朝の向こう側
二本岩を越えた。
たったそれだけだった。
眩しい光もなければ、地面が揺れることもない。昨日の夜のように道が歪んで見えることもなく、五人と一匹は普通に東へ歩いていく。
ハヤトは数歩進んでから振り返った。
「……普通だな」
二本岩は後ろにある。
その向こうには、昨日野営した森へ続く道。
何も変わっていない。
「何が起きると思ってたの?」
セラが聞く。
「もっとこう……越えた瞬間に景色が変わるとか」
「期待してたんだ」
「ちょっとだけ」
「観光地じゃないんだから」
カイルが呆れた声を出す。
「でも道が夜に変わっただろ?」
「だから朝に来た」
「それはそうなんだけど」
レグは二人の会話を聞かず、前方へ鼻を向けていた。
「レグ?」
「におい、いっぱい」
「竜?」
「うん」
声の調子が少し違う。
「一頭じゃない?」
レグが頷く。
「いっぱい」
ハヤトの足が止まりかけた。
「どれくらい?」
「わかんない」
「十頭とか?」
「わかんない」
「百?」
「ハヤト」
セラが横から止める。
「数字増やしても分からないと思う」
「確かに」
レグも真面目に頷いた。
「いっぱいは、いっぱい」
「はい」
クロは昨日ほど警戒していなかった。
ただし、いつもよりレグの近くを歩いている。
「クロも分かってるのかな」
「たぶん」
レグが頭を撫でる。
「でも、怖くないって」
「本当に?」
「しっぽ」
見ると、尻尾は下がっていない。
かといって楽しそうに振っているわけでもない。
「普通?」
「ちょっと気になる」
「細かいな」
「クロだから」
「分かったような分からないような」
道は緩やかな上りだった。
一時間ほど歩く。
森そのものは、昨日までと大きく変わらない。
木。
草。
鳥。
時々、小さな獣の気配。
それでもハヤトには、何かが違うように感じた。
「セラ」
「何?」
「静かじゃない?」
「鳥鳴いてるよ」
「そうじゃなくて」
言葉にしにくい。
森が静かというより。
「人の気配がない」
カイルが先に言った。
「あ、それ」
「街道から外れてるんだから普通じゃない?」
セラが言う。
「昨日までは古い轍や切った枝があった」
カイルが道の端を見る。
「ここから先、そういうものがない」
ハヤトも確認する。
確かに。
歩いている道自体はある。
けれど馬車が通った形跡がない。
人が木を切った跡もない。
「じゃあ誰が使ってる道?」
セラの問いに、レグが前を指した。
「これ」
地面。
ハヤトが近づく。
「……でか」
足跡だった。
人のものではない。
四本の太い指。
爪。
昨日、二本岩のそばに残されていた跡によく似ている。
「竜の道か」
カイルがしゃがむ。
「古いのと新しいのが混じってる」
「そんな分かる?」
「土見ろ。こっちは崩れてる。こっちはまだ形が残ってる」
「最近通った竜がいる?」
「ああ」
レグも匂いを確認する。
「知らない竜」
「昨日のやつ?」
「ちがう」
「また別?」
「うん」
ハヤトは前方の道を見る。
「本当にいっぱい住んでそうだな」
レグは少し嬉しそうだった。
「レグみたいなのいる?」
「いるかも」
「人になれる?」
「それもいるかもな」
「会いたい」
「まず普通に挨拶しような」
「うん」
「戦うとか言うなよ」
「……」
「レグ?」
「言わない」
「今考えた?」
「ちょっと」
「やっぱり」
セラが笑った。
昼前。
道の横に、大きな石が現れた。
高さはハヤトの背丈の二倍ほど。
自然に立ったものではない。
「これ何?」
表面に大きな傷が刻まれている。
三本。
横に一本。
さらに下には円。
「文字?」
ハヤトが聞く。
「古代文字とは違うな」
カイルが見る。
「レグ、分かる?」
「ちょっと」
レグが石の前へ立つ。
しばらく見上げてから。
「『ここから、ゆっくり』」
「ゆっくり?」
「たぶん」
「何で?」
セラが周囲を見る。
道はここから少し細くなっている。
崖でもない。
「竜向けの標識?」
ハヤトが言う。
「それなら人間には関係ないか?」
「待て」
カイルが石の裏へ回る。
「こっちにもある」
全員で覗く。
裏側。
同じような刻み方で、別の印。
「レグ?」
「……『速く飛ぶな』」
「なるほど」
ハヤトは上を見る。
木々の隙間から青空が見える。
「この辺、飛行禁止?」
「何で?」
「知らん」
カイルも周囲を調べる。
「何か守ってる場所が近いのかもな」
「巣?」
セラが言う。
「小さい竜がいるとか?」
レグの目が輝いた。
「赤ちゃん?」
「まだ決まってない」
「見たい」
「だからまだ決まってないって」
その直後。
上から大きな影が落ちた。
「っ!」
ハヤトが反射的に剣へ手をかける。
セラも杖を持ち上げる。
カイルが叫んだ。
「抜くな!」
セインの忠告。
先に敵意を見せるな。
ハヤトは柄を握ったまま、剣を抜かずに止まった。
木々の隙間を、巨大な何かが通り過ぎる。
翼。
長い尾。
「竜……」
セラが呟く。
空を飛んでいた。
灰色でも白銀でもない。
深い青の鱗。
セインほど大きくはないが、レグよりは遥かに大きい。
「こっち見た?」
ハヤトが聞く。
「見た」
レグが答える。
「何か言った?」
「ううん」
青い竜はそのまま遠くへ飛んでいく。
「普通にいるんだな」
「竜の谷へ向かってるんだからね」
「分かってるけど、実際見るとすごいな」
レグはずっと空を見ている。
「飛びたい?」
「ちょっと」
「今はやめとこう」
「標識もあったしね」
セラが言う。
「うん」
レグは素直に諦めた。
そこから先。
森が徐々に変わり始める。
木々が低くなり、岩が増える。
空が広くなる。
そして道の左右には、時々巨大な爪跡。
鱗。
折れた枝。
明らかに、人間ではなく大型の生き物が生活している痕跡が増えていった。
「これ」
ハヤトが地面から一枚の鱗を拾いそうになる。
「触るな」
カイルに即座に止められた。
「見るだけ」
「今拾おうとしただろ」
「ちょっと」
「セインに何言われた」
「勝手に触るなとは言われてない」
「言われなくても分かれ」
「ハヤト」
セラまで来る。
「落ちてるものでも、竜にとって何か意味あるかもしれないよ」
「……はい」
手を引っ込める。
レグが鱗を見る。
「これ、古い」
「分かる?」
「におい薄い」
「じゃあ――」
「拾わない」
先に言われた。
「レグの方がちゃんとしてる」
セラが言う。
「俺の評価が落ちていく」
「元からでは?」
カイルが続ける。
「お前ら旅の後半になって急に厳しくない?」
誰も否定しなかった。
昼。
小さな川のそばで休む。
水は澄んでいる。
念のため煮沸することにした。
「ここで昼にしよう」
「干しいも!」
レグがすぐ袋を出す。
「まだ残してたの?」
「うん」
「朝食べなかったんだ」
「お昼用」
「計画的だな」
ハヤトも保存食を取り出す。
パン。
干し肉。
村でもらった野菜。
簡単な昼食だった。
「温かいの食べたい」
レグが言う。
「夜まで我慢」
「焼く?」
「焚き火するほどじゃない」
「そっか」
「谷着いたら料理できる場所あるのかな」
セラが言う。
「竜って何食べるんだろ」
「肉」
レグが答える。
「レグ基準じゃなくて」
「竜だから」
「説得力あるようで、全部の竜が同じとは限らないよね」
レグが止まる。
「……魚も食べる?」
「知らないよ」
「聞く」
「誰に?」
「会った竜」
「最初の質問それ?」
そんな話をしていると。
クロが食べるのをやめた。
「ん?」
耳が立つ。
レグも顔を上げる。
「来る」
「何が?」
「人」
ハヤトは少し安心しかけた。
「人?」
ここに人間が?
だがレグは続けた。
「たぶん、竜」
「どっち?」
「人の形」
全員が立ち上がる。
カイルは短剣へ手を近づけたものの、抜かない。
ハヤトも同じ。
道の奥。
岩の影から、一人の男が出てきた。
若い。
二十代後半くらいに見える。
黒に近い青髪。
背はハヤトより高い。
服は簡素だが、人間の旅人と大きく変わらない。
ただ。
目。
鮮やかな青。
さっき空を飛んでいた竜と同じ色だった。
「……あいつ?」
ハヤトが小声で聞く。
「うん」
レグが答える。
男は一定の距離で止まった。
最初に見たのはレグ。
次にクロ。
そして。
ハヤト。
セラ。
カイル。
三人の人間を順番に見る。
「やはり連れてきたか」
普通の言葉だった。
ハヤトは少し意外だった。
「喋れるんだ」
「何だと思っていた」
「いや、もっと古い言葉かと」
「人間の言葉くらい知っている」
「そうですか」
妙に圧がある。
男の視線がレグへ戻る。
「名は?」
一瞬。
ハヤトの身体が強張った。
セインの忠告。
竜の名を勝手に呼ぶな。
そして、谷で何かを聞かれてもレグの代わりに答えるな。
だから口を出さない。
レグ自身も少し考えた。
「レグ」
「それだけか」
「うん」
男の目が細くなる。
「もう一つは?」
レグは答えなかった。
空気が少し変わる。
「知らない?」
男が尋ねる。
「知ってる気がする」
「ならなぜ言わない」
「言いたくないから」
短い。
でもはっきりしていた。
男はレグを見つめる。
ハヤトは黙ったまま、すぐ動けるようにだけしている。
やがて。
「そうか」
男が言った。
怒った様子はない。
「それでいい」
昨夜の声。
ハヤトが気づく。
「昨日の?」
男がこちらを見る。
「何だ」
「夜、二本岩の向こうから話してた?」
「お前には聞こえていなかったはずだ」
「レグから聞いた」
「そうか」
否定しない。
「じゃあ爪跡も?」
「あれは私だ」
「道通っていいって意味?」
「人間にも分かったのか?」
「レグが」
「……なるほど」
男の視線がまたレグへ向く。
「名を返さず、人間を置いてもこなかった」
「うん」
「なぜ人間を連れている」
その問い。
セインが言っていた。
代わりに答えるな。
ハヤトは口を閉じた。
セラも。
カイルも何も言わない。
レグが答える。
「仲間だから」
「その人間たちが?」
「うん」
「捨てろと言われても?」
「やだ」
「谷へ入れないと言われたら?」
「じゃあ入らない」
ハヤトは思わずレグを見る。
男もわずかに眉を動かした。
「お前だけなら入れるとしても?」
「ハヤトたち入れないなら、レグも入らない」
「母親がいるかもしれなくても?」
レグの顔が止まった。
ハヤトの胸が少し締まる。
それでも口は出さない。
レグ自身が考える。
数秒。
長く感じた。
「……会いたい」
「なら?」
「でも、一人で行かない」
男は何も言わない。
「おかあさん探したい。でも、ハヤトとセラとカイルとクロ置いていくのは、レグがいや」
クロがレグの脚へ身体を寄せる。
「それで会えなかったら?」
レグは少し迷った。
「そのとき、また考える」
「今決めない?」
「うん」
男の口元が、ほんの少しだけ動いた。
笑ったのかもしれない。
「セインは、何を教えた」
「いろいろ」
「名前は?」
「言わない」
「それは教えられたようだな」
男が一歩横へ動く。
道を空ける。
「行け」
「いいの?」
レグが聞く。
「この道を通ることは止めない」
「谷まで?」
「谷の入口までだ」
「その先は?」
「私が決めることではない」
レグが頷く。
「わかった」
「ただし」
男の目が三人の人間へ向く。
「人間」
「はい」
なぜかハヤトが返事をしてしまう。
「剣は抜くな」
「分かってる」
「竜へ触れるな」
「それも分かってる」
カイルが横からこちらを見る。
「さっき鱗拾おうとしてたけどな」
「言わなくていいだろ!」
男の目が細くなる。
「鱗を?」
「拾ってない!」
「落ちていたもの?」
「うん」
「なら別に構わん」
ハヤトがカイルを見る。
「ほら!」
「竜によるかもしれないだろ」
男が少し呆れた顔をした。
「落ちた鱗を拾う程度で怒る者は少ない」
「少ないってことは、いる?」
セラが尋ねる。
「いる」
「やっぱり拾わない方がいいじゃん」
「……はい」
レグが笑った。
男は背を向ける。
「夕方までに次の岩場へ着け」
「また夜は危ない?」
カイルが聞く。
「この先は道が変わらない」
「じゃあ何で?」
「夜は若い竜が飛ぶ」
「危険?」
「遊ぶ」
「……遊ぶ?」
「人間を見たことがない者もいる」
ハヤトは嫌な予感がした。
「近づいてくる?」
「かなり」
「攻撃は?」
「本人にその気がなくても、お前たちは脆い」
「それ先に言って!」
男は振り返らない。
「急げば間に合う」
「場所は?」
「道なりだ」
それだけ言うと、男の身体が淡い光に包まれた。
「え?」
巨大な青い翼が広がる。
あっという間に竜の姿へ戻った。
風が巻き起こる。
「うわっ!」
ハヤトたちが腕で顔を守る。
レグだけは目を輝かせていた。
「大きい!」
青い竜は一度だけレグを見る。
そして強く地面を蹴った。
巨体が空へ舞い上がる。
翼を数回動かしただけで、あっという間に山の向こうへ消えていった。
「……」
しばらく誰も喋らなかった。
「竜って」
セラが先に口を開く。
「結構普通に喋るんだね」
「そこ?」
「もっと怖い感じかと思ってた」
「いや、十分怖かっただろ」
ハヤトは自分の胸を押さえる。
「レグ」
「なに?」
「よく普通に話せたな」
「竜だから」
「またそれか」
レグは嬉しそうに空を見る。
「仲間いっぱいいる」
「まだ仲間ではないぞ」
カイルが言う。
「これから」
「前向きだな」
「うん」
ハヤトは道を見る。
青い竜が言った次の岩場。
夕方まで。
「じゃあ急ぐか」
「夜に若い竜いっぱい来るって」
セラが荷物を持ち直す。
「ちょっと見てみたいけど」
「俺は遠くからでいい」
「レグは見たい」
「だろうな」
クロだけはあまり乗り気ではなさそうだった。
五人と一匹は再び歩き始める。
道はまだ上り。
けれど少し進むと、木々の向こうに高い山が見え始めた。
その山と山の間。
遠く。
雲より低い位置を、何か大きな影が横切る。
一つ。
二つ。
さらにもう一つ。
「……あれ全部?」
ハヤトが尋ねる。
「うん」
レグが笑う。
「竜」
竜の谷は、まだ見えない。
それでも。
その存在だけは、もう隠しようがないほど近くまで来ていた。




