風の向こうに残るもの
「おかあさんのにおい」
今度は迷わなかった。
レグは隠された壁の前で、確かめるようにもう一度鼻を動かす。
「向こうからする」
ハヤトは壁を見る。
古い石が隙間なく組まれているように見えるが、クロが見つけた場所からは確かにわずかな風が流れていた。
「新しい匂い?」
「わかんない」
「今いるって意味じゃない?」
「それも、わかんない」
レグは少し困った顔をした。
「でも、おかあさん」
「そっか」
期待してしまう。
それでも、ここで勝手に答えを作るのは違う。
ハヤトは何も付け足さず、階段の方を見る。
やがて足音が近づき、セインが部屋へ入ってきた。
「呼んだか」
「これ」
レグが壁を指す。
「向こうに、おかあさんのにおいする」
セインの足が止まった。
「ここから?」
「うん」
今まで落ち着いていた金色の目が、初めて大きく揺れた。
「知らなかった?」
セラが尋ねる。
「……ああ」
セインはゆっくり壁へ近づいた。
手を当てることはせず、継ぎ目を目で追っていく。
「この部屋には入ったことある?」
「昔、一度だけ」
「そのとき壁は?」
「今と同じだった」
「ミレアさんと一緒に?」
「いや。ここへ来たときには、すでに二人が使ったあとだった」
カイルが横へ来る。
「隠し扉だと思うか?」
「おそらく」
「開け方は?」
「知らん」
「よし。急に俺たちと同じ側になったな」
「嬉しそうに言うことか?」
「何でも知ってるやつが一人いると仕事なくなるからな」
「そういう問題?」
セラが呆れた。
その間にレグは壁を見つめていた。
胸の奥。
黒い石が戻った場所が、ゆっくり温かくなっている。
「レグ?」
「ここ」
壁の中央から少し低い位置を指す。
「何かある?」
「見えない」
ハヤトにはただの石にしか見えなかった。
だがセインの表情が変わる。
「そこに手を近づけてみろ」
「触っていい?」
「まだ触れるな。近づけるだけだ」
「うん」
レグが掌を向ける。
石壁との間が、指一本分ほどになったところで――。
細い光が浮かんだ。
「あ」
円。
三本の線。
その中心に、小さな竜。
レグの印と同じものだった。
「またこれか」
ハヤトが呟く。
ただ、今までの施設とは少し違う。
冷たい機械のような光ではなかった。
淡く、ゆっくりと明滅している。
「触る?」
レグが聞く。
ハヤトはセインを見る。
「俺じゃなく本人に聞け」
「そうだった」
レグ自身へ向き直る。
「どうしたい?」
「開けたい」
「怖くない?」
「ちょっと」
「なら?」
「それでも見る」
答えは変わらなかった。
「分かった」
ハヤトは一歩だけ横へ立つ。
「何かあったらすぐ離れろよ」
「うん」
レグの指先が、光る印へ触れた。
何も起きない。
一秒。
二秒。
「……開かない?」
ハヤトが言った、その直後。
ご、と壁の奥で重い音がした。
「やっぱり開くんじゃん」
「焦るな」
カイルが灯りを掲げる。
石壁の中央に一本の線が入り、ゆっくり左右へ開いていく。
冷たい空気ではない。
草と土。
それに、かすかな花の匂い。
「地下なのに?」
セラが驚いている。
壁の向こうには細い通路があった。
その奥。
遠くに自然の光が見える。
「外につながってる?」
「行ってみる」
レグが進もうとする。
「今度は俺が先」
ハヤトが前へ出た。
「でもおかあさんのにおい」
「だからこそ」
「……わかった」
レグは不満そうではなかった。
剣へ軽く手を添え、ハヤトが通路へ入る。
クロがその後ろ。
レグ、セラ、カイル。
最後にセインが続いた。
通路は人が二人並べる程度の幅しかない。
壁は自然の岩ではなく、きれいに削られている。けれど魔術装置らしいものは見当たらなかった。
「足跡は?」
ハヤトが聞く。
カイルが灯りを下げる。
「古すぎて分からん。砂がほとんどない」
「クロは?」
レグが尋ねると、クロは地面ではなく前方へ鼻を向けた。
「何かあるみたい」
さらに進む。
光が強くなる。
そして通路を抜けた瞬間、ハヤトは思わず足を止めた。
「……ここ、地下じゃないのか」
頭上が開いていた。
巨大な岩の裂け目から陽の光が差し込んでいる。
そこだけ森の一部を切り取って隠したような、小さな空間だった。
草が生え、壁際には低い木まで伸びている。
中央には浅い泉。
水は今も澄んでいた。
「きれい……」
セラが小さく声を漏らす。
「こんな場所、外から見たことないぞ」
カイルが上を見上げる。
「岩壁に囲まれてる。上から入るのも難しそうだな」
セインだけは何も言わなかった。
じっと周囲を見ている。
「知ってる場所?」
ハヤトが聞く。
「いや」
「本当に?」
「ああ」
セインの声は普段より低かった。
「ミレアは、私にもここを教えなかった」
レグはすでに少し先へ進んでいる。
鼻を動かしながら、ゆっくり。
「レグ、一人で行くなよ」
「いる」
「何が?」
「いっぱい」
全員が身構えた。
「人?」
「ちがう」
レグが草の中へしゃがむ。
「おかあさんのにおい」
その場所。
草に半分埋もれるように、大きな平たい石があった。
レグが触れずに覗き込む。
「ここも」
次に泉のそば。
「ここも」
低い木の下。
「ここも」
レグは何かを追うように歩いていく。
けれど、その匂いは一方向へ続いているわけではない。
空間全体に残っている。
「ここにいたんだ」
セラが呟いた。
セインもようやく頷く。
「そうらしい」
「どれくらい?」
「匂いだけでは分からない」
レグ自身が答えた。
少しずつ、匂いの扱いにも慣れてきている。
いる。
いた。
その違いを決めつけない。
「おとうさんは?」
レグがまた鼻を動かす。
少し歩く。
「……いる」
「ガルドも?」
「たぶん」
泉の向こう。
岩壁の近く。
二つの大きな石が並んでいた。
自然に置かれたものではない。
椅子のように平らに削られている。
片方は少し大きい。
もう片方は小さめ。
その間。
さらに小さな窪みがあった。
「レグの席?」
ハヤトが言う。
「ちっちゃすぎない?」
セラがしゃがむ。
「竜の姿なら?」
「ああ」
レグも近づく。
真ん中の窪みへ手を置いた。
その瞬間。
「……あ」
「思い出した?」
レグは答えず、ゆっくり座った。
今は人の姿なので、当然小さすぎる。
無理やり腰を乗せているような格好になった。
「せまい」
「今のお前用じゃないだろ」
「昔は入った?」
「多分」
レグは左右の石を見る。
片方。
もう片方。
「おかあさん、こっち」
小さい方。
「おとうさん、こっち」
大きい方。
「レグ、ここ」
真ん中。
セラの表情が柔らかくなる。
「三人で座ってたんだ」
「うん」
レグは目を閉じた。
「水の音する」
今もしている。
小さな泉から流れる水。
「おかあさん、歌ってる」
ハヤトは黙る。
「どんな歌?」
「わかんない」
「そっか」
「でも、知ってる」
レグが小さく鼻歌を歌った。
音程も曖昧で、短い。
四つか五つの音が繰り返されるだけ。
それでもセインが反応した。
「……その歌」
「知ってる?」
「ああ」
「ミレア?」
「よく歌っていた」
レグの目が開く。
「ほんと?」
「ガルドが下手だと言って、そのたびに怒られていた」
レグが笑った。
「おとうさん、怒られてばっかり」
「大体は自業自得だ」
「セインも怒られた?」
「何度かな」
「なにした?」
「今は言わん」
「なんで?」
「昔のことだ」
「気になる」
「忘れろ」
「レグ、忘れるの得意」
「それは……」
セインが言葉に詰まる。
ハヤトは思わず笑ってしまった。
「そこ返しづらいよな」
「お前は笑うな」
レグも笑っている。
母親の痕跡を見つけた。
父親の痕跡もある。
それなのに、悲しい場所にはならなかった。
たぶんここは最初から、そういう場所だったのだろう。
家族三人が、人目を避けて過ごすための小さな場所。
レグが石から降りる。
「ほかにもある」
「匂い?」
「うん」
今度は泉の反対側へ向かった。
草をかき分ける。
クロも一緒についていく。
「ここ」
岩壁の下。
何か白いものが落ちている。
「骨?」
ハヤトが身構えた。
「違う」
セインが先に言った。
近づいて拾う。
手のひらより少し大きな、薄いもの。
「鱗だ」
白銀に近い色。
長い時間が経っているはずなのに、表面には淡い光沢が残っている。
レグが一歩近づいた。
「おかあさん」
「分かるのか?」
「うん」
セインも鱗を見つめた。
「ミレアのものだ」
「間違いない?」
「あいつの鱗はこの色だった」
レグが手を出しかける。
途中で止めた。
「さわっていい?」
セインは少し考え、鱗を差し出した。
「お前の母親のものだ。私が決めることではない」
レグは両手で受け取った。
光らない。
声も聞こえない。
何かの装置が動くこともなかった。
ただの一枚の鱗。
レグはしばらくそれを見つめている。
「どう?」
ハヤトが聞く。
「あったかくない」
「まあ、古いからな」
「でも」
レグは鱗を胸へ抱いた。
「おかあさん」
「うん」
「ほんもの」
今まで見つけたどんな記録より、その一言が確かに聞こえた。
セラが隣にしゃがむ。
「持っていく?」
「うん」
「大事にしないとね」
「うん」
カイルはその間、岩壁の方を調べていた。
「ハヤト」
「何?」
「こっち来て」
呼ばれて近づく。
岩の一部に、細い線が刻まれている。
「文字?」
「いや」
六本の線。
そのうち一本だけが、東へ長く伸びている。
「また地図?」
「多分な」
線の先。
小さな印。
山のような形。
「セイン、これ知ってる?」
呼ぶ。
セインが近づいた瞬間、表情が変わった。
「これは……」
「どこ?」
すぐには答えない。
レグも母親の鱗を持ったままやって来る。
「おかあさん、そっちいった?」
セインは線を見つめた。
「可能性はある」
「場所知ってる?」
「ああ」
「どこ?」
セインが東を向く。
「竜の谷だ」
カイルの眉が寄る。
「聞いたことない」
「人間はそう呼ばない」
「じゃあ何て?」
「今は名前すら残っていないだろう」
「遠い?」
レグが聞く。
「ここからなら、歩いて十日以上」
「行ける?」
「道はある」
ハヤトはレグを見る。
「行きたい?」
レグは母親の鱗を見た。
すぐには答えなかった。
以前なら迷わず「行く」と言ったかもしれない。
だが今は、ちゃんと考えている。
「今日は?」
「今日は無理だな」
「じゃあ」
鱗を大事そうに抱き直す。
「みんなのところ戻る」
「ノルド?」
「うん」
「そのあと?」
「そのあと決める」
ハヤトは笑った。
「ああ。それでいい」
急がなくていい。
痕跡は消えない。
そして、今のレグには帰る場所も、一緒に考える相手もいる。
セインが壁の線を見る。
「一つだけ覚えておけ」
「なに?」
「その谷へ行くなら、今までのようにはいかない」
「危ない?」
「それもある」
「ほかは?」
セインの金色の目がレグへ向く。
「あそこには、人の姿を選ばなかった竜もいる」
レグが首を傾げる。
「人、きらい?」
「嫌う者もいる」
セインはハヤトとセラ、カイルを見る。
「人間を連れて入ることを、快く思わない者もな」
静かだった小さな庭に、水の音だけが残った。
レグは母親の鱗を胸へ抱いたまま、少し考える。
そして。
「でも、ハヤトたちと行く」
迷いはなかった。
「置いていかない」
セインはしばらくレグを見ていた。
やがて、ほんの少しだけ笑った。
「……その辺りは、ミレアよりガルドに似たらしい」




