風が降りる場所
朝食を終えた一行は、深緑の竜が示した道を東へ進んだ。
竜の谷までは、人の足であと二日。
そう聞いてからなのか、それとも本当に近づいているからなのか、山の景色まで少し違って見える。
道はある。
ただし、人が作った道には見えなかった。
大きな岩を避けて曲がり、木々の間を縫いながら、それでも途切れることなく先へ続いている。地面には人の靴跡より、巨大な爪跡の方が多かった。
「竜って歩くんだな」
ハヤトが足元を見る。
「ずっと飛んでると思ってた」
「疲れる」
レグが答えた。
「飛ぶの?」
「うん」
「レグも?」
「ずっとはいや」
「へえ」
「おなかすく」
「結局そこなんだ」
セラが笑う。
レグは少し考えてから付け加えた。
「あと、つかれる」
「順番逆じゃない?」
「どっちも大事」
クロはレグの隣を黙々と歩いている。
昨日までは、空を竜が横切るたびに立ち止まっていた。今は顔を上げる程度だ。
「クロも慣れてきた?」
セラが聞く。
レグが尻尾を見る。
「ちょっと」
「分かる?」
「昨日より、しっぽ普通」
「それ便利だな」
ハヤトも見てみる。
確かに下がりきってはいない。
だが人間の自分には、それ以上の違いはよく分からなかった。
昼近くになると、森が途切れ始めた。
代わりに灰色の岩肌が増え、遠くの山々までよく見えるようになる。
「三つ並んだ山って、あれじゃない?」
セラが指した。
正面。
ほぼ同じ高さの山が三つ、重ならずに並んでいる。
「多分な」
カイルが地図を見る。
「方向も合ってる」
「じゃあ水ある?」
レグが聞く。
「深緑の竜の話なら、夕方には着く」
「名前ないと呼びづらいな」
ハヤトが言う。
「古い喧嘩相手でいいって本人言ってた」
「長いだろ」
「じゃあ喧嘩相手」
「誰の?」
「ガルドの」
「結局長い」
カイルが呆れる。
「谷で教えてくれるらしいし、それまで我慢しろ」
「そうだな」
名前を無理に聞かない。
竜の側には竜の決まりがある。
少しずつ、それにも慣れ始めていた。
昼食は歩きながら簡単に済ませる。
レグは干し芋を一枚だけ食べ、残りを袋へ戻した。
「まだ残すんだ」
ハヤトが言う。
「夜」
「本当に計画的になったな」
「谷まである?」
「食料はちゃんとあるよ」
セラが答える。
「干し芋なくなっても大丈夫」
「でも干し芋はなくなる」
「そこは別なんだ」
「うん」
午後。
空を飛ぶ竜の数が、さらに増えた。
遠くを横切るだけのもの。
高い岩山へ降りるもの。
二頭並んで飛ぶもの。
中には明らかにこちらを見に来て、上空を一周して去っていくものもいる。
「見られてるね」
セラが空を見る。
「人間が珍しいんだろうな」
「カイル、人気」
レグが言う。
「何で俺だけだ」
「ハヤトはいっぱい見られてるから」
「それ俺も嫌だな」
「セラも」
「じゃあ全員じゃん」
レグが頷いた。
「人気」
「そういうことにしとくか」
敵意はない。
それだけで十分だった。
やがて、三つの山がかなり近くなる。
道が一度大きく下り始めた。
「水の音する」
レグが先に気づいた。
クロも耳を立てる。
ハヤトたちにも少し遅れて聞こえてきた。
「川?」
「もっと広そう」
セラの予想は当たっていた。
坂を下りきった先。
岩に囲まれた浅い盆地の中央に、大きな泉があった。
「おお……」
ハヤトは足を止める。
透き通った水。
底の石まで見える。
山肌から流れ落ちる細い滝が二本あり、その水が泉へ注いでいた。
周囲には柔らかな草が生え、野営するには十分な平地もある。
「ここだな」
カイルが地図を畳む。
「今日はここ?」
「そのつもり」
「水いっぱい」
レグがすぐ泉へ近づこうとする。
「待って」
セラが止めた。
「先に飲めるか確認しよう」
「きれいだよ?」
「きれいでも駄目なことあるから」
「そっか」
今度は素直に待つ。
ハヤトは少し離れた場所を見回した。
「誰もいない?」
「今はな」
カイルが地面を見る。
「ただ、使われてる」
泉の周囲には大きな足跡がいくつも残っている。
竜だ。
「水飲みに来る場所?」
「多分」
セラが水を確認する間に、野営する場所を選ぶ。
泉からは少し距離を取った。
竜たちの水場なら、真横に寝床を作るのはさすがに邪魔だろう。
「この辺なら?」
ハヤトが平らな場所を指す。
「いいと思う」
荷物を下ろす。
クロはすぐ周囲の匂いを確かめ始めた。
レグは泉が気になって仕方ないらしい。
「入る?」
「え?」
「水」
「泳ぐってこと?」
「うん」
「冷たそうだけど」
レグが手を入れてみる。
「つめたい」
「だろ」
「やめる」
「早いな」
セラが水の確認を終えて戻ってきた。
「大丈夫そう。でも飲む分は一応沸かそう」
「はーい」
準備が始まる。
今日は時間に余裕がある。
昨日までのように、何かに追われる必要もない。
ハヤトが火を起こしていると、横でレグが弓を出した。
「練習する?」
「うん」
「ここで?」
「あっち」
泉から離れた岩壁を指す。
「人……じゃなくて竜来るかもしれないから気をつけろよ」
「見る」
「矢の先もな」
「うん」
レグは少し離れた場所へ向かった。
クロも当然のようについていく。
セラがその背中を見る。
「本当に一人で色々するようになったね」
「な」
ハヤトも同じことを思う。
以前なら、レグが動くたびについていこうとしていた。
今は視界に入っていれば、それほど心配しなくなった。
「寂しい?」
セラが突然聞く。
「何が?」
「レグがしっかりしてきて」
「……ちょっとだけ?」
「やっぱり」
「でも楽だよ」
「そっちも本音でしょ」
「かなり」
セラが笑う。
「親みたい」
「やめて。俺まだ二十九」
「年齢の問題?」
「違うの?」
「違うと思う」
そこで二人とも少し黙った。
レグの両親を探している最中にする話ではない気がした。
セラが火の方を見る。
「谷に着いたら、どうなるんだろうね」
「何が?」
「レグ」
ハヤトの手が止まる。
「ガルドさんかミレアさんがいたら」
「うん」
「そのまま一緒にいたいって言うかもしれない」
考えていなかったわけではない。
ただ、あえて言葉にしてこなかった。
「……そうだな」
「嫌?」
すぐには答えられなかった。
レグ自身が選ぶ。
それが大事だと、何度も言ってきた。
だったら。
「嫌って言ったら駄目だろ」
「それとこれとは別じゃない?」
「え?」
「寂しいのは寂しいでいいと思う」
セラは火の向こうにいるレグを見る。
一射。
矢が岩壁近くの土へ刺さった。
レグが位置を確認して、次の矢をつがえる。
「選ぶのはレグ。でも、私たちが何も思わなくなる必要はないでしょ」
「……そっか」
「私は寂しいよ」
セラは普通に言った。
「多分、かなり」
「俺も」
「でも、それで引き止めるかは別」
「ああ」
言葉にすると少しだけ整理できた。
自由に選べ。
それは、何でも笑って送り出せるという意味ではない。
寂しいなら寂しい。
それでも、選択は奪わない。
「ハヤト」
セラがこちらを見る。
「何?」
「逆にレグが『一緒に来て』って言ったら?」
「谷に住むってこと?」
「例えばね」
「……仕事どうしよう」
「そっち?」
「いやだって生活あるじゃん」
「異世界に飛ばされてきた人が急に現実的」
「大事だろ」
セラが笑う。
「私は治癒術の勉強続けたいかな」
「じゃあ住めないじゃん」
「そういうことになるね」
「難しいな」
「だから、そのとき考えればいいよ」
以前なら答えを決めようとしていたかもしれない。
今はそれでいい気がした。
そのとき。
「ハヤト!」
レグの声。
「何!?」
慌てて振り返る。
レグがこちらへ手を振っている。
「入った!」
「何が?」
「矢!」
岩壁の手前。
狙いにしたらしい細い木の印へ、矢が刺さっている。
「おお!」
「見た?」
「今見た!」
「さっきも見て!」
「ごめん!」
レグは満足そうだった。
「全然見てなかったじゃん」
セラが笑う。
「大事な話してたから」
「本人に言える?」
「言わない」
「だよね」
夕方。
夕食を作り始めた頃、泉の反対側に影が落ちた。
クロが顔を上げる。
「来た?」
レグも振り返る。
一頭の竜が降りてきた。
見覚えのある赤褐色。
「昨日の!」
レグが立ち上がる。
相手も短く鳴いた。
「約束守ったんだ」
「うん!」
「飛ぶ?」
「ごはんのあと」
「珍しい」
「今日はおなかすいた」
「いつもじゃん」
赤褐色の竜は水を飲みに来ただけなのか、泉へ首を下ろす。
しばらくして、もう一頭。
さらに一頭。
色も大きさも違う竜たちが、次々と泉へ降りてきた。
ただし昨日のように人間へちょっかいを出す様子はない。
水を飲み、休み、また飛び去っていく。
「ここ、本当に水場なんだな」
ハヤトが鍋を混ぜながら言う。
「俺たち、かなり目立ってるけど」
何頭かはこちらを見ている。
それでも近づいてはこない。
「赤いのがいるから?」
セラが聞く。
「分かんない」
レグが答える。
「聞けば?」
「ごはんのあと」
「本当に食事優先なんだ」
夕食を終えると、レグは約束通り竜の姿になった。
赤褐色の竜も翼を広げる。
「着地だけ練習だぞ!」
ハヤトが声を上げる。
『わかってる!』
「遠く行くなよ!」
『わかってる!』
「夕方だから暗くなる前に――」
「ハヤト」
セラが止める。
「言いすぎ」
「……はい」
レグが空へ飛ぶ。
赤褐色の竜も続く。
今度は高く上がらない。
泉の周囲を大きく回り、一度岩場へ降りる。
レグ。
着地。
一歩。
二歩。
止まった。
『できた!』
「おお!」
ハヤトが手を叩く。
「今のきれい!」
セラも声を上げる。
赤褐色の竜が鳴く。
『「まあまあ」って』
「厳しいな!」
『もういっかい!』
また飛ぶ。
二回目。
少し勢いが強い。
だが転ばない。
三回目。
かなり滑らか。
「ちゃんと上手くなってる」
カイルが感心したように言った。
「一日で?」
「力があるからな。あとは加減を覚えれば早いんだろ」
「《自由》じゃなくて本人の練習で、な」
ハヤトが言う。
「ああ」
そこは大事だった。
何でもできる力だから、できたわけではない。
何度か失敗して、直した。
レグ自身が。
四回目の着地。
ほとんど音も立てずに降りる。
『できた!』
赤褐色の竜が今度は何も言わなかった。
『なに?』
短い返事。
レグが嬉しそうになる。
「何て?」
『「悪くない」』
「進歩したな」
『勝った?』
返事。
レグの顔が少し曇る。
『「まだ」』
「そりゃそうだろ」
『明日また』
「まだやるの?」
『うん』
赤褐色の竜も満更ではないらしい。
日が完全に沈む前に、ほかの竜たちは少しずつ泉を離れた。
最後まで残った赤褐色の竜も、空へ戻る。
飛び立つ直前。
一度だけレグへ何かを告げた。
『……え?』
「どうした?」
竜はもう飛び上がっていた。
レグは人の姿へ戻りながら、その背中を見る。
「何て?」
ハヤトが聞く。
「明日」
「うん」
「谷まで、一緒に行くって」
「案内してくれる?」
「たぶん」
「よかったじゃん」
だがレグは少し変な顔をしていた。
「まだ何か言った?」
「『入口、人いっぱい』」
「人?」
セラが反応する。
「人間?」
「わかんない」
「竜の人化かもな」
カイルが言う。
レグは続きを思い出す。
「あと」
「何?」
「『待ってるひと、怒ってる』」
「……誰が?」
「知らない」
「何に怒ってる?」
「それも知らない」
レグは困ったように首を傾げた。
深緑の竜は、谷の入口でレグを待つ者がいると言った。
そして、その相手は。
どうやらあまり機嫌がよくないらしい。
「俺ら何かした?」
ハヤトが尋ねる。
「まだ谷にも着いてないよ」
セラが答える。
「じゃあレグ?」
「レグ、何もしてない」
「だよな」
カイルは火へ薪を足しながら、ため息をついた。
「行けば分かる」
「最近それ多いな」
「分からないものを今考えても仕方ない」
「珍しく前向き」
「現実的と言え」
夜。
三つの山の下にある泉は静かだった。
時々遠くで羽音がする。
それでも昨日とは違い、誰も構えなかった。
眠る前。
レグは泉の向こうに見える山を眺めていた。
「明日?」
ハヤトが隣へ立つ。
「うん」
「いよいよ谷だな」
「うん」
「緊張する?」
「ちょっと」
「俺も」
レグがハヤトを見る。
「怒ってる人いるから?」
「それもある」
「ハヤトが怒られる?」
「何で俺?」
「よく怒られるから」
「誰に?」
「セラ」
「……否定できない」
レグが笑う。
「でも」
「ん?」
「明日、おとうさんいるかも」
「ああ」
「おかあさんも」
「うん」
嬉しい。
怖い。
たぶん、どちらもある。
レグはしばらく黙っていたあと、ハヤトの袖を軽く掴んだ。
「明日も、いっしょ」
「ああ」
「途中までじゃない?」
「レグが来るなって言うまでは」
「言わない」
「なら一緒」
袖から手が離れる。
「じゃあ寝る」
「おやすみ」
「おやすみ」
翌朝には、谷へ向かう最後の一日が始まる。
その先で誰が待っているのか。
今はまだ、誰も知らなかった。




