持ち帰るもの
竜の谷へ続くという線を見つけても、レグはすぐにはその場を離れなかった。
母親の鱗を両手で抱えたまま、泉のそばへ戻る。
「まだ何か探す?」
ハヤトが聞くと、レグは首を横に振った。
「もうちょっといる」
「うん」
今度は誰も急かさなかった。
カイルは岩壁に刻まれた線を自分の地図へ写し、セラは泉の水を眺めながらクロの頭を撫でている。セインは少し離れた場所に立ち、昔を思い出しているのか、何も言わず二つの石の椅子を見つめていた。
レグは真ん中の小さな窪みにもう一度腰を乗せる。
「せまい」
「さっきも言ってたぞ」
「やっぱりせまい」
「大きくなった証拠だな」
「うん」
満足そうだった。
しばらくして、レグが隣の大きな石を指す。
「おとうさん、ここ?」
「そうだ」
セインが答える。
「何してた?」
「座っていた」
「それだけ?」
「よく喋っていた」
「何を?」
「大半はどうでもいい話だ」
「たとえば?」
セインが少し考える。
「狩りで大物を仕留めた話を三倍ほど大きくして話したり、ミレアの料理は世界一だと言った直後に味付けへ口を出して怒られたり」
ハヤトが吹き出した。
「それは怒られるわ」
「おとうさん、ばか?」
「レグ」
セラが思わず止める。
だがセインは平然としていた。
「時々な」
「時々なんだ」
「本人に聞けば、絶対に違うと言うだろう」
レグは嬉しそうに笑った。
「じゃあ会ったら聞く」
「ああ」
「おかあさんは?」
「ここではよく歌っていた」
「さっきの?」
「同じ歌だ」
レグはまた短い鼻歌を口ずさむ。
セインが聞きながら、ゆっくり頷いた。
「最後のところが少し違う」
「どこ?」
セインが同じ旋律を低く歌う。
音は短い。
けれどレグは一度聞いただけで真似した。
「こう?」
「そうだ」
「覚えた」
「早いな」
「レグだから」
「それ理由になってる?」
セラが笑う。
ハヤトはそのやり取りを見ながら、少し不思議な気分になっていた。
レグが探していたのは、両親の居場所だけではなかったのかもしれない。
こんなふうに笑った。
こんなことを言った。
こんな歌を歌った。
今まで空白だった場所へ、少しずつ二人の姿が入っていく。
「セイン」
レグが突然呼ぶ。
「何だ」
「おかあさん、レグ好きだった?」
静かになった。
セインはすぐ答えなかった。
そのせいでレグの顔に、ほんの少しだけ不安が浮かぶ。
「……分からない?」
「いや」
セインが首を振る。
「どう言えば、お前に伝わるか考えた」
「普通でいい」
「そうか」
セインはレグの正面へしゃがんだ。
「ミレアは、お前をとても大事にしていた」
「ほんと?」
「ああ。ガルドもだ」
「でも、いなくなった」
その言葉には責める響きがなかった。
ただ事実を確認するような声だった。
「そうだな」
「なんで?」
「それは私にも全部は分からない」
セインはごまかさなかった。
「だが、お前を捨てて離れたとは思っていない」
「どうして?」
「最後に会ったとき、二人が一番心配していたのはお前のことだったからだ」
レグは鱗を見る。
「何て言ってた?」
「ミレアは、お前が自分で選べるようになるまで守りたいと言った」
「おとうさんは?」
セインの口元がわずかに緩んだ。
「『こいつは俺たちが思ってるよりしぶとい』」
「……」
「そのあとミレアに殴られた」
レグが笑った。
ハヤトも耐えられなかった。
「やっぱり怒られてるじゃん」
「でもガルドなりに信じていたんだろう」
「レグ、しぶとい?」
「かなり」
ハヤトが答える。
「ハヤトより?」
「比較するところそこ?」
「多分お前の方がしぶとい」
「やった」
「褒められてるのかな、それ」
セラが苦笑する。
レグは十分だったらしい。
母親の鱗を布へ丁寧に包み、ハヤトへ差し出した。
「持ってて」
「自分で持たなくていい?」
「なくしたらいや」
「責任重いな」
「なくさないで」
「絶対なくさない」
ハヤトは自分の荷物の中でも、一番奥の安全な場所へしまった。
黒い石とは違う。
何かを開く鍵でも、古代の装置でもない。
ただ一枚の鱗。
だからこそ、大事にしたかった。
カイルも地図を書き終えたらしい。
「セイン。確認したい」
「何だ」
「谷までの道、これで合ってるか?」
地図を広げる。
セインは横から覗き込み、何か所か指で示した。
「この川は今は渡れんかもしれない」
「橋がない?」
「昔からない。浅瀬を渡る道だったが、雨で地形が変わる」
「迂回は?」
「南から山を回れ。ただし二日は余計にかかる」
「ほかは?」
「ここ」
地図の狭い谷間。
「人間の集落が一つあった」
「今もある?」
「知らん」
「最後に行ったのは?」
「三十年ほど前だ」
「情報古すぎるだろ」
「私には最近だ」
カイルが額を押さえた。
「長命種と地図作るの難しいな」
「そこまで?」
ハヤトが覗き込む。
「三十年前の道を『この先に村がある』って言われても困るだろ」
「確かに」
セインが不思議そうな顔をする。
「三十年で村は消えるのか?」
「普通にある」
「人間は忙しいな」
「竜がのんびりしすぎなんだよ」
「そうかもしれんな」
今度はセラが尋ねた。
「竜の谷に入るとき、何か決まりはありますか?」
「ある」
「どんな?」
「まず、武器を抜くな」
ハヤトは自分の剣を見る。
「襲われても?」
「襲われたなら抜け」
「どっち?」
「先に敵意を見せるなという意味だ」
「なるほど」
「それと、竜の名を勝手に呼ぶな」
全員の表情が変わった。
「名前?」
「ああ」
「レグが聞いた名前も?」
「だから口にするなと言った」
セインはレグを見る。
「古い竜の中には、名をただの呼び方とは考えない者もいる。名を知ること自体が特別な意味を持つ場合がある」
「じゃあレグって名前は?」
「それは問題ない」
「もう一個だけ?」
「ああ」
「もし向こうから呼ばれたら?」
「相手を確認するまで返すな」
イリスの警告と同じだった。
レグは真剣に頷く。
「わかった」
「もう一つ」
セインがハヤトたちを見る。
「谷で何を言われても、この子の代わりに答えるな」
「俺たちが?」
「ああ」
「何で?」
「レグが何者なのか、誰の子なのか。それを理由に何かを求める者がいるかもしれない」
ハヤトは眉を寄せる。
「何かって?」
「役目。責任。帰属。昔の約束」
「……面倒そう」
「面倒だ」
即答だった。
「そのとき決めるのはレグだと?」
「そういうことだ」
セインはレグへ視線を移した。
「ミレアが守ろうとしたのも、そこだと私は考えている」
レグは分かっているのか分かっていないのか、少し考える。
「いやだったら、いやって言う?」
「そうだ」
「わかんなかったら?」
「分からないと言え」
「あとで決めるでもいい?」
「ああ」
レグが頷いた。
「できる」
「なら問題ない」
ハヤトは少し笑った。
以前なら、レグがちゃんと判断できるか心配して自分が先に口を出していたかもしれない。
今は違う。
必要なときは止める。
危険なら助ける。
でも決めるところまで奪う必要はない。
「そろそろ戻ろうか」
セラが空を見上げる。
岩の裂け目から差し込む光が、来たときより傾いていた。
「ノルドまで今日中に帰りたいし」
「うん」
レグが立ち上がる。
最後にもう一度だけ、三つの石を見る。
「また来る?」
ハヤトが聞く。
「わかんない」
「そっか」
「でも、覚えた」
レグが自分の胸を指す。
「なら大丈夫だな」
「うん」
隠された庭を出る。
地下の部屋を戻り、壁に残された文字のところでカイルが写し忘れがないか確認する。あれだけ急いでいたのに、最後だけ妙に時間がかかった。
「まだ?」
ハヤトが聞く。
「待て」
「さっき全部写したって」
「気になる文字がある」
「どれ?」
「お前に言っても分からん」
「じゃあ待つ」
「最初からそうしろ」
レグはその間、壁の小さな爪あとをもう一度見ていた。
「これ、噛むやつ取られて怒った傷だったね」
「たぶんな」
「おとうさんに言う」
「それも覚えてるんだ」
「大事」
「鱗と同じくらい?」
レグが真剣に考える。
「鱗の方」
「よかった」
セラが笑った。
階段を上り、祭壇の裏へ戻る。
外へ出るころには午後になっていた。
修道院の崩れた屋根から差し込む光の中で、セインが足を止める。
「私はここへ戻る」
「一緒に来ないの?」
レグが聞く。
「ノルドまで?」
「うん」
「人間の村へ竜の姿で行けば騒ぎになる」
「人でいけば?」
「そこまでして行く理由がない」
「ごはんあるよ」
「レグ」
ハヤトが止める。
「何だ」
「いや、誘い方が食事なんだなって」
「大事」
「否定はしないけど」
セインは小さく笑った。
「また会うこともあるだろう」
「谷に来る?」
「必要ならな」
「一緒に行けばいいのに」
「私がいれば、余計に話がややこしくなる者もいる」
「嫌われてる?」
「少し」
「何したの?」
「昔のことだ」
「またそれ」
レグが頬を膨らませる。
「いつか話す」
「約束?」
セインが少し間を置いた。
「ああ」
その返事には迷いがなかった。
「じゃあいい」
レグは手を上げる。
「またね」
「ああ」
「今度、戦う?」
「それは忘れろ」
「忘れない」
「そうだったな」
セインが困ったように笑う。
五人と一匹は修道院を出た。
石段を下りきったところで、レグが一度だけ振り返る。
セインはまだ入口に立っていた。
大きく手を振るわけでもない。
ただそこにいる。
レグは満足したように前を向いた。
「行こ」
「ああ」
帰り道では、不思議なほど何も起きなかった。
クロは草の匂いを嗅ぎながら歩き、レグは母親から聞いた歌を何度も小さく口ずさんでいる。ところどころ音が違うとカイルが言ったが、本人は気にしていなかった。
「カイル知ってるの?」
セラが聞く。
「さっきセインが歌ったの覚えてるだけ」
「じゃあ歌ってみて」
「嫌だ」
「何で?」
「絶対嫌だ」
「音痴?」
ハヤトが聞く。
「違う」
「じゃあ歌えるじゃん」
「歌わない」
レグが振り返る。
「カイル、歌って」
「お前まで来るな」
「聞きたい」
「断る」
「けち」
「何で歌わないだけでそこまで言われるんだ」
結局、ノルドへ着くまでカイルは一度も歌わなかった。
村が見えたころには日が傾き始めていた。
「帰ってきた!」
入口にいた村人が声を上げる。
「今日は人数増えてないな」
別の男が言った。
「増えてないよ!」
ハヤトが返す。
「昨日まで毎回増えてたから」
「そう言われると否定できないな……」
借りている家へ向かう。
扉を開けた瞬間、煮込み料理の匂いがした。
「ごはん!」
レグが一番に入る。
「ただいまより先なんだ」
セラが苦笑しながら続く。
中ではエドが鍋を見ていた。
「お、帰ったか」
「ただいま」
「遅かったな」
「色々あった」
「見りゃ分かる」
エドの視線がレグへ向く。
正確には、その表情。
「なんか見つけた顔してる」
「おかあさんの鱗!」
「いきなり全部言うのか」
ハヤトが笑う。
「鱗?」
奥からイリスが出てくる。
その後ろにはノアとディル。ヴァンも椅子に座ったままこちらを見ていた。
「お前ら本当に寝てた?」
カイルが聞く。
「寝た」
ヴァンが答える。
「セラが怖いから」
「聞こえてますよ」
「帰ってきて最初にそれか」
エドが笑う。
ハヤトは荷物を下ろす。
レグがすぐ隣へ来た。
「鱗」
「今出す?」
「うん」
「落とすなよ」
「落とさない」
布を開く。
白銀の鱗が現れる。
部屋の空気が少し変わった。
ヴァンが立ち上がろうとする。
「そのままで」
セラの声が飛ぶ。
「見るだけだ」
「座ったまま見えます」
「はい」
ディルが小声でノアへ聞く。
「いつからあんな感じなんだ」
「俺も昨日からしか知らん」
イリスが笑いながら鱗を見る。
「きれい」
「おかあさんの」
「本物?」
「セインがそう言った」
「セイン?」
カイルが椅子を引く。
「そこから話した方が早いな」
全員が卓の周りへ集まる。
レグは母親の鱗を自分の前に置き、ハヤトとセラがその両隣へ座った。
カイルが地図を広げる。
東へ伸びる道。
その先に、今日新しく書き足した印。
「まず」
カイルが言う。
「修道院に竜がいた」
「最初からすごいな」
エドが呟く。
「それから地下に、レグが昔来てた場所があった」
「ちょっと待て」
「さらに隠し通路の先に――」
「待てって」
ノアが手を上げる。
「一日で詰め込みすぎだろ」
ハヤトは思わず笑った。
「俺たちも途中からそう思った」
「順番に話して」
イリスがカイルを止める。
「その方がいい」
レグも頷いた。
「いっぱいある」
「だろうな」
卓の上。
白銀の鱗。
新しく書き足された地図。
写し取った古い記録。
そして、全員が帰ってきた夕食。
答えをすべて持ち帰ったわけではない。
むしろ新しく分からないことも増えた。
それでも今夜は、それでよかった。
レグが鱗を大切そうに両手で包む。
「まず、おかあさんの話する」
「うん」
セラが微笑む。
「どんな人だった?」
イリスに聞かれ、レグは少し考えた。
そして最初に選んだのは、竜の役目でも、古い印でもなかった。
「歌、うたう人」
その一言から、長い話が始まった。




