谷に待つ顔
朝の泉に、赤褐色の竜は本当にやって来た。
昨日とほとんど同じ時刻だった。
「早い」
レグがまだ朝食のパンを食べながら空を見上げる。
竜は一度だけ泉の上を回り、少し離れた岩へ降りた。
「昨日、朝ごはんのあとって言ってなかった?」
ハヤトが聞く。
「言った」
「じゃあ待たせてる?」
「食べる」
「そこは急がないんだ」
赤褐色の竜が低く鳴いた。
レグがパンを噛みながら聞いている。
「何て?」
「『ゆっくりでいい』」
「いいやつじゃん」
さらに一声。
「『昨日みたいに転ぶから』」
「まだ言われるんだ」
「今日は転ばない」
レグが残りを急いで口へ入れようとしたので、セラが止める。
「ゆっくり食べて。喉に詰まるよ」
「ん」
「返事するときは飲み込んでから」
レグはちゃんと飲み込んだ。
「うん」
出発の準備を整えると、赤褐色の竜が先に飛び立った。
高くは上がらない。
人間の歩く速さに合わせるように、少し先まで飛んでは岩へ降り、こちらが近づけばまた飛ぶ。
「案内してくれてるね」
セラが言う。
「昨日は布持ってったのにな」
「それとこれとは別なんじゃない?」
「自由だな、竜」
カイルが前を見ながら答える。
「誰かさんたちと相性いいかもな」
「誰かさんって?」
「自覚ないならいい」
山道は昨日より険しかった。
ただ、迷う心配はない。
赤褐色の竜だけではなく、道そのものに竜の痕跡が増えている。
岩肌には爪。
広い場所には巨大な身体を休めたような窪み。
時折、崖の上からこちらを見下ろす竜もいた。
逃げるわけでもない。
近づいてくるわけでもない。
ただ見ている。
「昨日より視線増えてない?」
ハヤトが小声で言う。
「増えてる」
レグは普通に答えた。
「何で分かるの?」
「いるから」
「そうじゃなくて」
セラが笑う。
「多分、話が広まったんじゃない?」
「ガルドの娘が来たって?」
「それと、人間を連れてるって」
カイルが続ける。
ハヤトは周囲を見回した。
「見世物になってない?」
「少し」
「レグ、それ本人が言う?」
「人気」
「昨日覚えた言葉気に入ったな」
昼前。
道は急に細くなった。
左右を高い岩壁に挟まれ、一頭の大きな竜では通れそうにない幅になる。
「ここを竜が通るの?」
セラが上を見る。
「人の姿になるんじゃないか?」
カイルが答えた。
ちょうどそのとき。
前を飛んでいた赤褐色の竜が岩壁の入口へ降りる。
淡い光。
大きな身体が縮んでいく。
「お」
そこに立っていたのは、赤茶色の髪を肩の辺りで切った女性だった。
見た目は二十歳を少し過ぎたくらい。
肌は日に焼けたような色で、瞳は竜の姿と同じ金色に近い赤。
「女だったんだ」
ハヤトが言う。
女性が振り返った。
「何だと思ってた?」
人の言葉。
「いや、分かんなかったから」
「レグは知ってた」
「知ってたの!?」
「うん」
「教えてよ」
「聞かなかった」
「そうだけどさ」
女性は不思議そうにハヤトを見てから、レグへ向き直った。
「ここからは歩く」
「なんで?」
「飛べない」
岩壁を指す。
「風が強い。上を越えると遠回り」
「じゃあ一緒」
レグが嬉しそうに女性の横へ並ぶ。
ハヤトは少し迷ってから尋ねた。
「名前って、こっちから聞かない方がいいんだよな?」
「そう」
「じゃあ呼び方どうする?」
女性は少し考える。
「必要なら私から言う」
「今は必要じゃない?」
「別に」
「そういう感じなんだ……」
カイルが横で笑った。
「文化の違いだ。慣れろ」
「お前も昨日名前聞いて怒られかけたじゃん」
「黙れ」
細い岩道を抜けていく。
途中から、空気が変わった。
風が冷たいわけではない。
匂い。
土。
草。
それに、今まで何度も嗅いできたという竜の匂いが、レグには一気に濃くなったらしい。
「いっぱい」
小さく呟く。
「近い?」
「すごく」
クロも落ち着かない。
怯えてはいないが、耳が休むことなく動いている。
やがて前を歩いていた女性が止まった。
「ここ」
岩壁の間。
その向こうから光が差している。
「谷?」
レグが聞く。
「そう」
一歩。
先へ出た。
ハヤトは、思わず言葉を失った。
「……広っ」
山の中に隠されていた巨大な盆地。
向こう側の岩壁が霞んで見えるほど広い。
中央を一本の川が流れ、その周囲には森と草原。
崖のいたるところに巨大な洞窟が開いている。
空には竜。
一頭や二頭ではない。
遥か高くを飛ぶ巨大なもの。
川辺に降りているもの。
岩の上で翼を広げているもの。
さらに。
「あれ……家?」
セラが指す。
谷の一角。
石で作られた建物が集まっていた。
普通の人間が使えそうな大きさの家もあれば、入口だけで家一軒ほどある建物もある。
石段。
橋。
畑のような場所まで見えた。
「もっと洞窟だけだと思ってた」
ハヤトが呟く。
「俺もだ」
カイルも珍しく素直に驚いている。
「人の姿で暮らす竜もいるってことか」
「ずっと人の姿の者もいる」
案内の女性が答える。
「竜の姿の方が楽な者もいる」
「自由なんだな」
「何が?」
「いや、好きな姿でいるんだなって」
「好きというより、必要な方」
谷を見下ろす道を降り始める。
その途中。
「……人いる」
ハヤトが気づいた。
入口近くの広場。
何人もの人影が集まっている。
十人。
二十人。
もっと。
「昨日言ってたやつ?」
レグが案内役へ聞く。
「増えた」
「増えた?」
「暇なやつが」
女性の声が少し呆れている。
近づくほど、全員が人間ではないことが分かってきた。
瞳。
腕や首筋に残る鱗。
角を隠していない者。
背中から小さく翼を出したままの者までいる。
「めっちゃ見てる……」
ハヤトは居心地が悪い。
「何もしなければ大丈夫」
「何もしないよ」
「多分」
「多分つけないで」
広場まであと少し。
そのとき。
「どけ!」
大きな声が飛んだ。
集まっていた竜たちが一斉に振り返る。
「何してんの!」
今度は女性の声。
人垣の奥から、一人の女が出てきた。
見た目は四十歳前後。
濃い紫がかった黒髪を長く結び、背が高い。額の左右には短い角が残り、黄褐色の目が明らかに怒っている。
「朝から入口に集まって、珍しいものでも見に来たつもり!?」
竜たちが少しずつ散り始める。
「でも、ガルドの――」
「だから何! 本人が来て最初に見るのが、お前たちの顔でいいと思ってんの!?」
「……」
「仕事あるやつは行く! ないやつもどっか行く!」
強い。
ものすごく強い。
数十人いた竜たちが、本当に散っていく。
「怒ってる人って」
ハヤトが小声で言う。
「たぶん、あの人」
レグも小声だった。
「俺らにじゃなさそうだな」
「うん」
少し安心した。
最後の数人まで追い払った女性が、こちらを向く。
その目がレグで止まった。
「……」
さっきまでの勢いが消えた。
レグも黙っている。
一歩。
女性が近づく。
ハヤトは何も言わず、少しだけレグの様子を見る。
逃げる気配はない。
女性はレグの前まで来ると、顔をじっと見た。
目。
髪。
頬。
まるで確かめるように。
「レグ?」
「うん」
女性が目を閉じた。
長く息を吐く。
「……大きくなったね」
レグの目が少し開く。
「レグ、知ってる?」
「覚えてないだろうね」
「会ったことある?」
「あるよ」
「ちっちゃいとき?」
「ものすごく小さいとき」
レグは女性の匂いを確かめる。
「……知ってる気がする」
「それだけで十分」
女性の表情が少しだけ柔らかくなった。
だが、すぐ横にいるハヤトたちへ目が移る。
「で」
「はい」
なぜかハヤトの背筋が伸びた。
「この人間たちは?」
口を開きかける。
止める。
谷でレグについて聞かれたとき、代わりに答えない。
レグが答えた。
「ハヤト」
「名前じゃなくて」
「セラ」
「そうじゃなくて」
「カイル」
「順番に紹介してるだけじゃない!」
「クロも」
「それは見れば分かる!」
ハヤトは吹き出しそうになり、必死で堪えた。
女性がこちらを睨む。
「今笑った?」
「笑ってません」
「嘘」
「ちょっとだけです」
「正直でよろしい」
レグがようやく答え直す。
「仲間」
女性の顔から、冗談めいたものが消えた。
「この人間たちが?」
「うん」
「自分で決めた?」
「うん」
「誰かに言われたんじゃなく?」
「レグが決めた」
「そう」
女性はそれ以上聞かなかった。
「ならいい」
ハヤトたちへ向き直る。
「この子が連れてきたなら入っていい」
「ありがとうございます」
セラが頭を下げる。
「あなたは?」
「セラです」
「さっき聞いた」
「あ、そうでした」
「丁寧すぎるね。別に普通でいいよ」
セラが少しだけ困った。
「……分かった」
「そっちの方がいい」
女性は次にカイルを見る。
「遺跡屋?」
「分かるのか?」
「臭い」
「臭い?」
「古い石と埃の匂いがする」
「そんな匂いするのか、俺」
「する」
ハヤトが少し離れた。
「おい」
「念のため」
「お前も似たようなもんだろ」
「俺は最近風呂――」
セラがこちらを見る。
「……何でもない」
最後にクロ。
女性の視線が首元で止まった。
古い印。
目が細くなる。
「その子は、あとで少し見せて」
ハヤトたちの空気が変わる。
「この印を知ってるんですか?」
セラが尋ねる。
「少し」
「どこで?」
「今はレグが先」
はっきり区切られた。
「ここまで来るのに話したいこと増やしすぎ」
「俺たちのせい?」
ハヤトが言う。
「半分くらい」
「半分は誰の?」
「昔の連中」
女性が大きくため息をつく。
「あいつら、何でも後に残しすぎなのよ」
レグが首を傾げる。
「おかあさん?」
「それも」
「おとうさん?」
女性の眉がぴくっと動いた。
「特にそっち」
「怒ってる?」
「怒ってる」
「なんで?」
「会ったら本人に言う」
「会える?」
空気が変わった。
女性の表情が止まる。
レグも、その変化に気づいた。
「……いる?」
問いは短かった。
女性はすぐには答えない。
「今、この谷にいるかって意味なら」
一度言葉を選ぶ。
「いない」
レグの視線が少し下がった。
ハヤトは隣へ動きかけて、止めた。
レグはまだ聞いている。
「おかあさんも?」
「いない」
「どこ?」
「知らない」
女性は誤魔化さなかった。
「ガルドが最後にここへ来たのは、十数年前。ミレアはそのとき一緒じゃなかった」
深緑の竜から聞いた話と一致する。
「そのあと?」
「ガルドも出ていった」
「どこに?」
「それを知るために、お前を待ってた」
レグが顔を上げた。
「レグを?」
「正確には、お前に渡すものを預かってる」
「おとうさんから?」
「そう」
女性が自分の胸を指した。
「でも、その前に」
「なに?」
「名前」
ハヤトの身体が僅かに強張った。
レグも同じだった。
「レグ」
「もう一つは?」
「言わない」
即答。
女性が頷く。
「よし」
「知ってるの?」
「知ってる」
初めてだった。
セイン以外で、はっきりそう答えたのは。
「聞きたい?」
女性が逆に尋ねる。
レグは考えた。
「……今は、聞かない」
「それでいい」
「なんで?」
「それを説明するためにも、預かったものが必要だから」
女性が踵を返す。
「ついてきて」
「その前に」
ハヤトが呼び止めた。
「何?」
「俺たち、名前聞いちゃ駄目なんだよな?」
「そうね」
「ずっと『あの人』で呼ぶの?」
女性が一瞬止まり、額へ手を当てた。
「そうだった」
「忘れてたんですか」
「久しぶりなのよ、人間を案内するの」
振り返る。
「私はネイラ」
自分から名乗った。
「これなら問題ない」
「ネイラ」
レグが繰り返す。
「うん」
「レグ、知ってた?」
「昔はね」
「どんな人?」
ネイラは少し考える。
「お前が泣くと、大体私のところへ押しつけに来た馬鹿二人の知り合い」
「馬鹿二人?」
「ガルドとミレア」
「おかあさんも馬鹿?」
「子育てに関しては二人とも初心者だったから」
レグが少し笑った。
「ネイラは?」
「何人も見てきた」
「すごい」
「だから私のところへ来たの」
その答えが妙に普通で。
ハヤトは少し安心した。
伝説の竜。
古代の役目。
封じた名前。
それだけではない。
レグにも、泣けば誰かに預けられていた頃があった。
「こっち」
ネイラが谷の中へ歩き出す。
案内してくれた赤褐色の女性もついてこようとした。
「あなたは帰りなさい」
「なんで?」
「昨日この子の布取ったでしょ」
「……誰から聞いたの?」
「もう谷中知ってる」
「え」
女性の顔が固まった。
レグが嬉しそうに言う。
「着地も笑った」
「それも?」
「うん」
「……」
ネイラの目が細くなる。
「あとで話しましょうか」
「今日は用事ある!」
赤褐色の女性が光に包まれた。
次の瞬間には竜へ戻り、ものすごい勢いで飛び去っていく。
「逃げた」
レグが呟く。
「逃げたね」
セラも笑っている。
「友達、怒られる?」
「多分な」
「あとで助ける」
「そこは本人に任せよう」
谷の中を進む。
近くで見ると、ここは思っていた以上に生活の場所だった。
人の姿で野菜を運んでいる竜。
岩の上で眠る巨大な竜。
小さな竜が二頭、川辺を追いかけ合っている。
その横を、人の姿をした竜が怒鳴りながら追いかけていた。
「走るな! 水に落ちるよ!」
直後。
一頭が落ちた。
大きな水音。
「……どこも同じだな」
ハヤトが呟く。
「何が?」
セラが聞く。
「子供追いかける大人」
「確かに」
レグは川の方を見ている。
「レグも落ちた?」
「何度も」
ネイラが即答した。
「ほんと?」
「ガルドが目を離すから」
「おとうさん、怒られた?」
「ミレアと私の両方に」
レグが嬉しそうに笑う。
「また怒られてる」
「何でそこ嬉しいの?」
「おとうさんっぽい」
少しずつ。
知らなかった父親が、レグの中で誰かになっていく。
谷の奥まった場所。
ネイラが一軒の石造りの家の前で止まった。
人の姿に合わせた大きさだ。
「ここ、ネイラの家?」
「今はね」
「昔は?」
「それはあと」
扉を開ける。
中は意外なほど普通だった。
机。
椅子。
棚。
乾燥させた草。
食器。
ただ、壁の一部には巨大な爪で書いたような文字が刻まれている。
「座って」
レグは椅子へ座る。
ハヤトたちもその周囲へ。
クロだけはレグの足元。
ネイラは部屋の奥へ入った。
しばらくして戻ってくる。
両手に抱えていたのは、小さな箱だった。
黒に近い木。
古い。
金具も錆びている。
ただ一か所だけ。
蓋の中央に刻まれた印が、はっきり残っていた。
二本の線が途中で重なり、その先で分かれる。
「これ……」
ハヤトは覚えている。
ミレアの鱗の裏に刻まれていた印。
レグが、父親のものだと感じた印。
「おとうさん」
レグも気づいた。
ネイラが箱を卓へ置く。
「十数年前」
声から、さっきまでの軽さが消える。
「傷だらけで谷へ戻ってきたガルドが、これを私に預けた」
「なんて?」
「二つ」
ネイラはレグを見る。
「一つ目は――自分でここまで来た娘に渡してくれ」
修道院で聞いた、ミレアの言葉に似ている。
「二つ目は?」
ネイラの手が、箱の蓋に置かれた。
「もしその娘が《レグ》ではない名を名乗ったら」
そこで一度、言葉が止まった。
「この箱は渡すな」
部屋の中が静かになる。
レグが胸元へ手を当てた。
そこにはもう石はない。
けれど、母から受け継いだ印は今も自分の中にある。
「なんで?」
「私も聞いた」
「おとうさん、なんて?」
ネイラの目が細くなる。
「『それは俺たちの娘じゃないかもしれない』」
ハヤトの背中に、冷たいものが走った。
レグも動かなかった。
「……レグじゃ、ない?」
ネイラは箱から手を離す。
「だから今まで開けなかった」
そして。
「ここから先は、ガルドが何を残したのか――私も知らない」




