残された余白
オルネの記録庫へ戻る頃には、谷の空はすっかり暗くなっていた。
東の岩壁に浮かんだ光は、ここからでも見える。
六本のうち《呼ぶ》の一本は白く残り、《閉じる》を示す線だけが、ときおり赤く明滅していた。
そのたびに、地の底から低い軋みが響く。
「さっきより間隔短くなってない?」
セラが振り返る。
「なってる」
ネイラの声に、いつもの軽さはなかった。
トーレンは東の壁に残った。
ほかの竜たちと周囲を見張り、もし何か変化があればすぐ知らせることになっている。
記録庫へ入ったのは、オルネ、ネイラ、ハヤト、セラ、レグ、カイル。そしてクロ。
「カイル」
「分かってる」
「まだ何も言ってないけど」
「勝手に触るな、だろ」
オルネが扉を閉めながら言う。
「理解が早くなったな」
「褒められてる気がしない」
「今日は褒めている」
「なら素直に受け取っとく」
オルネはそのまま一番奥の棚へ向かった。
昼間に見たものより古い石板を何枚か取り出す。さらに木札、薄い金属板、革で綴じられた記録まで卓へ並べていく。
「多いな……」
ハヤトが言う。
「全部見るの?」
「全部は無理だ」
オルネが即答した。
「《呼ぶ》と《閉じる》、それから東の道。この三つに絞る」
「俺は何すればいい?」
カイルがすぐ横へ立つ。
「こっちを読め」
オルネが石板を一枚だけ渡した。
カイルの顔が少し明るくなる。
「触っていいやつだ」
「落としたら外へ出す」
「急に重くなった」
「元から重いよ、それ」
セラが笑った。
レグは卓の端へ座り、胸元に手を当てている。
「まだ熱い?」
セラが尋ねる。
「さっきより少し」
「痛くは?」
「ない」
「変わったらすぐ言ってね」
「うん」
クロはレグの足元へ伏せた。
今のところ、何かに反応している様子はない。
オルネとカイルが記録を読み始めると、部屋は急に静かになった。
聞こえるのは紙をめくる音と、ときおり遠くから響く地鳴りだけ。
ハヤトには古い文字など読めない。
手伝えることもほとんどない。
「俺、何すればいい?」
「邪魔しない」
セラが答えた。
「一番難しいやつじゃん」
「頑張って」
「扱いが雑」
そう言いながらも、セラ自身は何もせず待っているわけではなかった。
オルネたちが読み終えたものを年代らしき順に並べ、同じ印がある記録をまとめている。
「これとこれ、同じじゃない?」
セラが二枚の木札を指した。
カイルが顔を上げる。
「どこ?」
「ここ。六本線の横」
「……本当だ」
一方はかなり古い。
もう一方は比較的新しい。
同じ印なのに、横に刻まれた文字が違っていた。
「古い方」
カイルが読む。
「《一つが失われれば、呼ぶ》」
「何を?」
「その先……《残る五つを》」
「六つの役目を集める?」
ハヤトが聞く。
「そう読める」
オルネも木札を見る。
「最初の《帰還》はこれだろう」
「一つが危なくなったら、ほかを呼び戻す」
「ああ。役目を持つ者同士で助けるための仕組みだった」
「じゃあ今、《閉じる》が弱ってるから《呼ぶ》が起きた?」
セラが言う。
「少なくとも、谷の中で起きていることはそう考えれば筋が通る」
オルネはそこで言葉を区切った。
「ただし、外の施設すべてが同じ理由で起きたとは限らん」
カイルも頷く。
「系統が違う施設もあった。似た印があっても、動き方は全部同じじゃなかったからな」
ようやく、一つだけ形が見えた。
最近すべての古代施設が、たった一つの原因で一斉に目覚めた。
そこまで単純ではない。
だが少なくとも竜の六つの道に関わる仕組みは、《閉じる》の異常をきっかけに動き始めている可能性が高い。
「新しい方は?」
レグが木札を見る。
カイルが読む。
途中で眉を寄せた。
「……内容変わってる」
「何て?」
「《一つが失われれば、名を呼べ》」
ハヤトの表情が変わる。
「残る五つじゃなくて?」
「ああ」
「名って、役目の名前?」
「多分」
次の行。
「《返した者を帰還させよ》」
部屋の空気が止まった。
「返事したら」
レグが小さく言う。
「帰らされる?」
「すぐ身体を運ばれる、という意味ではないと思う」
オルネが木札を受け取った。
「だが、明らかに仕組みが変えられている」
「昔は仲間に助けを求めるだけだった」
セラが整理するように言う。
「それが途中から、名前を使って役目を持つ竜を強制的に戻そうとする仕組みに変わった?」
「そういうことになる」
レグの胸元が、また淡く光った。
全員の視線が集まる。
「だいじょうぶ」
「声は?」
ハヤトが聞く。
「今はない」
「なら無理に気にしなくていい」
「うん」
カイルが新しい木札の端を見ていた。
「これ、後から削ってるな」
「どこ?」
「元の字が残ってる」
光へ傾ける。
確かに、今ある文字の下に別の溝が薄く見えた。
「誰かが書き換えた?」
「そうみたいだ」
オルネの片目が細くなる。
「だからミレアは嫌ったのか」
「知ってた?」
レグが尋ねる。
「全部ではない」
オルネは首を振る。
「だが、お前を連れてここへ来た頃、ミレアは何度も同じことを言っていた」
「なんて?」
「《呼ぶ仕組みが変わっている》」
レグが静かに聞く。
「それ以上は?」
「『あれでは呼んでいるんじゃない。縛っている』」
クロの首輪。
道を開く印が、鎖にされた。
同じことが、竜の名にも起きていた。
「誰が変えたんだ?」
ハヤトが聞く。
「記録にはない」
「昔の人間?」
「竜かもしれん」
「古代施設作った側?」
「それも分からん」
オルネはそこで止めた。
「分からない相手に名前をつけて敵を作るな。今ある証拠だけ見ろ」
「……はい」
ハヤトは素直に引いた。
その後もしばらく記録を探す。
一時間ほど経った頃。
「ない」
カイルが石板から顔を上げた。
「何が?」
「名前を使わずに東の道を開く方法」
「やっぱりない?」
「俺が見た範囲には」
レグの顔が少し沈む。
「でも全部見てない」
セラが言う。
「まだあるでしょ?」
「あるにはあるけど……」
棚を見れば、今夜だけで終わる量ではない。
そのとき。
クロが立ち上がった。
「クロ?」
今回は匂いを追わない。
レグの横からセラの方へ歩き、足元に落ちた一枚の薄い革を嗅いだ。
「あ、ごめん」
セラが拾う。
「さっき記録を並べたとき落としたかな」
表。
何も書かれていない。
「白紙?」
裏返す。
そこに、数行だけ文字があった。
「カイル」
「見せて」
受け取る。
しばらく見て。
「これ、本文じゃない」
「何?」
「紙じゃなくて、昔の本の表紙裏だ」
端には縫い穴が残っている。
何かから剥がれたものらしい。
「字は?」
「新しい。少なくとも石板よりかなり後」
カイルが一行目を読む。
そして。
止まった。
「どうした?」
「……これ」
「だから何?」
「普通の文字だ」
ハヤトには意味が分からない。
「古代文字じゃないってこと?」
「ああ。しかも」
カイルはオルネへ渡した。
「筆跡、見覚えないか?」
オルネが見る。
長い沈黙。
「ミレアだ」
レグが椅子から立ち上がった。
「おかあさん?」
「ああ」
「ほんと?」
「間違いない」
「何て書いてある?」
オルネではなく、カイルがもう一度革を受け取る。
「読むぞ」
「うん」
「《古い名を鍵にしてはいけない》」
最初の一文から、全員が黙った。
「次」
レグが促す。
「《名を封じても、道まで奪う必要はない》」
カイルが次の行を見る。
「《印は残す》」
レグの手が胸元へ。
「レグの中の?」
「可能性は高い」
オルネが言う。
「続きは?」
「《印が本人を示すなら――》」
一部が擦れて読めない。
「その先……」
カイルが目を凝らす。
「《今の名を、自分で選ばせる》」
レグの目が動いた。
「今の名前?」
「その下」
文字はさらに小さい。
「《古い名ではなく、本人が今そうありたいと望む名で道を開けるようにする》」
ハヤトは思わず革を見た。
「そんなことできるの?」
「少なくともミレアは、やろうとしてた」
カイルが答える。
「成功したかは別だ」
「まだある?」
「ああ」
最後の部分。
「《オルネへ》」
全員の視線が老人に向く。
「俺?」
「お前宛てだな」
「知らんぞ、こんなもの」
初めてオルネがはっきり動揺した。
カイルは続きを読む。
「《もしこの子が自分の足で戻り、それでも古い名を望まなかったなら――》」
レグが息を止める。
「《記録庫の下を見て》」
沈黙。
全員がゆっくり床を見る。
「下?」
ハヤトが言う。
「ここ?」
オルネ自身も床を見た。
「……聞いていない」
「ミレアから?」
「ああ」
「忘れてるとか?」
「それなら腹が立つが、あり得る」
「正直」
ネイラが部屋の隅へ目を向ける。
「記録庫の下って、地下?」
「地下室はない」
オルネが答える。
「少なくとも私が知る限りは」
カイルの顔が、また遺跡を見つけたときのものになる。
「床調べていい?」
「待て」
「今聞いた」
「だから待て」
オルネが自分で動く。
棚の下。
机の周囲。
壁際。
古い床石を一枚ずつ見ていく。
「ミレア」
ネイラが苦笑する。
「あなた、オルネにも隠し事してたのね」
「笑い事ではない」
「ちょっと面白い」
「私は面白くない」
レグも床を見ている。
「おかあさん、いたずら?」
「多分違う」
ハヤトが言う。
「多分?」
「ミレアってそういう人じゃないだろ」
「おとうさんなら?」
「やりそう」
「うん」
ネイラまで頷いた。
オルネだけが無視していた。
しばらくして。
「……これか」
棚の裏。
普段は見えない位置にある床石。
ほかとは違い、一角だけ薄い線が走っている。
オルネが手を掛ける。
「重い」
「手伝う?」
ハヤトが聞く。
「頼む」
珍しく許可が出た。
ハヤトとカイルも加わる。
「せーの」
三人で持ち上げる。
石板の下。
浅い空間が現れた。
「箱?」
セラが灯りを近づける。
中に入っていたのは、小さな金属板。
手のひらほどの大きさしかない。
表面には六本の線。
その一つ。
《呼ぶ》の印だけが削られている。
その横に。
二つの空白。
「文字入れる場所?」
カイルが見る。
「こっちは印」
レグが指した。
胸の奥が、僅かに温かくなる。
「もう一つは?」
オルネが金属板を慎重に持ち上げた。
裏を見る。
そこにはミレアの字で、一言だけ残されていた。
《名は、本人に言わせる》
ハヤトが息を吐く。
「古い名前じゃなく?」
「革の記録と合わせるなら」
セラがレグを見る。
「今、自分で選んでる名前」
レグは胸元へ手を置いた。
「レグ」
小さく言う。
何も起きない。
金属板も光らない。
「ここで言っても駄目みたい」
「だろうな」
カイルが笑う。
「多分、道の前で使うものだ」
オルネはしばらく金属板を見ていた。
「ミレアは、古い仕組みを壊せなかった」
「だから別の鍵を作った?」
「そう考えれば合う」
「使える?」
レグが聞く。
「分からん」
いつもの答え。
けれど今回は、その先があった。
「だが試す価値はある」
レグの表情が明るくなる。
「古い名前、言わない?」
「成功すればな」
「失敗したら?」
オルネは正直に答える。
「道は開かない」
「名前言わないとだめ?」
「そのときは、また考えればいい」
レグが少し笑った。
自分がさっき言ったのと同じだ。
「うん」
その瞬間。
地の底から、これまでで最も大きな音が響いた。
棚の石板が揺れる。
「っ!」
セラがレグを支え、カイルが卓上の記録を押さえる。
東の方角。
赤い光が窓から差し込んだ。
「《閉じる》!」
ネイラが外へ走る。
全員が続いた。
夜の谷。
東の岩壁。
《呼ぶ》の白い線の隣で、《閉じる》が今までより強く赤く輝いている。
その線に。
上から下へ、細い黒い切れ目が走った。
「……割れた?」
ハヤトが呟く。
オルネの顔から血の気が引いた。
「時間がないな」
「いつまで?」
「分からん」
レグは金属板を見る。
母が残した、もう一つの開け方。
古い名ではなく。
印と。
自分が今、選んでいる名前。
「明日?」
レグが尋ねた。
オルネは東の壁を見たまま答える。
「いや」
赤い光が再び脈打った。
「今夜、道の前まで行く」




