古い風の記憶
『……ガルドのにおいがする』
深緑の竜が発した声を、レグはそう訳した。
朝の岩場にいた若い竜たちも、いつの間にか騒ぐのをやめている。
空を旋回しながらも、巨大な竜から一定の距離を取っていた。
「ガルドって」
ハヤトが確認する。
「レグのお父さん?」
『たぶん』
レグは竜の姿のまま、深緑の竜を見上げている。
さっきまで赤褐色の竜と飛ぶ気満々だったのに、今は翼を畳んでいた。
『レグ、おとうさんのにおいする?』
「俺に聞いても分からないよ」
『そっか』
深緑の竜がもう一度声を出す。
低い音が岩場に反響した。
レグが耳を澄ませる。
『「どこで会った」って』
「レグは会ってないよな?」
『うん』
レグが相手へ向けて竜の言葉を返す。
短い。
何かを説明しているらしい。
途中で深緑の竜が動きを止めた。
そして。
大きな頭が、ゆっくりハヤトたちへ向く。
「……こっち見た」
セラが小声で言う。
「見てるな」
ハヤトも同じくらいの声で返す。
「ガルドとミレアの話したのか?」
『うん』
「セインのことも?」
『いった』
深緑の竜が翼を広げる。
「来る?」
カイルの手が短剣へ近づいた。
「抜くなよ」
「分かってる」
巨大な身体がゆっくり高度を下げる。
若い竜たちが一斉に進路を空けた。
「うわ……」
影が大きくなる。
セインより大きいかもしれない。
深緑の竜は岩場の中央ではなく、少し離れた広い場所へ降りた。
翼が巻き起こした風で、朝食用に出していた布がばたばたと暴れる。
「押さえて!」
「こっち持つ!」
ハヤトとセラが慌てて荷物を押さえる。
カイルは自分の地図を必死に掴んでいた。
「これ飛んだら終わるぞ!」
「そっち最優先!?」
「ここまで来た地図だぞ!」
竜が着地する。
地面がわずかに揺れた。
それだけで、若い竜たちとの格の違いが分かる。
クロはレグの横へ寄った。
唸ってはいない。
ただ耳を立て、巨大な相手から目を離さない。
深緑の竜がレグを見る。
近くで見ると、鱗には無数の傷があった。
角の一本には深い欠け。
左の翼にも長い裂け跡が残っている。
『名は』
レグが少しだけ身構える。
昨日も聞かれた問いだ。
『レグ』
『もう一つ』
『言わない』
即答だった。
深緑の竜はしばらく黙っている。
ハヤトは口を挟まない。
セラも。
カイルも。
やがて竜の喉から低い音が漏れた。
笑っているようにも聞こえた。
『それでいい』
レグの翼が少し緩む。
『きのうも言われた』
『あれは私の孫だ』
レグが固まった。
「何?」
ハヤトが聞く。
『昨日の青い竜、まご』
「この竜の?」
『うん』
「……家族だったのか」
空では青い竜の姿が見えない。
代わりに昨日遊んでいた赤褐色の竜が、少し遠くの岩へ降りた。
その様子を見る限り、この巨大な竜がいる間は好き勝手しないらしい。
「厳しい爺ちゃん的な?」
「勝手に関係決めないの」
セラに言われる。
深緑の竜が今度はレグの周囲を嗅ぐように鼻先を動かした。
『ガルド』
また父親の名。
レグが何か答える。
長めのやり取り。
「分かる?」
セラが聞く。
『ちょっと待って』
レグは集中している。
深緑の竜の言葉は、若い竜より難しいのかもしれない。
しばらくして、レグがこちらを向いた。
『このひと、おとうさん知ってる』
「やっぱり?」
『うん』
「どんな関係?」
レグが再び尋ねる。
深緑の竜が喉を鳴らした。
今度は短かった。
『……けんかした』
「喧嘩?」
『いっぱい』
「いっぱい!?」
思っていた方向と違った。
レグも目を丸くしている。
『おとうさん、強かった?』
また会話。
深緑の竜が一度だけ大きく鼻を鳴らした。
『「口がうるさい」って』
「セインと同じ評価じゃん」
ハヤトが笑う。
セラも口元を緩めた。
「どこ行っても同じなんだね」
『でも強いって』
「そっちはちゃんと認めてるんだ」
レグは少し嬉しそうだ。
『おとうさん、勝った?』
深緑の竜の目が細くなる。
返事。
レグが首を傾げた。
『「勝ち負けに意味はない」』
「負けた人が言うやつじゃない?」
ハヤトが小声で言う。
巨大な金色の目がこちらを向いた。
「……聞こえてないよな?」
『人の言葉、わかるって』
「先に言ってよ!」
竜の喉から、また低い笑い声。
セラが顔を背けて笑っている。
カイルまで肩を震わせていた。
「お前らな……」
「自分で言ったんだろ」
「分かってるけど」
深緑の竜が再びレグへ視線を戻す。
今度の声には、さっきまでと少し違う響きがあった。
レグの表情も変わる。
『……なに?』
「どうした?」
『おとうさん、最後に会ったときの話』
ハヤトたちも自然と静かになる。
「いつ?」
『聞く』
レグが問い返す。
深緑の竜は空ではなく、東の山を見た。
長い声。
途中でレグの眉が寄る。
『全部わかんない』
「分かるところだけでいい」
『……おとうさん、谷から出ていった』
「東へ?」
『ちがう』
「じゃあ?」
レグがまた聞く。
『西』
ハヤトは思わずカイルを見る。
「西?」
「俺たちが来た方だな」
『でも、そのあと戻った』
「谷に?」
『うん』
「いつ頃?」
レグが難しい顔になる。
『この人、時間へた』
「竜あるあるか」
セインも三十年前を最近のように話していた。
深緑の竜が何か言う。
『「人の年なら……十と少し」』
「十数年前?」
『たぶん』
今度は時期がかなり絞られた。
レグが幼かった頃とも矛盾しない。
「戻ってきたとき、ミレアも?」
ハヤトが聞く。
レグが尋ねる。
深緑の竜の返事は短い。
『いなかった』
レグの表情から笑みが消えた。
「お父さん一人?」
『うん』
「じゃあミレアは、その前に別れた?」
『わかんない』
深緑の竜も知らないらしい。
『おとうさん、怪我してた』
「怪我?」
『いっぱい』
レグの声が少し小さくなる。
「どのくらい?」
聞いてから、答えづらい質問だと気づく。
深緑の竜が翼を少し開いた。
自分の脇腹辺りを鼻先で示す。
大きな傷があった、ということだろう。
『飛ぶの、へただったって』
「飛べないくらい?」
『ちょっと飛べる』
「その状態で戻ってきたのか」
カイルが低く言う。
深緑の竜の声が続く。
レグは黙って聞いていた。
『谷に、何か置いた』
「ガルドが?」
『うん』
「何を?」
レグが聞き返す。
深緑の竜が答える。
だが。
『わかんない言葉』
「レグにも?」
『うん』
「どんな音?」
レグは真似しようとして、口を閉じた。
もう一つの名前のことを思い出したのだろう。
「名前っぽい?」
『ちがうと思う』
「なら言っても大丈夫かもしれないけど、無理しなくていい」
『うん』
カイルが深緑の竜を見る。
「人の言葉が分かるなら、俺が聞いてもいいか?」
竜の目が向く。
「ガルドが置いたものは、今も谷にあるのか」
しばらく。
返事は人の言葉ではなかった。
レグが訳す。
『あるかもしれない』
「誰が管理してる?」
『「守る者」』
「名前は?」
竜の目が鋭くなる。
カイルがすぐ手を上げた。
「悪い。聞き方間違えた」
レグが小さく笑う。
『名前、聞いちゃだめ』
「分かってたのに癖で聞いた」
「カイルもまだまだだな」
ハヤトが言う。
「お前は黙ってろ」
深緑の竜は気にしていないようだった。
『谷へ行けば分かる』
「入れてもらえれば、だろ?」
ハヤトが聞く。
竜はハヤトを見た。
今度は人間の言葉で。
「入れる」
一瞬。
全員が固まった。
「……喋れるじゃん」
「先ほどから分かると言った」
低い。
かなり渋い声だった。
「だったら最初からそっちで」
「レグが竜の言葉を忘れていないか確かめていた」
「試してたの?」
「そうだ」
レグが人の姿へ戻った。
「レグ、ちゃんとできた?」
「半分ほど」
「半分?」
「古い言い回しを忘れている」
「むずかしかった」
「当然だ」
深緑の竜がレグを見下ろす。
「幼い頃から人の言葉を多く使っていたならな」
「知ってるの?」
「ガルドから聞いた」
「いつ?」
「お前が生まれて間もない頃だ」
レグが一歩近づく。
「レグのこと?」
「ああ」
「何て?」
深緑の竜は少し黙った。
その沈黙は、今までとは違って見えた。
「『娘が生まれた』」
「それだけ?」
「三日続けて言われた」
ハヤトは耐えられず笑った。
「めちゃくちゃ嬉しかったんじゃん」
レグの顔が一気に明るくなる。
「三日?」
「ああ」
「いっぱい?」
「会う竜すべてに言っていた」
「おとうさん、レグ好き?」
「少なくとも、かなり自慢していた」
レグは何も言わず、にやっと笑った。
セラも隣で微笑んでいる。
「よかったね」
「うん」
深緑の竜はその表情を見ていた。
「似ているな」
「だれに?」
「ガルドに」
「また言われた!」
今度は嬉しそうだった。
セインにも言われた。
少しずつ、父親の輪郭が濃くなっていく。
「おかあさんには?」
「似ていないとは言っていない」
「どこ?」
「目」
レグが自分の目元へ触れる。
「ミレア?」
「ああ」
「ほんと?」
「昔と同じだ」
今度はレグがしばらく何も言わなかった。
父親に似ている。
母親にも似ている。
たったそれだけの話なのに、レグにとっては大きいのだろう。
深緑の竜が身体を起こす。
「朝食は終わったか」
「まだ!」
レグが即答した。
「お前は変わっていないらしい」
「知ってるの?」
「ガルドが言っていた」
「なんて?」
「よく食う」
ハヤトとセラが同時に笑った。
「昔からじゃん!」
「レグ、ちっちゃいときも?」
「ああ」
「いっぱい?」
「自分の分を食べたあと、ガルドの分を狙ったそうだ」
「今と同じ……」
セラが笑いながら言う。
レグは少しだけ考えた。
「おとうさん、くれた?」
「半分」
「やさしい」
「ミレアに怒られていたがな」
「また怒られてる」
朝の岩場に笑いが戻った。
若い竜たちも、緊張が解けたのか少しずつ低い位置を飛び始めている。
赤褐色の竜に至っては、レグのすぐ上を旋回していた。
「そういえば」
ハヤトが深緑の竜を見る。
「谷に入れるって言ったよな?」
「言った」
「俺たち人間も?」
「ああ」
カイルの表情が変わる。
「簡単に許可していいのか?」
「私が許可するわけではない」
「じゃあ何で入れるって」
「もう決まっているからだ」
「誰が?」
深緑の竜は答えない。
名前を尋ねるな。
そういうことだろう。
「谷の入口で待っている者がいる」
「レグを?」
「ああ」
レグが首を傾げる。
「だれ?」
「行けば分かる」
「みんな入れる?」
「今のところは」
「今のところ?」
ハヤトが引っかかる。
「中で何をするか次第だ」
「普通にするよ」
「それなら問題ない」
「普通の基準違いそうなんだよな……」
深緑の竜の口元が僅かに上がった。
「ガルドの娘が連れてきた人間だ。多少は見逃される」
「多少ってどのくらい?」
「試すな」
「はい」
先回りされた。
カイルが笑っている。
「お前、竜にも扱い分かられてきたな」
「嬉しくない」
深緑の竜が空を見上げる。
「ここから谷までは、人の足なら二日」
「そんな近い?」
カイルが地図を見る。
「セインは十日以上って」
「修道院からならな」
「ああ、そこから数えてたのか」
「今日はどこまで?」
「夕方には水のある場所へ着く。そこを使え」
「分かりやすい目印は?」
「山が三つ見える場所だ」
「山なんていっぱいあるぞ」
「三つ並んでいる」
「形は?」
「見れば分かる」
「竜の案内って雑だな……」
カイルが小声で呟く。
「聞こえている」
「すみません」
素直だった。
深緑の竜が翼を広げる。
「もう行く?」
レグが聞いた。
「ああ」
「また会う?」
「谷でな」
「名前は?」
一瞬。
ハヤトたち全員がレグを見る。
レグ自身も、言ってから気づいた。
「あ」
深緑の竜は怒らなかった。
ただ、少し面白そうに見えた。
「聞くなと教わったばかりだろう」
「忘れた」
「早いな」
「ごめん」
「谷へ来れば、必要なら私から教える」
「わかった」
「それまでは」
少し考え。
「ガルドの古い喧嘩相手とでも呼べ」
ハヤトが吹き出した。
「本人それでいいの!?」
「事実だ」
「おとうさん、いっぱい喧嘩した?」
「かなり」
「勝った?」
「その話は終わった」
「やっぱり負けた?」
深緑の竜が無言になる。
ハヤトは笑うのを堪えた。
レグは納得していない顔だったが、追及する前に巨大な翼が動いた。
風が吹く。
「荷物!」
「押さえてる!」
今度は全員準備していた。
深緑の竜が宙へ舞い上がる。
若い竜たちも一斉にあとを追った。
ただ一頭。
赤褐色の竜だけが少し残る。
「まだ勝負する?」
レグが聞く。
赤褐色の竜が短く鳴いた。
「何て?」
「『谷で』」
「約束した?」
「うん」
赤褐色の竜も飛び立つ。
朝の空から、竜たちの姿が少しずつ消えていった。
静かになる。
「……朝飯食おう」
ハヤトが言った。
「うん!」
レグが一番元気に返事をした。
さっきまで父親の話を聞いていたとは思えない。
けれど、それでいい。
朝食を作り直す。
火を起こし、昨日の残りに少し水を足す。
レグは鍋の前へ座りながら、何度も笑っていた。
「そんな嬉しい?」
セラが聞く。
「うん」
「何が一番?」
父親が強かったことか。
谷に何かを残したことか。
怪我をして戻ってきたことか。
レグは少し考えた。
「三日」
「三日?」
「おとうさん、レグ生まれたって三日言った」
「ああ」
セラが笑った。
「そこなんだ」
「うん」
レグにとっては、それが一番だった。
ハヤトも何となく分かる。
自分が知らないところでも。
自分が覚えていない頃でも。
生まれたことを喜んでくれた誰かがいた。
それを知れたことの方が、古い役目や秘密より大切なのだろう。
朝食を終える。
荷物をまとめる。
出発前、レグは一度だけ西を振り返った。
「どうした?」
ハヤトが聞く。
「セインにも教える」
「何を?」
「おとうさん、レグのこと三日言った」
「そこ報告するんだ」
「うん」
「次会ったらな」
レグは満足そうに頷いた。
「行こ」
東へ。
あと二日。
その先には、いよいよ竜の谷がある。
そしてそこには。
ガルドが残した何かと、レグを待つ者がいる。




