選ばれていた場所
レグが拒んでも、東の岩壁に浮かんだ光は消えなかった。
六本の線。そのうち一本だけが白く強く輝き、中央の円へ向かって脈打つように明滅している。
谷のあちこちから竜たちが集まり始めていた。人の姿の者もいれば、岩の上へ巨大な身体のまま降り立つ者もいる。
「ネイラ、あれ何?」
セラがレグのそばを離れないまま尋ねる。
「分からない。少なくとも、私が生きてきた間に動いたところは見たことがない」
「オルネなら?」
「呼びに行く必要はないよ」
ネイラが東とは反対側を見る。
石段を上ってくる老人の姿があった。
オルネだ。
「騒がしいと思ったら……」
歩みは遅い。
それでも、その片目は岩壁へ向けられた瞬間から鋭かった。
「起きたか」
「知ってるの?」
ネイラが聞く。
「記録ではな」
オルネはレグへ近づく。
「古い名を返したか?」
「返してない」
「見たか?」
「見てない」
「誰かに呼ばせたか?」
「してない」
「なら、そのままでいろ」
「うん」
短いやり取り。
迷いがない。
ハヤトは少しだけ安心した。
「何が起きてる?」
カイルが尋ねる。
オルネは岩壁を指した。
「あの六本は、昔この谷から各地へ伸びていた道を示す」
「六つの役目と同じ?」
「ああ」
「光ってる一本は?」
オルネがしばらく黙った。
朝にはまだ答えなかった問い。
レグがどの役目と結びついていたのか。
「もう隠しても仕方ないか」
片目がレグへ向く。
「あれは《呼ぶ》道だ」
レグの胸元にある光が、もう一度強くなる。
「レグ?」
「……わかんない」
「苦しい?」
「ちょっと熱いだけ」
セラがすぐ横へ立つ。
「痛くなったら絶対言って」
「うん」
オルネは続けた。
「お前の古い名は、《呼ぶ》役目に結びついている」
「何を呼ぶ?」
「それが一つではない」
必要な者。
竜。
道。
そして、古い仕組み。
「昔、《呼ぶ》役目を持つ者は、散らばった五つの役目を必要な場所へ集めることがあった」
「六つ全部を?」
「必要ならな」
カイルが東の壁を見る。
「《帰還》」
その言葉に、オルネが反応した。
「どこで見た」
「修道院の地下。六頭の竜と一緒に残ってた」
「……そうか」
「知ってる?」
「言葉は」
「意味は?」
「元々は単純だ」
オルネは六本の線を見上げる。
「散ったものを戻す。それだけだった」
「じゃあ六頭の竜をここに戻す?」
「それも《帰還》と呼ばれた時期はある」
「時期は?」
「長い間に意味が変わった」
オルネの声が少し低くなる。
「問題は、誰が何を帰すと決めるかだ」
ハヤトは何となく分かった。
「最初は必要なときに本人たちが使ってた。でも後から、仕組みの方が勝手に『帰れ』って判断するようになった?」
「その記録がある」
「だからレグに『帰ってきた』って」
「可能性は高い」
レグが岩壁を見る。
ただし、中央に浮かびかけている文字は見ない。
「レグ、ここに帰ってきたことになってる?」
「仕組みから見ればな」
「でもレグの家、ここじゃない」
「ああ」
オルネは即答した。
「それを機械に決めさせる必要はない」
谷のざわめきが少し大きくなった。
「《呼ぶ》が戻ったのか?」
「本当にガルドの娘なのか?」
「なら道を開けるぞ」
「東の封鎖も――」
いくつもの声。
期待。
恐れ。
驚き。
同じ光を見ても、感じ方は違うらしい。
「何か、すごい見られてる」
ハヤトが小さく言う。
「さっきまで以上だね」
セラも周囲を見る。
レグ自身は気にしていないようだった。
いや。
気にしていないふりをしているだけかもしれない。
クロがその脚へ身体を寄せる。
「クロ」
レグが頭へ手を置いた。
そのとき、人垣の中から一人の男が前へ出た。
四十代ほどに見える。
短い黒髪。
こめかみから後ろへ伸びる二本の角。
左頬には古い傷があった。
「オルネ」
「トーレンか」
「止めるな」
オルネの顔が僅かに険しくなる。
「何をだ」
「認証を」
聞き慣れない言葉ではない。
けれど、今までで一番嫌な響きに聞こえた。
「今、《呼ぶ》が戻れば、閉じた道を調べられる」
トーレンはレグを見る。
「東へ行ったガルドも、ミレアも。その先にいるかもしれない」
レグの指が止まった。
「おかあさん?」
「ああ」
「知ってる?」
「居場所は知らない」
トーレンは誤魔化さない。
「だが東の古い道が最後に閉じた時期と、二人が姿を消した時期は近い」
カイルが反応する。
「その道が開けば?」
「追えるものがあるかもしれない」
「記録?」
「記録だけじゃない。通路そのものが残っている可能性もある」
レグは黙った。
ハヤトは何も言わない。
言いたくなる。
やめた方がいい。
危ない。
でも、それはレグが聞かれている。
「どうやって認証するの?」
レグが尋ねた。
「古い名を告げればいい」
「それだけ?」
「それだけだ」
「そのあと?」
「道が開く」
オルネが口を挟んだ。
「都合のいいところだけ言うな」
トーレンの視線が鋭くなる。
「危険は承知している」
「お前が承知してどうする」
「谷全体の問題だ」
「本人の名だ」
「その本人の両親が、東にいる可能性がある!」
初めて、トーレンの声が大きくなった。
レグの肩が僅かに動く。
セラが一歩前へ出かけた。
だが、ハヤトが軽く手を出して止める。
セラはこちらを見る。
ハヤトは小さく首を振った。
今はまだ。
レグ自身が聞いている。
トーレンは一度息を整えた。
「悪い。脅すつもりはない」
「うん」
「私はガルドを知っている」
「友達?」
「……あいつがそう思っていたかは知らん」
「けんかした?」
「した」
「やっぱり」
レグの口元が少しだけ緩む。
トーレンも意外そうな顔をした。
「誰から聞いた」
「みんな」
「そうか……」
「おとうさん、けんかしすぎ」
「それは否定しない」
少しだけ空気が緩んだ。
だがトーレンは話を戻す。
「ガルドが傷だらけで戻ったとき、私はここにいた。止めても聞かなかった。何かを確かめて、また東へ出た」
「オルネのところ?」
「それも後で聞いた。私が見たのは、そのあとだ」
「どこ?」
トーレンが光る岩壁を見る。
「あの道の前」
レグが顔を上げる。
「おとうさん、入った?」
「入った」
「古い名前使った?」
「……そこは分からない」
「なんで?」
「私は中へ入れなかった」
「おとうさんだけ?」
「ああ」
トーレンの表情に、悔しさが混じる。
「だから今でも、あの先に何があるのか誰も確かめられていない」
ハヤトは東の壁を見る。
ガルドが最後に使った可能性のある道。
その先へミレアも向かったかもしれない。
レグが知りたいと思うのは当然だった。
「名前言えば、おとうさんのあと追える?」
「可能性はある」
トーレンが答える。
「絶対?」
「絶対とは言えない」
「じゃあ」
レグは少し考えた。
「名前言ったら、レグどうなる?」
トーレンが黙る。
答えたのはオルネだった。
「分からん」
「役目になる?」
「すぐに何かが変わるとは思わん」
「でも?」
「古い仕組みがお前を《呼ぶ者》として認識する」
「それだけ?」
「それで終わる保証がない」
「呼ぶ者になったら、みんな呼ばないとだめ?」
「そこも分からん」
「おかあさんのところ行ける?」
「分からん」
レグが次々に聞く。
そして、誰も確実な答えを持っていない。
「分かんないこといっぱい」
「ああ」
「なのに名前言う?」
今度はトーレンを見る。
「……私は、それでも調べる価値があると思っている」
「おとうさんとおかあさんのため?」
「それだけではない」
トーレンは谷を見回す。
「この一月、谷の外の古い場所が次々動き始めている。それはこちらにも伝わっている」
ハヤトたちの表情が変わる。
「知ってたのか」
「全部ではない。だが谷の古い印も、少しずつ反応していた」
「じゃあ今日急にじゃない?」
「完全に起きたのは今日が初めてだ」
トーレンの視線がレグへ戻る。
「お前が来たからだと思う」
「レグのせい?」
「違う」
今度はセラがはっきり口を挟んだ。
全員が見る。
「レグが原因だって言い方は違うと思う」
トーレンは反論しなかった。
「古いものが勝手にレグへ反応した。それだけでしょ」
「ああ。その通りだ」
セラの声は少し柔らかくなる。
「なら、レグが責任を取らなきゃいけないみたいに聞こえる言い方はしないで」
トーレンはしばらくセラを見る。
「……すまない」
頭を下げた。
「焦っているようだ」
「何か理由ある?」
ハヤトが聞く。
トーレンは答える前に、岩壁を見た。
「《閉じる》道が、三日前から弱っている」
「閉じる?」
カイルの顔が変わる。
「六つの役目の一つ?」
「ああ」
「何を閉じてる?」
「それが分からない」
「……それ怖くない?」
ハヤトが言う。
「だから焦っている」
ようやく、トーレンの事情が見えた。
谷の古い仕組みが弱っている。
外でも施設が目覚め始めている。
そこへ《呼ぶ》役目と結びついたレグが戻った。
古い仕組みを動かせば、何か分かるかもしれない。
そう考える者がいても、不思議ではない。
「レグ」
ハヤトが呼ぶ。
「うん」
「どうしたい?」
「……」
レグは東の壁を見る。
母親。
父親。
知りたい。
会いたい。
その気持ちは、表情を見るだけで分かる。
「名前、知りたい」
「うん」
「おかあさんも探したい」
「ああ」
「おとうさんも」
「うん」
「でも」
レグは胸へ手を置いた。
「今、名前言うのはやだ」
トーレンが僅かに目を閉じる。
「理由を聞いていいか」
「わかんないから」
「……」
「何する名前か。言ったらどうなるか。誰が呼んでるか。何もわかんない」
一つずつ。
自分で確かめるように。
「おかあさん、守るために封じた」
「そう聞いている」
「おとうさんも、レグじゃない名前だったら箱渡すなって言った」
「ああ」
「なのに、今すぐ言うの変」
トーレンは答えなかった。
レグは続ける。
「道、開けたい」
ハヤトが少し驚いた。
「開けたいんだ?」
「うん」
「でも名前は?」
「使わない」
今度はオルネを見る。
「ほかの開け方、探すって言った」
「言ったな」
「まだ探してない」
「ああ」
「じゃあ先にそれ」
オルネの口元が僅かに上がる。
「そうしよう」
トーレンが息を吐いた。
「時間がなければ?」
レグは少し考える。
「そのとき、また決める」
「今決めない?」
「うん」
静かな返事だった。
トーレンは長くレグを見た。
やがて一歩下がる。
「分かった」
「怒らない?」
「納得はしていない」
「そっか」
「だが」
少しだけ笑った。
「ガルドなら、同じことを言う気もする」
「ほんと?」
「いや。あいつなら先に道を殴るかもしれん」
レグが吹き出した。
「おとうさん、ばか」
「かなりな」
ハヤトも笑いかけた。
その瞬間。
谷の東から、低い音が響いた。
笑いは消える。
白く輝いていた《呼ぶ》の線。
その隣。
二本目の線が、一瞬だけ赤く明滅した。
「今の……」
カイルが目を凝らす。
オルネの表情が変わった。
「《閉じる》」
トーレンも東を見る。
「まただ」
「弱ってるって言ってたやつ?」
「ああ」
赤い光。
一度。
二度。
そして消える。
その直後、谷の奥深くから何かが軋む音がした。
岩が動いた音ではない。
もっと重い。
ずっと閉じていたものが、僅かにずれたような音。
「オルネ」
「分かっている」
老人が杖もないのに、先ほどまでより速く歩き始める。
「どこ行く?」
レグが聞く。
「記録庫だ」
「道の開け方探す?」
「ああ」
オルネは一度だけ振り返る。
「予定を変える」
「何する?」
「今夜中に探す」
カイルの目が輝いた。
「俺も――」
「お前は来い」
「え?」
今度はオルネの方からだった。
「古代文字を多少読めるんだろう」
「……読める」
「なら手が足りん」
カイルが一瞬だけ嬉しそうな顔をする。
「触っていい?」
「私が渡したものだけだ」
「分かった」
「嬉しそうだね」
セラが笑う。
「今それ言うな」
オルネはハヤトたちも見る。
「レグも来い」
「うん」
「他は?」
「一緒に行く」
レグが答えた。
「クロも」
尻尾が動く。
オルネは止めなかった。
「なら急げ」
東の壁。
六本の道。
《呼ぶ》は目覚めた。
そして《閉じる》は、何かを押さえきれなくなり始めている。
レグは一度だけ、光る岩壁を振り返った。
「名前なくても開ける」
誰に言うでもなく呟く。
それからハヤトたちと一緒に、オルネの後を追った。




