首輪の跡
「この子は、ただ施設で捕まっていた獣じゃないかもしれない」
ネイラの視線は、クロの首元に残る古い傷へ向いていた。
円と、その中を走る三本の線。
ガルドが残した箱の中にあった黒紐の金具にも、同じ印が刻まれている。
「クロが特別な獣ってこと?」
レグが聞いた。
「そういう意味じゃないよ」
ネイラはすぐに否定した。
「少なくとも、昔の竜が一頭だけ大事にしてた伝説の獣とか、そういう話じゃない」
「よかった」
ハヤトが思わず言う。
「何で?」
「これ以上、実はすごい存在でしたって増えると頭が追いつかない」
「ハヤトはもう追いついてない」
「レグに言われた」
セラが小さく笑ったが、視線はすぐクロへ戻った。
「じゃあ、この印は何なの?」
「昔、この辺りには竜と一緒に道を行く獣がいたの」
ネイラが黒紐を卓へ置く。
「見た目は、その子にかなり近い」
クロの耳がわずかに動く。
「狼?」
「人間から見れば、そう見えると思う。でも普通の狼とは違った。鼻がよくて、竜より細い道を通れて、人の気配にも敏感だった」
「案内役?」
カイルが尋ねる。
「それもした。見張りも。迷った子竜を連れ戻すこともあった」
レグがクロを見る。
「クロ、子ども探す?」
クロは何も答えず、レグの膝へ鼻先をつけた。
「今はレグ探す」
「それはお前についてるだけだろ」
「同じ」
「そうかな……」
ネイラが立ち上がった。
「見せた方が早いね」
「どこ行くの?」
「すぐ裏」
黒紐を持ち、家の奥にあるもう一つの扉を開ける。
外へ出ると、小さな石造りの庭があった。
草に半分埋もれた石柱。
古い水桶。
その奥に、風化した壁。
「ここ、昔からあるの?」
セラが尋ねる。
「家より古い」
ネイラは壁の一部を手で払った。
苔の下から浅い彫刻が現れる。
「……竜?」
ハヤトが近づく。
六頭ではない。
一頭の竜。
人の姿をした者が、その横を歩いている。
さらに足元。
四つ脚の獣。
「クロ」
レグがすぐ気づいた。
「似てる」
「耳の形も近いな」
カイルが彫刻を覗き込む。
獣の首には輪がない。
その代わり、胸元に小さな印が彫られている。
円。
三本の線。
「同じだ」
ハヤトが呟いた。
「でも首輪じゃない」
「そこが大事」
ネイラが言う。
「この印は元々、縛るためのものじゃなかった」
カイルが壁の脇にある文字へ目を向ける。
「これ読めるか?」
「少しなら」
ネイラは指で一行をなぞった。
「古い言葉で、近い意味は……《道を知る者》かな」
「道を?」
「竜の古い場所同士を移動するとき、この獣たちを連れていった時期があったらしい。竜より先に危険を見つけたり、道が閉じていても別の道を探したりね」
「施設にも入れた?」
カイルの問いに、ネイラは少し考えた。
「入れた場所もあったと思う」
「印があるから?」
「多分。でもそこは私も詳しくない」
断言しない。
セインと同じだった。
長く生きていても、何でも知っているわけではない。
「じゃあクロは、その獣の子孫?」
セラが聞く。
「可能性は高い」
「だから施設の匂い分かった?」
「それもあるかもしれないね」
ハヤトはこれまでのクロを思い出す。
人工的な地下施設。
黒い装置。
ヴァンやイリスに埋め込まれたものへの強い警戒。
人間には分からない匂いを追い、道を選ぶこともあった。
「元々そういう性質を持った種類だったのか」
「そう考えると自然ね」
ネイラはクロの首を見る。
「でも、ここからが嫌な話」
空気が少し変わった。
「この傷?」
セラが聞く。
「うん」
ネイラはしゃがんだが、クロへ勝手に手を伸ばさなかった。
「昔の印は、身体へ焼きつけるものじゃなかった」
「じゃあクロのは?」
「後から誰かが真似した」
ハヤトの表情が変わる。
「施設が?」
「おそらく」
カイルが黒紐を受け取る。
「古い仕組みに、この印を持つ獣を認識する機能が残っていた。それを利用した?」
「ガルドはそう考えてたみたい」
「ガルド?」
レグが反応する。
ネイラは黒い箱を持ってきていた。
「冊子、もう一回見て」
カイルが受け取り、先ほど飛ばした頁へ戻る。
「ここか?」
最後の方。
文字が乱れ始める少し前に、図があった。
小さな円。
三本線。
その横に、首輪のような形。
「さっきは名前の方ばっかり見てたな」
「何て書いてある?」
レグが隣から覗く。
カイルが慎重に読み始める。
「《古い印を、鎖へ変えた者がいる》」
次の行。
「《獣は道を覚えている。だから利用された》」
「利用……」
セラの顔が曇る。
「クロたちを施設の番犬にした?」
「それだけじゃないみたいだ」
カイルが続ける。
「《道を探させる》《印を追わせる》……この辺は読める」
ハヤトがレグを見る。
「印を追う?」
レグも自分の胸へ手を置いた。
母から受け継いだ印。
黒い石の形で一度外へ出て、今は再び身体の中へ戻っている。
「じゃあクロがレグについてきたのも……」
「待って」
セラがハヤトを止める。
「それだけで決めない方がいい」
「あ」
「首輪があったときは何かを追わされてたかもしれない。でも外したあとまで同じとは限らないでしょ」
クロは今、レグの横にいる。
鎖もない。
首輪もない。
誰かに命令されている様子もない。
「そうだな」
レグがクロの前へしゃがんだ。
「クロ」
鼻先が向く。
「レグの印だからついてきた?」
もちろん言葉では答えない。
「それとも、レグだから?」
クロは少し首を傾げる。
次の瞬間。
レグの頬を舐めた。
「わっ」
レグが顔を拭う。
「……レグだから?」
尻尾が動いた。
「都合よく解釈してない?」
ハヤトが笑う。
「してない」
「でもまあ」
セラも少し笑った。
「今のクロがここにいる理由は、それでいいんじゃない?」
「うん」
レグはクロの頭を抱く。
「クロが決めた」
ネイラが二人を見ていた。
「それなら問題ないよ」
「何が?」
「昔の獣たちも、縛られて竜についていたわけじゃないから」
ネイラは壁の彫刻を指す。
「一緒に行く相手は、自分で選んでたと言われてる」
レグの顔が明るくなる。
「クロ、レグ選んだ?」
尻尾がまた動く。
「やった」
「よかったな」
「ハヤトよりクロの方が先?」
「何の順番?」
「レグ選んだ順番」
「そこ競う必要ないだろ」
カイルが冊子を読み進めていた。
その手が止まる。
「……まだあるぞ」
「何?」
「この黒紐についてだ」
全員が戻る。
頁の端に、後から書き足したような短い文章。
「《首輪から切った》」
「ガルドが?」
「多分」
「どこで?」
カイルが次を読む。
「《西の施設》」
ハヤトたちは顔を見合わせた。
ガルドは十数年前、一度西へ出た。
その後、傷だらけで谷へ戻ってきている。
「クロがいた場所と同じ?」
レグが聞く。
「場所までは分からない」
カイルが答える。
「でも少なくとも、ガルドは同じ仕組みを使った施設を見てる」
「そこでこれを切った?」
「ああ」
さらに続き。
「《一頭は逃がした》」
「一頭?」
「《残りは間に合わなかった》」
笑いが消えた。
レグがクロを抱く腕へ少し力を入れる。
「死んだ?」
「そうとは書いてない」
「でも……」
「分からない」
レグは黙る。
ネイラの表情も硬かった。
「ガルドが戻ってきたとき」
ゆっくり口を開く。
「ひどく怒ってた」
「怪我したから?」
「違う」
ネイラは覚えている。
「自分の傷なんて気にもしてなかった。ずっと、『また鎖にした』って言ってた」
「また?」
カイルが顔を上げる。
ネイラもそこが引っかかっているらしい。
「私も聞いた。でも答えなかった」
「ガルド、何か前にも知ってた?」
「たぶんね」
古い印。
本来は道を共にするためのもの。
それがいつか、獣を縛り、操るための印へ変えられた。
しかもガルドは、それを初めて見たわけではない。
「この施設が最近起きたのとは別の話か」
ハヤトが言う。
「十数年前にはもう動いてたってことだもんな」
「全部が一斉に始まったわけじゃなさそうだ」
カイルが頷く。
「最近になって増えた。それ以前にも、動いてた場所はあった」
これまで一つにまとめかけていたものが、少し崩れる。
一つの原因。
一つの始まり。
そんな単純なものではないのかもしれない。
「おとうさん」
レグが冊子を見る。
「クロみたいなの助けた?」
「一頭は」
「その子、どうなった?」
カイルが続きを探す。
頁の下。
たった一行。
「……《東へ走った》」
「東?」
「ああ」
「谷に来た?」
ネイラが首を横に振る。
「私は知らない」
「じゃあ別のところ?」
「かもしれない」
クロが不意に鼻を鳴らした。
黒紐へ近づく。
今度は怯えるような反応ではない。
ただ、匂いを確かめる。
「知ってる匂い?」
レグが聞く。
クロは長く嗅いだあと、顔を上げた。
そして。
家の外。
東の方角へ鼻先を向ける。
「……クロ?」
耳が立つ。
尻尾は止まっている。
警戒ではない。
何かを探すときの姿だった。
「向こうに何かある?」
レグが隣へ立つ。
クロは動かない。
ただ東を見ている。
ネイラもその方角を見た。
「ガルドが箱を置いていったあと」
「うん」
「谷から出る前に、一か所だけ寄った場所がある」
レグが振り返る。
「どこ?」
「昔、その獣たちを休ませていた場所」
「まだある?」
「跡だけなら」
「行きたい」
すぐに答えた。
ネイラはクロを見る。
「この子も何か感じてるみたいだしね」
カイルが冊子を閉じる。
「そこに行けば、ガルドが何をしたのかもう少し分かるかもしれない」
「ああ」
ハヤトも立ち上がった。
クロはまだ東を向いている。
首には、誰かに焼きつけられた古い印。
けれど今は、そこに首輪はない。
「クロ」
レグが呼ぶ。
ようやくこちらを見る。
「いっしょに行く?」
尻尾が一度、大きく動いた。
「行くって」
レグは笑った。
「じゃあ行こ」
今度は誰かに追わされる道ではない。
クロ自身が選んだ方向へ、一行は向かうことになった。




