地図にない煙
ノルドを出てから、最初の数時間は驚くほど何も起きなかった。
東へ伸びる道は細いものの、まだ人が使っているらしい。荷車の轍が薄く残り、ところどころには馬の蹄の跡もある。
ハヤトは歩きながら、何度か空を見上げた。
「平和だな」
「何その言い方」
セラが隣から見る。
「いや、最近ずっと何か起きてたから」
「自分から言わないでよ」
「言ったら起きる?」
「知らないけど、嫌な感じする」
少し前を歩いていたカイルが振り返る。
「安心しろ。今日は少なくとも、近くに古代施設はない」
「少なくとも?」
「地図に載ってる範囲ではな」
「それ安心できないやつじゃん」
「事実を言っただけだ」
ハヤトはため息をついた。
そのさらに前では、レグとクロが並んで歩いている。
レグは朝から何度も周囲を見回し、時々鼻を動かしていた。
「レグ」
「なに?」
「何か匂う?」
「森」
「それは見れば分かる」
「土」
「それも」
「クロ」
「近いからな」
レグが少し考える。
「あと、ハヤト」
「俺?」
「うん」
「何の匂い?」
レグがもう一度鼻を動かす。
「ハヤトのにおい」
「答えになってない」
「それ以上聞かない方がいいんじゃない?」
セラが笑っている。
「何でだよ」
「汗とか言われたら嫌でしょ」
「まだ午前中だぞ」
「昨日も風呂入ってないし」
「……それは言うな」
レグは二人を見て首を傾げた。
「いつもとおなじ」
「それでいい」
深掘りするのをやめた。
昼前。
道は徐々に山へ近づいていった。
カイルが地図を開く。
「この先で一度、道が分かれる」
「どっち?」
「北東」
「もう片方は?」
「昔は村へ続いてた」
レグがすぐ反応した。
「ごはんある?」
「村が残ってればな」
「寄る?」
「本来の道から少し外れる」
ハヤトも地図を覗き込む。
「どれくらい?」
「一時間くらい」
「往復二時間か」
「補給できるなら悪くない」
セラが荷物を見る。
「食料はまだ十分あるけど、水は足せるなら足したいね」
「セインが言ってた三十年前の村?」
「ああ」
カイルが地図の小さな印を指す。
「名前はリトって書いてある」
「三十年前……」
ハヤトが周囲を見る。
「あるかな」
「行けば分かる」
「雑だな」
「地図に残ってるだけありがたいと思え」
結局、寄ることにした。
分かれ道から北側へ進む。
最初のうちは古い轍があった。
だが十分。
二十分。
進むほど道は荒れていく。
「これ、使われてないね」
セラが草を避ける。
「最近の足跡もない」
ハヤトが地面を見る。
「カイル」
「分かってる」
地図を確認する。
「道は合ってる」
「じゃあ村なくなった?」
「まだ決めるな」
レグが突然止まった。
「煙」
「え?」
全員が顔を上げる。
「どこ?」
レグが前方を指す。
「向こう」
木々の間。
ハヤトには何も見えない。
「匂い?」
「うん」
「焚き火?」
「たぶん」
クロも同じ方向へ鼻を向けている。
「じゃあ誰かいるか」
カイルが地図を畳む。
「村かどうかは別としてな」
さらに二十分ほど進むと、森が少し開けた。
最初に見えたのは畑だった。
「あったじゃん」
ハヤトが言う。
ただし。
地図から想像していた村とは、かなり違った。
家は十軒もない。
しかも古い建物の跡が広い範囲に残っている。
崩れた石垣。
草に埋もれた井戸。
土台だけになった家。
現在人が住んでいる場所は、その一角に固まっていた。
「昔はもっと大きかったんだね」
セラが周囲を見る。
「多分な」
畑で作業をしていた男がこちらに気づいた。
鍬を置き、警戒した様子で近づいてくる。
「旅の人か?」
「はい」
セラが自然に一歩前へ出た。
「道の途中で水と食料を少し分けていただけないかと思いまして」
「どこへ?」
「東です」
男の顔が少し変わった。
「東?」
「はい」
「山へ行くのか?」
カイルが答える。
「越える予定だ」
「やめといた方がいい」
「何かある?」
男は五人を見回す。
最後にクロで止まった。
「その獣は?」
「クロ」
レグが言う。
「名前じゃなくて……」
ハヤトが横から入る。
「仲間です。人を襲ったりはしません」
「そうか」
男はまだ少し警戒していたが、鍬へ手を戻すほどではなかった。
「とにかく、村長に話してくれ。俺じゃ分からん」
「村長いるんだ」
「いるさ。小さいだけで村は村だ」
「失礼しました」
セラがすぐ頭を下げる。
ハヤトも軽く頭を下げた。
レグだけが周囲を見ている。
「人、すくない」
「昔は多かったよ」
男が答えた。
「今はこれだけだ」
「なんで?」
「レグ」
セラが軽く止める。
「いきなり聞かないの」
「だめ?」
男は苦笑した。
「別にいい」
少し遠くを見る。
「みんな西へ出ていっただけだ」
「何かあったんですか?」
今度はセラが尋ねる。
「別に大きなことはない。畑が痩せて、山の道も使われなくなって、商人も来なくなった。それだけだ」
「竜のせい?」
レグが言った。
男の顔が固まった。
ハヤトもレグを見る。
「なんでそう思った?」
「においする」
「竜の?」
「うん」
今までとは違う反応だった。
男が明らかに戸惑っている。
「……お嬢ちゃん、何者だ?」
「レグ」
「だから名前じゃなくて」
「竜」
言い切った。
「レグ!」
ハヤトが思わず声を上げる。
「隠す?」
「いや、そういうことじゃなくて」
セインからも、谷の近くでは竜との関わりが複雑だと聞いている。
人間相手に簡単に明かしていいかは、少し考えた方がいい。
だが男は笑わなかった。
「……そうか」
それだけだった。
カイルの目が鋭くなる。
「驚かないんだな」
「驚いてる」
「でも否定しない」
「昔は、この辺じゃ珍しい話じゃなかったらしい」
全員が黙った。
「昔?」
「ああ」
男が村の奥を指す。
「村長に聞け。その話なら俺より知ってる」
今度は全員、素直に従った。
村の中央。
一番大きな家へ案内される。
大きいといっても、ノルドの村長宅よりずっと小さい。
出てきたのは、腰の曲がった老人だった。
「旅人?」
「はい」
セラが事情を説明する。
東へ向かっていること。
水と食料を補給したいこと。
そして、道について聞きたいこと。
老人は何度か頷いた。
「水は好きなだけ持っていきなされ。食い物は多くはないが、干した芋なら分けられる」
「ありがとうございます」
レグの目が動く。
「干しいも?」
「食べたい?」
「うん」
「あとでね」
老人が笑った。
「好きなら少し多めに持たせよう」
「ほんと?」
「レグ」
「ありがとう!」
今度は先に言えた。
「成長してる」
ハヤトが小さく言う。
「聞こえてる」
「ごめん」
水の話を終えたあと、カイルが地図を広げた。
「東の山を越えたい」
老人の表情が変わる。
「この道か」
「昔は通れたと聞いてる」
「昔はな」
「今は?」
「人はほとんど通らん」
「崩れてる?」
「道そのものはある」
「なら何で?」
老人は少し黙った。
それからレグを見る。
「さっき、この子が竜だと言ったそうだな」
「はい」
ハヤトは隠さなかった。
「本当に?」
「たぶん」
「たぶん?」
「竜です」
レグ自身が答える。
老人はしばらく彼女を見る。
「姿を変えられるのか」
「うん」
「誰に教わった」
「じぶんで」
老人の目がわずかに大きくなった。
「そうか……」
「何か知ってるんですか?」
セラが聞く。
老人は椅子へ深く座り直した。
「わしが子供の頃、この村には決まりがあった」
「決まり?」
「東の山で、竜を見ても追うな」
「それだけ?」
「声をかけられても、名前を聞くな」
ハヤトたちの空気が変わる。
セインの話と似ている。
「誰から伝わった決まりですか?」
カイルが聞く。
「知らん。わしの爺さんも、そのまた前からあったと言っていた」
「竜は実際にいた?」
「ああ」
老人は迷わず頷いた。
「わしも一度だけ見た」
「どんな竜?」
レグが前へ乗り出す。
「白い竜だった」
レグが止まった。
ハヤトは荷物の中にしまった一枚の鱗を思い出す。
「白銀の鱗?」
「そこまでは覚えておらん。遠くからだ」
「いつ?」
「六十年以上前」
レグの肩から少し力が抜ける。
ミレアだと決めつけるには古すぎる。
そもそも母親が何歳なのかも分からない。
「その竜はどこへ?」
「東へ飛んだ」
老人が窓の向こう。
山の方角を見る。
「昔、この村には東から来る旅人もいた。だが、ある時期からぱったり途絶えた」
「いつ頃?」
「三十年ほど前だ」
カイルがセインの話を思い出したらしく、地図を見る。
「セインが最後にこの辺へ来た頃と近いな」
「セイン?」
老人が聞き返した。
「竜です」
レグが答える。
「灰色で、大きい」
老人の顔から血の気が引いた。
「……灰色?」
「知ってる?」
「片方の角が欠けているか?」
今度はハヤトたちが驚く番だった。
「知ってるんですか?」
「見たことはない」
老人が首を横に振る。
「ただ、村に話が残っている」
「どんな?」
「東の境を見張る灰色の竜」
セラがレグを見る。
カイルも黙っている。
セインは自分の役目について、すべてを話してはいない。
「その竜がどうしたんです?」
ハヤトが聞く。
「昔は時々、この村へ人の姿で来たらしい」
「人で?」
「ああ」
老人が少し笑う。
「酒を飲みに」
「……」
ハヤトは一瞬、聞き間違えたかと思った。
「酒?」
「好きだったそうだ」
「セインが?」
レグが目を丸くする。
「真面目そうだったのに」
「見た目で決めるなよ」
「ハヤトも?」
「俺は別に真面目そうじゃないだろ」
「うん」
「即答するな」
セラが笑いを堪える。
少しだけ空気が和らいだ。
「その灰色の竜から何か伝えられてませんか?」
カイルが聞く。
老人はまた考える。
「一つだけ」
「何です?」
「東へ行くなら、夕暮れまでに《二本岩》を越えるな」
「越えるな?」
「ああ」
「何で?」
「その先は夜になると道が変わる」
ハヤトは眉を寄せた。
「道が動く?」
「昔からそう言われているだけだ。わしは行ったことがない」
「魔術?」
「知らん」
「二本岩って?」
「山道に入れば分かる。大きな岩が二本、柱みたいに立っている」
カイルが地図へ書き込む。
「そこまで何時間?」
「今からなら夕方前には着く」
「じゃあ今日は手前で野営?」
「それがいい」
老人は真剣な顔だった。
「竜の子を連れているなら、なおさらな」
「どういう意味?」
ハヤトが聞く。
「人間より、呼ばれやすいと聞く」
レグが胸元へ手を置いた。
昨夜まで聞こえていた名前。
「また声?」
「分からん」
老人は首を振る。
「ただ、昔の者は《夜の道に返事をするな》と言った」
イリス。
セイン。
そしてこの村。
離れた場所で、同じ警告が残っている。
偶然ではなさそうだった。
ハヤトはレグを見る。
「今日は二本岩の手前まで」
「うん」
「夜は何か聞こえても返事しない」
「わかってる」
「一人で動かない」
「うん」
「カイルも」
「何で俺まで」
「一応」
「お前に言われたくない」
「じゃあ全員」
セラがまとめた。
「夜は勝手に動かない。何か聞こえたら、まずみんなに言う」
「それで」
ハヤトも頷く。
話が決まる。
水を補給し、干し芋と少しの野菜を分けてもらった。
出発前。
レグは老人から干し芋を一枚もらい、半分だけ食べている。
「残りは?」
ハヤトが聞く。
「夜」
「珍しい」
「長い旅だから」
「計画性まで出てきた」
「ちゃんとしてる」
「はいはい」
村を出る。
来た道とは違い、今度は東へ続く細い山道へ入る。
しばらく歩いたところで、セラが振り返った。
「村、まだ見える」
「うん」
「地図じゃ、もっと大きいんだけどな」
カイルが古い印を見る。
「三十年で随分変わった」
「この先もそうかな」
「多分な」
地図にあるものが、今もあるとは限らない。
道。
村。
橋。
そして竜。
逆に、地図にないものが残っていることもある。
午後。
山道は少しずつ険しくなった。
クロが先頭を歩き、レグがその後ろ。
木々の隙間から、二本の細長い岩が見え始める。
「あれ?」
ハヤトが指す。
「多分な」
カイルが地図をしまう。
距離はまだある。
だが確かに、巨大な石柱のような岩が二本並んで立っていた。
「今日あそこまで?」
レグが聞く。
「手前で場所探す」
「まだ明るいよ」
「だから今のうち」
「そっか」
さらに進む。
するとクロが急に止まった。
「クロ?」
耳を立てている。
レグも足を止めた。
「何か聞こえる?」
「……うん」
ハヤトたちには何も聞こえない。
「声?」
レグは首を横に振る。
「歌」
セラの顔が変わる。
「どんな?」
レグは少し耳を澄ませた。
そして、ごく小さく同じ旋律を口ずさんだ。
修道院の隠された庭で思い出した。
ミレアが歌っていた、あの歌。
「……同じ?」
ハヤトが聞く。
レグが頷く。
「どこから?」
指したのは。
二本岩の向こう側だった。
まだ夕暮れには早い。
それでも、谷間には少しずつ影が落ち始めていた。
レグは一歩も進まない。
ただ、遠くから聞こえる母親と同じ歌を、黙って聞いていた。




