返さない夜
オルネの場所を出る頃には、谷の上を渡る陽がかなり傾いていた。
朝からクロの古い休息所へ行き、そのあと名を預かる場所まで歩いた。距離だけなら大したことはないが、知ったことが多すぎる。
クロの印は、もともと道を開くためのものだった。
レグのもう一つの名も、それに近い働きを持っていた。
鍵だったものが、いつか鎖へ変えられた。
そして今も、谷のどこかに古い仕組みが眠っている。
「今日はもう休むよ」
ネイラが先を歩きながら言った。
「明日の朝、オルネのところへ行けばいい」
「夜に調べない?」
カイルが聞く。
「お前は寝なさい」
「まだ元気だ」
「顔が遺跡見つけたときのやつになってる」
「どんな顔だ」
「放っておくと朝まで帰ってこない顔」
ハヤトが思わず頷く。
「分かる」
「お前まで乗るな」
セラも横からカイルを見る。
「今日は本当に休んだ方がいいと思う。昨日までずっと移動してたし」
三方向から止められ、カイルは諦めたように息を吐いた。
「分かった」
「意外と素直」
「竜の谷で勝手に動いて追い出されたくないだけだ」
「十分賢いよ」
レグは会話を聞きながら、クロと並んで歩いていた。
時々、自分の胸元へ手を置く。
ハヤトはそれに気づいていた。
「気になる?」
「うん」
「名前?」
「それも」
「ほかは?」
レグは少し考えた。
「谷」
「谷?」
「知ってる気がするところ、いっぱいある」
道。
岩。
川。
建物。
どれもはっきり覚えているわけではない。
それでも、角を曲がる前に景色を予想できることがあるらしい。
「怖い?」
セラが尋ねる。
「ちょっと変」
「変?」
「初めてなのに、初めてじゃない」
レグは足を止めずに答えた。
「でも今のレグは、ここ初めて」
「うん」
「だから見る」
セラが小さく笑った。
「それでいいと思う」
ネイラの家へ戻る途中、小さな広場を通った。
何頭かの竜が人の姿で食事の準備をしている。肉を焼く匂いが漂い、それにレグが即座に反応した。
「いいにおい」
「さっきまで大事な話してたのに」
ハヤトが笑う。
「おなかは別」
「知ってる」
広場の端では、昨日の赤褐色の竜――人の姿なら赤茶色の髪をした女性が、別の若い竜たちと何か話していた。
レグに気づく。
「あ」
目が合った。
女性は一瞬だけネイラを確認してから、そっと逃げようとした。
「待ちなさい」
ネイラの声。
「……何もしてない」
「昨日の話、まだ終わってない」
「もう布返した」
「それと、夜に人間の頭すれすれを飛ぶのは別」
「すれすれじゃない」
「何歩分?」
「……四歩くらい」
「近い」
「竜なら普通」
「人間には普通じゃない」
女性が肩を落とす。
レグが横から言った。
「でも楽しかった」
「レグ」
「ほんと」
ネイラはレグを見る。
次にハヤトたち。
「怪我は?」
「ないです」
セラが答えた。
「なら今回はいい」
「やった」
赤茶色の女性が顔を上げる。
「次から気をつける」
「次ある前提なんだ」
ハヤトが呟く。
「谷にいる間はある」
本人が当然のように答えた。
レグが嬉しそうに笑う。
「明日も飛ぶ?」
「飛ぶ」
「着地、今度勝つ」
「まだ言ってるの?」
「勝つまで」
「じゃあ一生終わらないかも」
「む」
二人のやり取りを見て、ネイラがため息をつく。
「名前は?」
ハヤトが小声で聞く。
「まだ教えてもらってない」
「そういえばそうだったね」
セラも気づく。
女性は聞こえていたらしく、こちらを向いた。
「ルクア」
「え?」
「必要になったから」
昨日のオルネと同じ言い方だった。
「ルクア」
レグが繰り返す。
「うん」
「覚えた」
「忘れないで」
「レグ、名前は覚える」
ハヤトは思わず横を見る。
「説得力あるような、今の状況だとないような」
「レグはレグ覚えてる」
「それは大事」
ルクアは少し笑い、仲間のところへ戻った。
ネイラの家に着く頃には、空が薄紫に変わっていた。
夕食は思ったより豪華だった。
大きな鍋。
焼いた肉。
山菜に似た野菜。
硬いパンのようなものまである。
「こんなに食べるの?」
セラが驚く。
「今日は人数いるから」
ネイラが肉を切り分ける。
「竜基準じゃないよね?」
ハヤトが念のため聞く。
「人の姿の分」
「よかった」
レグはもう席についている。
「食べていい?」
「全員座ってから」
「座ってる」
「お前だけね」
クロもレグの足元で待っていた。
「クロも座ってる」
「そこは数えない」
全員が揃うと、ようやく食事が始まった。
レグは最初こそ勢いよく食べていたが、途中でふとネイラを見る。
「おかあさんも、ここで食べた?」
「この家で?」
「うん」
「何度か」
「どこ座った?」
ネイラが少し考えて、窓側の椅子を指した。
「そこ」
レグが見る。
「おとうさんは?」
「そっち」
今カイルが座っている椅子。
カイルの手が止まる。
「俺ここいていいのか?」
「ただの椅子よ」
「いや、そうなんだけど」
レグが嬉しそうに見る。
「カイル、おとうさんの席」
「やめろ。急に座りづらくなる」
「いっぱい喋って」
「それまで真似しろと?」
「うん」
「断る」
ネイラが肉を取りながら笑った。
「ガルドなら食事中もずっと喋ってたよ」
「やっぱり」
「ミレアは?」
セラが尋ねる。
「聞いてた。たまに止めた」
「何て?」
「『食べてから喋って』」
「セラみたい」
レグが即答する。
「私?」
「うん」
「……そう?」
ハヤトは少し納得してしまった。
「ちょっと分かる」
「ハヤトまで?」
「いや、悪い意味じゃなくて」
「ならいいけど」
ネイラは二人を見比べ、何か言いかけた。
だが結局、何も言わなかった。
食後。
カイルはオルネの石板を思い返しながら自分の写しへ書き込み、セラはネイラから谷で採れる薬草について教わっていた。
レグはクロと一緒に外へ出る。
ハヤトも少し遅れてついていった。
家の前からは、谷の空がよく見えた。
夜の竜たちが何頭か飛んでいる。
「今日は飛ばない?」
「ルクアと明日」
「そっか」
レグは石段へ座る。
クロもその横に伏せた。
ハヤトは隣へ座るほどではない距離で、壁へ背を預ける。
「ハヤト」
「ん?」
「名前って、何?」
「難しい質問だな」
「ハヤトは、ハヤト?」
「うん」
「名前変わったら?」
「俺じゃなくなるかって?」
「うん」
ハヤトは考えた。
「ならないと思う」
「じゃあ、なんで危ない?」
「名前が危ないんじゃなくて」
言葉を選ぶ。
「昔の仕組みが、その名前に勝手な意味をくっつけてるのが危ないんじゃないかな」
「勝手に?」
「例えばさ」
レグを見る。
「俺がレグに『今日からお前は毎日料理する人な』って言ったとして」
「やだ」
「だろ?」
「食べる人がいい」
「そこじゃなくて」
笑ってから続ける。
「俺が勝手に決めても、レグがそうなるわけじゃない。でも、毎日みんなが『料理する人』『料理する人』って呼んで、料理しないと駄目だって言い続けたら、ちょっと変だろ」
「うん」
「古い名前は、それをもっと強くするものなのかも」
「魔力も?」
「オルネはそう言ってたな」
レグは胸へ手を置く。
「でもレグ、料理する人って言われてもやらない」
「強いな」
「食べる」
「知ってる」
しばらく黙る。
夜風が吹く。
竜の谷の夜は、外の森より音が多かった。
翼の音。
遠い鳴き声。
川。
誰かの話し声。
それらが少しずつ静まっていく。
「ハヤト」
「何?」
「もしレグ、変になったら?」
「変って?」
「昔の名前ばっかり気にして、役目やるって言ったら」
ハヤトはすぐに答えなかった。
「レグが本当にやりたいなら、止めない」
「ほんと?」
「危なくなければ」
「危なかったら?」
「止める」
「じゃあいつもと同じ」
「そうだな」
「でも」
ハヤトは続ける。
「レグが『やりたい』って言ってるのか、何かに言わされてるだけなのか分からなくなったら、一回ちゃんと話す」
「それでもレグがやるって言ったら?」
「また考える」
「すぐ決めない?」
「ああ」
レグが満足そうに頷いた。
「それでいい」
「お前が決めるんだ」
「うん」
そのとき。
クロが顔を上げた。
ハヤトも会話を止める。
「何?」
耳が立っている。
レグも同時に胸を押さえた。
「……来た」
「声?」
「まだ」
「まだ?」
レグの胸元。
服の下から淡い光が漏れた。
「レグ!」
ハヤトが立ち上がる。
だがレグは苦しそうではない。
「熱い?」
「ちょっと」
家の中からセラたちも出てくる。
「どうしたの?」
「印が」
ネイラの顔が変わる。
「中に戻ったやつ?」
「うん」
レグが立ち上がった。
谷の奥を見る。
オルネの場所とは違う。
もっと東。
「声、する」
「古い名前?」
セラが聞く。
レグは答えない。
耳を澄ませる。
ハヤトには何も聞こえなかった。
しかし今までと違う。
レグの顔に、聞き覚えのないものを聞いた驚きがない。
むしろ。
「近い」
「どのくらい?」
「すぐそこみたい」
ネイラが周囲を見る。
「何て言ってる?」
レグの唇が少し動く。
危うく何かを返しそうになり、自分で口を閉じた。
「レグ?」
「……呼んでる」
「名前で?」
「うん」
「返さなくていい」
ハヤトが言う。
「分かってる」
レグは両手で口を塞ぐようにした。
その瞬間。
谷の奥。
暗い岩壁の一部に、白い光が走った。
「何あれ?」
カイルが前へ出る。
一本。
二本。
六本。
遠くの岩肌に、巨大な六つの線が浮かび上がる。
オルネの石板に刻まれていた配置と同じだった。
「起きた……?」
セラが呟く。
ネイラの表情が硬くなる。
「そんなはずない」
「何が?」
「ここは何十年も動いてない」
六本のうち。
一本だけが、ゆっくり明るくなる。
レグの胸の光も強くなった。
「レグ!」
「だいじょうぶ」
「本当に?」
「うん。でも」
声がまた届く。
今度はレグの顔がはっきり変わった。
「何て?」
聞かれても、すぐには答えない。
「レグ?」
「……『帰ってきた』」
ハヤトの背筋が冷える。
さらに。
「『遅かった』」
ネイラが東の岩壁を見る。
「誰が言ってる?」
「わかんない」
「声はミレア?」
「ちがう」
「ガルド?」
「ちがう」
レグは首を横に振る。
「知らない」
六本の線の中央。
今まで何もなかった場所に、小さな光が生まれる。
円。
その中心へ。
一つの文字が浮かびかけた。
「見るな!」
ネイラの声が飛んだ。
レグの前へ手を出す。
「何?」
「あれが名なら、読ませるな!」
ハヤトも反射的にレグの視界を遮る。
セラが反対側へ回る。
「家の中へ!」
「待って」
レグが動かない。
「レグ?」
「返してない」
「うん」
「名前も見てない」
「それでいい」
「でも」
レグはハヤトの肩越しに、光を見ないよう目を伏せたまま言った。
「声、怒ってる」
「何に?」
「レグが返事しないから」
低い音が谷全体へ響いた。
竜たちの声ではない。
岩の奥。
地面の下。
古い何かが動き始める音。
家々から次々に竜たちが出てくる。
空へ飛び上がるものもいた。
「何が起きた!」
「東の壁だ!」
「光ってるぞ!」
ざわめきが広がっていく。
レグは胸を押さえたまま、一歩も動かなかった。
そして。
声がまた届く。
今度は古い名前ではなかった。
レグにも。
はっきり理解できる言葉。
「……」
「何て?」
ハヤトが聞く。
レグがゆっくり顔を上げた。
「『役目を思い出せ』」
その言葉を聞いた瞬間。
レグの表情から、迷いが消えた。
「やだ」
短い。
でも、今までで一番はっきりした声だった。
東の岩壁へ向けてではない。
誰かに聞かせるためでもない。
自分で決めるように。
「レグは、今のレグ」
光は消えない。
古い仕組みも止まらない。
それでもレグは、呼ばれた名を返さなかった。




