグ」
セラが名前を呼んだ。
ただそれだけ。
レグの目が開く。
「うん」
今度はハヤトも何も言わなかった。
自分たちが答えを教える必要はない。
レグはもう決めている。
金属板の二つ目の空白。
名を置く場所。
オルネが一歩下がった。
「言え」
レグは岩壁を見る。
古い声はまだ、自分ではない何かを呼んでいる。
少しだけ迷って。
口を開いた。
「レグ」
何も起こらない。
周囲の竜たちがざわめく。
トーレンの眉が寄った。
ハヤトは息を止める。
「……失敗?」
レグ自身が呟いた。
その直後。
金属板の中央で、小さな光が灯った。
「待て」
カイルが言う。
「何か出る」
文字ではなかった。
レグが発した音を、そのまま刻むように光が走る。
古代文字でもない。
竜の古い記号でもない。
今使われている文字で。
――レグ。
たった二文字。
それが金属板へ残った。
「おかあさん……」
レグが小さく言った。
ミレアは最初から《レグ》という答えを仕込んでいたわけではない。
娘が将来、何と名乗るかは決めなかった。
本人がそのとき選んでいる名。
それを鍵にする仕組みだけを残した。
「来るぞ」
オルネの声。
六本の光が一度、すべて消えた。
闇。
一瞬遅れて。
轟音。
「うわっ!」
ハヤトがレグの方へ手を伸ばす。
セラも身を低くする。
クロがレグの前へ出た。
岩壁全体が震えている。
「レグ!」
「いる!」
「手離せ!」
オルネの声に、レグが金属板から手を離す。
だが光は消えない。
レグという名。
母から受け継いだ印。
二つがそのまま残っている。
白い《呼ぶ》の線が、中央へ流れ込んだ。
「古い名前じゃないのに……」
トーレンが息を呑む。
中央の円。
そこから今度は光が東へ走る。
岩壁の向こうへ。
そして。
レグを呼び続けていた声が――止まった。
「……あれ?」
「どうした?」
「声、いなくなった」
「古い名前の?」
「うん」
完全な静寂。
レグは何度か耳を澄ませる。
「もう呼んでない」
オルネの片目が、金属板へ向く。
「認識が置き換わったか」
「どういうこと?」
ハヤトが聞く。
「古い仕組みは、これまでレグを古い名で探していた」
「でも今、自分でレグって名乗った」
「そして印も本人のものだと認めた」
オルネはまだ断定しない。
「少なくとも今は、古い名を呼び続ける必要がなくなったように見える」
レグが胸へ手を置く。
「レグって分かった?」
「機械に気持ちはない」
「でも、レグになった?」
「仕組みの中ではな」
「ならいい」
レグは少しだけ笑った。
その横。
赤い《閉じる》の線が激しく点滅する。
「まだ終わってない!」
ネイラの声で、全員がそちらを見る。
亀裂がさらに伸びていた。
白い《呼ぶ》は落ち着いた。
だが《閉じる》は別だ。
「道は?」
カイルが岩壁を見る。
「開いたのか?」
地面が震える。
レグの名前が刻まれた金属板の左右から、細い線が広がっていく。
岩壁中央。
今までただの石だった場所に、縦の亀裂が走った。
「下がれ!」
全員が離れる。
岩が左右へ動く。
巨大な入口が、ゆっくり姿を現した。
その奥。
真っ暗な通路。
空気が流れ出す。
「開いた……」
レグが呟く。
トーレンは言葉を失っていた。
「本当に、古い名なしで……」
「ミレアがやったんだ」
ネイラが言う。
「最後まで、あの子に選ばせるために」
レグは入口を見る。
母親が、自分がここへ来るかどうかすら決めなかった。
来たとしても。
何と名乗るか。
古い役目を受け取るか。
道を開くか。
最後まで決めつけなかった。
「おかあさん、すごい」
「そこ?」
ハヤトが笑う。
「うん」
「もっと色々あるだろ」
「でもすごい」
「まあ、それはそう」
そのとき。
クロが通路へ鼻を向けた。
低く鳴く。
「何かある?」
レグも匂いを確かめる。
表情が変わる。
「おかあさん?」
ハヤトが聞く。
「……ちょっと」
「匂い?」
「うん。でも古い」
ミレアも、かつてこの道を通った。
それだけは確かなようだった。
「ガルドも通ってるはずだ」
トーレンが言う。
「俺が見た」
「じゃあ二人ともこの先?」
「時期は違うかもしれない」
カイルが冷静に言った。
「同じ場所へ行ったとも限らない」
「うん」
レグは焦らなかった。
今は、それでいい。
道は開いた。
自分の名前で。
「《閉じる》は?」
セラが赤い線を見る。
まだ明滅している。
ただ。
「待て」
オルネが気づく。
「亀裂が止まっている」
「ほんと?」
さっきまで少しずつ伸びていた黒い線。
動かない。
一度。
赤い光。
二度。
間隔が伸びる。
「何で?」
ハヤトが尋ねる。
「《呼ぶ》が閉じた道を開けようとして、ずっと《閉じる》へ負荷をかけていたのかもしれん」
「じゃあレグが道開けたから?」
「一つの負荷は消えた」
オルネは赤い線を見る。
「だが、これが《閉じる》そのものの問題まで直したとは思うな」
「まだ何かある?」
「ある可能性が高い」
カイルが通路を見る。
「その原因もこの先か?」
「分からん」
いつもの答え。
だが今は、誰も不満を言わなかった。
少なくとも急いで古い名を使う必要はなくなった。
そして、今夜すぐ谷全体が崩れるような状況も一度止まった。
「入る?」
レグが尋ねる。
ハヤトは通路を見る。
暗い。
先が分からない。
時刻はもう夜中に近い。
「今から?」
「レグ行ける」
「俺は行けなくはないけど」
セラが即座に言った。
「今日はやめよう」
「やっぱり?」
「ここまでずっと動いてるし、何があるか分からないところに夜から入る必要ないでしょ」
カイルが少し残念そうな顔をする。
セラの目が向く。
「カイル?」
「何も言ってない」
「顔が言ってる」
「……明日にする」
「よろしい」
レグも素直に頷いた。
「明日」
オルネも反対しなかった。
「道は開いた。今夜は入口を見張らせる」
「閉じたりしない?」
「金属板はそのままにしておく」
「取ったら?」
「知らん」
「じゃあ触らない」
「そうしろ」
トーレンがレグへ近づいた。
少し気まずそうだった。
「何?」
「……すまなかった」
「なにが?」
「古い名を使えと言ったことだ」
「でも、使った方がいいって思ってた」
「ああ」
「今は?」
トーレンは開いた道を見る。
そして、金属板に残る《レグ》の文字。
「私が間違っていた」
「全部?」
「そこまで言わせるのか?」
「聞いただけ」
トーレンが苦笑した。
「少なくとも、古い名しか方法がないと思っていたのは間違いだった」
「じゃあいい」
「簡単だな」
「道開いたから」
「それで済ませるのか」
「うん」
レグはもう怒っていなかった。
最初から怒っていたわけでもない。
自分で選びたかっただけだ。
「帰ろ」
レグがハヤトたちを見る。
「眠い?」
「ちょっと」
「腹減った?」
「ちょっと」
「そっちもか」
「頭使ったから」
「名前言っただけじゃん」
「いっぱい考えた」
「それはそうだな」
ネイラが笑う。
「帰ったら何か作るよ」
「ほんと?」
「軽いものだけ」
「肉?」
「軽いものって言ったでしょ」
「肉も軽い」
「どんな基準?」
さっきまで谷中を緊張させていた空気が、少しずつほどけていく。
レグが歩き出す。
クロ。
セラ。
ハヤト。
カイル。
いつもの並び。
その途中。
レグは一度だけ振り返った。
東へ開いた道。
その入口には、古い役目の名ではなく。
今、自分が選んでいる名前が光っている。
――レグ。
誰かから与えられた役目ではない。
母が呼んでくれた名を、今は自分自身が選んでいる。
「レグ」
ハヤトが少し先から呼んだ。
「置いてくぞ」
「いく!」
その声には、迷わず返事をした。




