羽音の近い夜
青い竜と別れてから、一行は歩く速度を少し上げた。
夕方までに次の岩場へ。
理由は、夜になると若い竜たちが飛ぶから。
「遊ぶって言ってたよな」
ハヤトは歩きながら空を見る。
「言ってたね」
セラもつられて見上げる。
「人間を見たことない竜もいるって」
「それ、絶対見に来るやつじゃん」
「ハヤト、人気?」
レグが振り返る。
「そういう人気いらない」
「レグは見たい」
「お前はそっち側だからな」
空には時々、遠くを横切る大きな影が見えた。
さっきまでなら一頭見つけるだけでも足を止めていただろう。
だが今は、一つ見つけたと思ったらさらに奥にもいる。
「本当に増えたな」
カイルが呟く。
「どのくらい近いんだろ」
「谷そのものはまだ先だろうな」
「でも竜はここまで来る」
「ああ」
カイルは地図ではなく周囲の山を見る。
「人間の領域との境目が、俺たちの思ってた場所と違うのかもしれない」
「二本岩からもう竜側?」
「そう考えた方がいい」
レグが自分を指す。
「レグ側?」
「お前はどっち側なんだろうな」
ハヤトが何気なく言う。
レグは少し考えた。
「ハヤト側」
「そういう意味じゃないんだけど」
「セラ側も」
「増えた」
「クロ側も」
クロが名前に反応して顔を上げる。
「カイルは?」
「……一応入れといてやれ」
「カイル側も」
「何で俺だけ後付けなんだ」
セラが笑った。
「ちゃんと入ったからいいじゃん」
「そういう問題か?」
険しくなり始めた山道に、いつもの会話が続く。
竜の領域へ近づいている。
そう思えば緊張はある。
だがレグが普段通りなのは、ありがたかった。
昼を過ぎた頃から、道の傾斜がさらに強くなる。
「暑い……」
セラが額の汗を拭う。
「休む?」
「もう少し行ける」
「水飲んどこう」
「うん」
短い休憩を取る。
レグは水を飲んだあと、空を見上げた。
「飛んだ方が早い」
「レグだけならな」
「ハヤトも持つ?」
「落としそうだから遠慮する」
「落とさない」
「前に肩乗ってた頃と逆になるぞ」
レグが想像する。
「ハヤト、重い」
「即却下じゃん」
「八十……」
「言わなくていい」
セラが吹き出した。
「持ち上げられても飛びづらそう」
「レグなら力はあるだろうけどな」
問題は力ではない。
人間一人を抱えて山を飛ぶ技術があるかどうかだ。
そこは試していない。
「谷で練習する?」
レグが聞く。
「俺で?」
「うん」
「もっと軽いものからにしよう」
「クロ?」
クロが即座にレグから離れた。
「嫌がってるぞ」
「じゃあカイル」
「なぜ俺になる」
「ハヤトより軽そう」
「そういう問題じゃない」
全員が休んだところで、再び歩き始める。
午後も半ばを過ぎた頃。
前方の木々が途切れた。
「あれか?」
ハヤトが目を細める。
山肌が大きく露出している。
何十もの巨岩が重なるように転がり、その間に平らな場所がいくつかあった。
「岩場だな」
カイルが周囲を確認する。
「道もここを通ってる」
「じゃあ今日ここ?」
「青い竜が言ってたのがここなら」
レグが鼻を動かす。
「竜いる」
「今?」
「いた」
過去形。
「匂い残ってる?」
「うん。いっぱい」
「寝床?」
セラが岩を見上げる。
確かに上の方には、大型の生き物が横になれそうな窪みがいくつもある。
爪で削ったような跡もあった。
「ここで野営して大丈夫なの?」
ハヤトが聞く。
「ここへ来いって意味だったなら大丈夫だろ」
「多分?」
「多分」
「その言葉ばっかりだな」
「未知の場所で断言する方が怖い」
「それもそう」
平らな場所を見つけ、荷物を下ろす。
今日は沢が近くにない。
村で補給した水を使うことになった。
「節約ね」
セラが水袋を確認する。
「明日は水場見つけたいな」
「竜って水飲むよな?」
「飲む」
レグが答える。
「じゃあどこかにはある」
「その理屈はまあ合ってる」
焚き火は小さく。
夕食も簡単に済ませる。
干し肉を煮て柔らかくし、村でもらった野菜を入れる。
レグは鍋の横から動かなかった。
「まだだよ」
「見てるだけ」
「さっきも聞いた台詞だな」
「今日はほんと」
「今日は?」
レグは答えなかった。
クロも鍋の近くに座っている。
「二人とも似てきたな」
ハヤトが言う。
「クロは食いしん坊じゃない」
「じゃあ何でそこにいる?」
レグがクロを見る。
クロも鍋を見る。
「……おなかすいてる」
「ほら」
日が沈み始める。
山の向こうが赤く染まり、岩場へ長い影が伸びる。
食事を終える頃には空の色もかなり暗くなっていた。
「で」
ハヤトが空を見る。
「来るの?」
「何が?」
レグが聞く。
「若い竜」
「来てほしい?」
「遠くからなら」
「レグは近くがいい」
「知ってる」
しばらくは何も起きなかった。
風。
火。
食器を片づける音。
「案外来ないね」
セラが言った、そのとき。
ばさっ。
大きな羽音。
全員が空を見る。
「来た」
レグが立ち上がった。
上空。
一頭。
まだセインや青い竜ほど巨大ではない。
それでも、人間から見れば十分大きい。
赤褐色の鱗。
岩場の上を一度旋回する。
「こっち見てるよな?」
「見てるね」
もう一周。
そして。
ばさっ。
別方向からもう一頭。
「増えた」
青緑色。
さっきより一回り小さい。
三周目にはさらにもう一頭現れた。
「……見世物じゃないんだけど」
ハヤトが呟く。
「人間珍しいんだろ」
カイルは冷静だった。
「動物園の逆ってこんな感じか」
「何それ?」
「いや、こっちの話」
竜たちは降りてこない。
上を旋回しているだけ。
だが明らかにこちらを観察している。
レグは嬉しそうだった。
「話す?」
「向こうから何か言ってる?」
「まだ」
「なら待てば?」
「うん」
四周。
五周。
赤褐色の竜が少し高度を下げた。
「近い近い」
風圧で火が揺れる。
ハヤトたちは焚き火から少し離れた。
「消えそう」
セラが火を庇う。
「遊ぶってこういうこと?」
「まだ見てるだけじゃない?」
直後。
赤褐色の竜が急降下した。
「うわっ!」
ハヤトは反射的にしゃがむ。
頭上すれすれ――とまではいかないが、かなり低いところを巨大な翼が通り抜ける。
強風。
髪。
服。
置いていた布が一枚飛んだ。
「あ!」
レグが追いかける。
青緑色の竜が空中でその布を器用に咥えた。
「持ってかれた!」
ハヤトが立ち上がる。
「返して!」
セラが空へ向かって叫ぶ。
竜は布を咥えたまま旋回した。
「絶対遊んでる!」
「だから言っただろ」
カイルは笑っている。
「笑ってる場合かよ! あれ俺の替えの服包んでた布!」
「布だけだろ?」
「そうだけど!」
レグが竜の姿へ変わる。
『レグ行く!』
「え?」
止める前に翼が広がった。
『返してもらう!』
飛び立つ。
「レグ!」
赤褐色の竜がすぐ後を追う。
「おいおい」
ハヤトは空を見上げた。
「大丈夫かな」
セラは心配そうだが、レグから恐怖の声は聞こえない。
むしろ。
高いところから鳴き声が響く。
楽しそうだった。
三頭の若い竜と、レグ。
空を大きく回る。
レグが青緑の竜へ近づく。
布を取ろうとする。
ひらりと逃げられる。
『まって!』
また追う。
「完全に遊ばれてるな」
カイルが言う。
「レグも遊んでるだろ」
「多分な」
クロだけは落ち着かなかった。
地上からレグを追うように走り回っている。
「クロ、大丈夫だから」
セラが声をかけるが、止まらない。
レグが降りてこない限り安心できないらしい。
しばらくして。
青緑の竜が突然布を落とした。
『あ!』
レグが急降下する。
地面へ落ちる寸前で咥えた。
「取った!」
ハヤトが声を上げる。
レグが翼を広げて減速する。
少し危なっかしい。
「……着地大丈夫か?」
嫌な予感。
降りる。
足が岩へつく。
勢いが残る。
『わっ』
前へ二歩。
三歩。
そのまま。
どさっ。
「レグ!」
ハヤトたちが駆け寄る。
レグは岩の上に腹ばいになっていた。
口には布。
『……とった』
「それどころじゃない!」
「怪我は?」
セラがすぐ確認する。
レグが身体を起こす。
翼。
足。
どこにも大きな傷はない。
『だいじょうぶ』
「本当に?」
『うん』
立ち上がる。
クロがすぐ鼻先を押しつけた。
『クロ、くすぐったい』
尻尾がものすごい勢いで動いている。
「よかった……」
セラが息を吐く。
ハヤトは布を受け取った。
「ありがとう」
『うん』
「でも着地もうちょっと練習しような」
『できると思った』
「思うだけじゃ駄目なやつ」
『つぎできる』
「次あるの?」
上を見る。
三頭の竜がまだ飛んでいた。
そして。
今度は一頭が岩場へ降りてきた。
「……来た」
赤褐色の竜。
着地は見事だった。
ほとんど音も立てず、少し離れた大岩の上へ降りる。
レグがじっと見る。
『なんて?』
ハヤトが聞く。
赤褐色の竜が短く声を出す。
レグの顔が変わった。
『笑った』
「何を?」
『レグの着地』
「……まあ」
『ハヤトも笑った?』
「俺は心配してた」
『ほんと?』
「本当」
赤褐色の竜がまた鳴く。
今度はレグが少しむっとする。
『なに?』
「『へた』って」
「言われてるじゃん」
セラが笑う。
『レグ、へたじゃない』
「着地はちょっと」
『セラも?』
「ごめん、ちょっとだけ」
レグが赤褐色の竜を見る。
翼を広げた。
「待て待て」
ハヤトが止める。
『なに?』
「勝負する気?」
『うん』
「夜だぞ」
『見える』
「俺たちが心配する」
レグが止まる。
さっきまでなら、そのまま飛んでいたかもしれない。
『……明日』
「明日?」
レグが赤褐色の竜へ何か言う。
今度はハヤトたちには意味が分からない竜の声。
相手が返す。
『明日の朝、また来るって』
「約束した?」
『うん』
「早速友達できてるじゃん」
『友達?』
「違うの?」
レグは赤褐色の竜を見る。
相手もこちらを見ている。
『まだわかんない』
「そっか」
『でも、また来る』
「ならいいんじゃない?」
青緑の竜ともう一頭も、上空を一度旋回する。
赤褐色の竜が飛び上がった。
三頭はそのまま山の向こうへ消えていく。
静けさが戻った。
「……すごかったな」
ハヤトは乱れた野営地を見る。
布。
枝。
少し消えかけた焚き火。
「若い竜が遊ぶって、思ってたより迷惑だな」
「本人たち悪気なさそうだけどね」
セラが火を直す。
「人間が脆いって意味も分かった」
カイルが飛ばされた布を拾う。
「翼一回でこれだ」
「明日から荷物固定しとこう」
「そうだな」
レグは人の姿へ戻った。
「たのしかった」
「だろうな」
「明日、勝つ」
「何に?」
「着地」
「競技なのそれ」
「レグが決めた」
クロがレグの脚へ身体を寄せる。
「クロも見る?」
尻尾が動く。
「飛ばない?」
動かない。
「地面で見る?」
尻尾が動く。
「分かりやすいな」
ハヤトは笑った。
その夜。
さっきの騒ぎが嘘のように静かだった。
見張りを交代しながら眠る。
夜中に竜が何頭か遠くを飛んだが、岩場へ降りてくるものはいなかった。
そして朝。
「ハヤト」
「……ん」
「起きて」
「まだ暗くない?」
「朝」
「早いって……」
「来た」
その一言で目が覚める。
「何が?」
レグが空を指した。
岩場の上。
朝焼けの中を、一頭の赤褐色の竜が旋回している。
「本当に来たのか」
「約束したから」
レグはもう弓も荷物も横へ置いている。
「レグ」
「なに?」
「朝飯は?」
動きが止まった。
「……あと」
「珍しい」
「先に勝つ」
「何に勝つのかまだ分からないけど」
セラも起きてきた。
カイルは毛布の中から顔だけ出している。
「朝から元気だな……」
レグが竜の姿になる。
翼を広げる。
そのとき。
赤褐色の竜の後ろ。
山の向こうから、さらにいくつもの影が現れた。
一頭。
二頭。
三頭。
昨日いた若い竜たちだけではない。
「増えてない?」
ハヤトが呟く。
『……いっぱいきた』
レグ自身も少し驚いている。
十頭近い。
大小さまざまな竜が、朝の空をこちらへ向かってくる。
「昨日の話広まった?」
セラが言う。
「人間連れた変なのが来たって?」
「レグ、変じゃない」
「いや、そういう意味じゃなくて」
空の竜たちが次々と旋回を始める。
その中。
一頭だけ。
ほかより遥かに大きな影があった。
若い竜たちが、その竜の周囲だけ少し距離を取って飛んでいる。
黒に近い深緑の鱗。
巨大な翼。
頭には後ろへ伸びる四本の角。
レグの表情が変わった。
『ハヤト』
「何?」
『あれ』
巨大な竜が、ゆっくり高度を下げてくる。
『知ってるにおい』
「誰?」
レグは鼻を動かす。
一度。
もう一度。
『……おかあさんじゃない』
「じゃあ?」
深緑の竜は岩場へ降りなかった。
上空に留まり、レグだけを見ている。
やがて低い声が響いた。
今度はハヤトたちにも、音だけははっきり聞こえた。
レグが目を見開く。
「何て言った?」
少し間があった。
『……ガルドのにおいがする、って』
朝の岩場から、さっきまでの軽い空気が消えた。




