小さな爪痕
暗い階段を、レグがゆっくり降りていく。
先頭にいるのはレグ。そのすぐ後ろにハヤトとセラ、クロが続き、少し間を空けてカイル。セインは言った通り、階段の入口から数段降りたところで足を止めた。
「本当に来ないの?」
レグが振り返る。
「まずは、お前たちで行け」
「呼んだら?」
「行く」
「ちゃんと?」
「ああ」
それで納得したらしい。
レグは再び前を向いた。
カイルの灯りが石壁を照らしている。階段そのものは狭いが、途中に扉も分かれ道もない。ただ地下へ、緩やかに曲がりながら続いていた。
「覚えてる?」
ハヤトが聞く。
「ちょっと」
「どんな感じ?」
「おかあさん、前」
「うん」
「おとうさん、うしろ」
レグが振り返る。
「レグ、まんなか」
「挟まれてたんだ」
「うん」
その光景を想像する。
小さな竜だったレグが、母親の後をついて階段を降りている。後ろには父親。
今とよく似た並び方なのかもしれない。
そう思った瞬間、レグが足を止めた。
「どうした?」
「ここ」
壁の一部を指す。
特に文字があるわけでも、仕掛けがあるわけでもない。古びた石が並んでいるだけだ。
「何かある?」
「……レグ、ここでころんだ」
「え?」
「たぶん」
レグは壁を見つめながら、自分の膝に触れた。
「いたいってなった」
「階段で?」
「うん」
「それで?」
「おとうさん、笑った」
「笑ったの?」
「おかあさんに怒られた」
ハヤトは思わず吹き出した。
「なんか想像できるな」
「何で? 会ったことないでしょ」
セラが笑う。
「セインの話聞いたら何となく」
「確かに」
レグは二人を見た。
「ころんだのに、笑うの?」
「多分、大丈夫なの分かってたんじゃない?」
「ハヤトも笑う?」
「怪我してなかったらちょっと」
「じゃあ、おとうさんとおなじ」
「そこ似なくていいんだけどな」
レグは少し嬉しそうに、また階段を降り始めた。
やがて最後の一段へ着く。
地下は思っていたより明るかった。
「灯り?」
セラが見上げる。
天井付近に埋め込まれた白い石が、ほんのりと光を放っている。
「まだ生きてるのか」
カイルが近づいて観察する。
「魔石?」
「似てるけど違うな。魔力を貯めてる感じがしない」
「触らないでね」
「分かってる」
「ほんとに?」
「何で俺だけ念押しされるんだ」
ハヤトは答えなかった。
セラも答えない。
「お前らな……」
地下へ続く通路は一本だけだった。
ただ、これまで入ってきた古代施設とは雰囲気が違う。
金属の管もない。
生き物を拘束する鎖もない。
壁を埋め尽くす不可解な装置もなかった。
「家みたい」
レグが言った。
「家?」
「うん」
その言葉を聞いてから見直すと、確かにそう見えなくもない。
通路の途中には小さな部屋がいくつかあり、古びた棚や石の机が残されている。生活していた形跡こそ薄いが、実験や管理のためだけに作られた場所ではなさそうだった。
最初の部屋。
中には何もない。
二つ目。
壁際に割れた器。
三つ目へ入ろうとしたところで、クロが先に動いた。
「クロ?」
床の匂いを嗅ぎながら奥へ進んでいく。
レグもついていく。
「何かある?」
クロは部屋の隅で止まった。
そこには小さな石台があった。
上には何も載っていない。
だが、その下。
「……傷?」
ハヤトがしゃがむ。
石壁の低い位置に、細い線が何本も残っている。
三本。
四本。
また三本。
不規則な引っかき傷。
「古いな」
カイルも見る。
「文字じゃない」
「クロみたいな動物?」
セラが聞く。
レグが近づいた。
傷へ手を伸ばしかけて、寸前で止める。
「これ」
「覚えてる?」
「……レグ」
「え?」
「レグがやった」
ハヤトはもう一度傷を見る。
高さは床からほんの少し。
小さな竜が爪を立てれば、ちょうどこのくらいだ。
「何で?」
「わかんない」
レグはしゃがみ込んだまま、しばらくその傷を見ていた。
「怒ってた?」
セラが隣にしゃがむ。
「ちがう」
「遊んでた?」
「……たぶん」
そして。
「あ」
「何か思い出した?」
「おとうさん」
「何してた?」
「ここに手おいてた」
レグが石壁へ掌を当てる。
自分より少し高い場所。
「レグ、そこまで爪とどくかやってた」
ハヤトは傷の意味を理解した。
「背比べみたいなものか」
「せくらべ?」
「大きくなったか見るやつ」
「うん。それ」
レグは立ち上がる。
今の人の姿では、傷は膝より少し下にある。
「大きくなったな」
「うん」
「めちゃくちゃ」
「うん!」
レグは胸を張った。
セラが壁の上を見る。
「ほかにもないかな」
探してみると、少し離れた位置にもう一つ傷があった。
先ほどより高い。
さらにその横。
もう一段高い場所。
「何回か来てたのかな」
「セインは数日って言ってたな」
「その間に測ってたとか?」
「竜って数日でそんな育つ?」
「知らない」
視線がレグへ集まる。
「レグも知らない」
「だよな」
カイルは傷を見ながら考えていた。
「これ、時期が違う」
「分かるの?」
「風化の具合が違う。こっちの低い傷の方が古い」
「じゃあセインの記憶と違う?」
「それか、セインが知らない時期にも来てた」
ハヤトは一番高い傷を見る。
幼いレグが何度かここへ連れてこられていた。
少なくとも、その可能性がある。
「先行く?」
レグが聞いた。
「ああ」
部屋を出る。
通路の先には、今までより少し広い部屋があった。
中央に石の机。
奥には棚。
そして壁一面に、古い文字が刻まれている。
「やっと俺の出番か」
カイルが灯りを掲げた。
「読めそう?」
「見てから言え」
壁へ近づく。
少しずつ目で追っていく。
「……古いな」
「それは分かる」
「黙ってろ」
セラも隣から覗く。
「どう?」
「全部は無理だ。ただ、前の施設より文章になってる」
「何について?」
「竜……だな」
カイルの指が文字を追う。
「姿。名前。魔力……この辺は見たことある」
「人化?」
「多分、それも含んでる」
レグが興味を持って横へ来る。
「レグのこと?」
「お前個人かは分からない」
カイルはさらに先を読む。
やがて手が止まった。
「これ」
「何?」
「《名を隠す》」
ハヤトの表情が変わる。
「昨日の話か?」
普段使うレグという名前とは別に、封じられた名前がある。
そしてそれを不用意に口にすると、何かに居場所を知られる可能性がある。
「その先は?」
「待て」
カイルが時間をかけて読む。
「《呼ばれる》……いや、《探される》か?」
「誰に?」
「そこが読めない」
何度見ても分からないらしい。
「次」
「《印を……閉じる》」
「黒い石?」
「かもしれない」
「決めつけない方がいいね」
セラが言う。
「ああ」
さらに数行。
カイルの表情が難しくなる。
「ここから文字が違う」
「古くなった?」
「いや、書いた人間が違う」
「分かるの?」
「形が急に崩れてる。こっちは古代の記録じゃなくて、あとから誰かが書き足したみたいだ」
ハヤトが壁を見る。
「読める?」
「むしろこっちの方が新しい分、読みやすい」
「何て?」
カイルは最初の一行を見た。
次にレグ。
また壁へ戻る。
「……《この子の名を閉じる》」
誰も声を出さなかった。
「この子?」
レグが聞く。
「そう書いてある」
「レグ?」
「まだ分からない」
「次は?」
カイルが読む。
「《呼び声が届かぬように》」
ハヤトは昨夜のことを思い出す。
届いた。
知らない名前を呼ぶ声が、レグに。
「封じたのに聞こえた?」
セラも同じことを考えたらしい。
「印が戻ったから?」
「可能性はあるな」
施設で黒い石がレグの中へ戻ったのは、その直前だ。
「次」
カイルの声が少し低くなる。
「《私たちが離れたあとも》」
レグの顔から、さっきまでの笑みが消えた。
「離れる?」
「……続き読むぞ」
「うん」
「《この子が、自分で選べる日まで》」
そこで文章が一度途切れていた。
セラが小さく息を吐く。
「これ……」
「ミレアが書いた?」
ハヤトが聞く。
カイルは首を振る。
「名前がない。筆跡なんて俺には分からない」
レグが壁へ近づく。
文字には触れない。
ただ、見ている。
「おかあさん?」
返事はない。
当然だ。
壁に残っているのは、昔書かれた文字だけ。
ハヤトは何か言おうとして、やめた。
今は余計な言葉を挟まない方がいい。
レグが自分で次を尋ねた。
「まだある?」
「ああ」
カイルがその下を見る。
「短い」
「読んで」
「……《忘れてもいい》」
レグの目が揺れた。
「《思い出せなくてもいい》」
以前見た映像。
母親の声。
――忘れても、あなたはあなたのままだから。
あの言葉と重なる。
「最後」
カイルが少し間を置いた。
「《戻ることを、約束にしない》」
レグが瞬きをする。
「約束しない?」
「戻ってこい、とは書いてない」
ハヤトが答えた。
「来なくてもよかったってこと?」
「多分な」
「……セインも言ってたね」
セラがレグの横へ立つ。
「自分の足で戻ってきたなら、選ばせてって」
「うん」
レグはしばらく黙っていた。
「おかあさん、レグに会いたくなかった?」
その問いに、ハヤトの胸が少し詰まる。
「それは違うと思う」
「なんで?」
「会いたくないなら、こんなの残さないだろ」
壁を見る。
「忘れてもいいって、わざわざ書く必要もない」
セラも静かに頷いた。
「戻ってきてほしくないんじゃなくて、戻ることをレグの義務にしたくなかったんじゃないかな」
「ぎむ?」
「絶対しなきゃいけないこと」
「……帰らなくても?」
「うん」
「探さなくても?」
「たぶん」
レグは考える。
「でもレグ、来た」
「うん」
「自分で」
「そうだな」
少しずつ、表情が戻る。
「じゃあいい」
「早いな」
「だって来たかった」
それで終わった。
レグにとっては、本当にそれで十分なのだろう。
クロが横から鼻先を押しつける。
「クロもきた」
尻尾が一度動いた。
「セラも」
「うん」
「ハヤトも」
「ああ」
「カイルも」
「俺だけ最後か」
「四ばん」
「クロより後なのか」
「クロは家族」
「それなら仕方ないな」
妙に素直だった。
カイルは壁の残りを調べ始める。
「ほかに何かある?」
ハヤトが尋ねる。
「この辺は普通の記録だ。人化について……あとは魔力の違いとか」
「持って帰れる?」
「石壁を?」
「写せばいいじゃん」
「言われなくてもそのつもりだ」
「じゃあ任せる」
「最初から手伝う気ないだろ」
「古代文字書き写して間違えたら怒るだろ?」
「……触るな」
「ほら」
セラが呆れたように笑った。
レグはもう次の部屋へ顔を向けている。
「まだ先ある」
「行きたい?」
「うん」
通路はさらに奥へ続いていた。
次の部屋へ入る。
そこには記録も装置もなかった。
ただ、古い石の台が一つ。
その上に、小さなものが置かれている。
「何あれ?」
近づく。
布だった。
長い年月で色は抜け、触れれば崩れてしまいそうなほど古い。
その隣には木で作られた小さな輪。
「首輪?」
ハヤトが聞く。
「違う」
レグが即答した。
「知ってる?」
「これ……」
近づく。
今度は誰も止めなかった。
レグは触れずに、木の輪をじっと見る。
「おもちゃ」
「レグの?」
「うん」
「覚えてるの?」
「ちょっと」
木の輪の端には、深い噛み跡が残っていた。
ハヤトは笑う。
「めっちゃ噛んでるな」
「レグ?」
「他に誰がいるんだよ」
「クロかも」
クロが顔を上げる。
「いや、何年前だと思ってる」
レグは木の輪を見たまま、突然笑った。
「おとうさん、取った」
「何を?」
「これ」
「何で?」
「レグ、ずっと噛んでたから」
「それで?」
「レグ、怒った」
「さっきの壁の傷、それじゃない?」
セラが言う。
レグの目が丸くなる。
「あ」
数秒後。
「そうかも!」
「背比べじゃなかったのかよ」
「ちがった?」
「記憶ってそんなもんか」
ハヤトは笑った。
全部が正確に戻るわけではない。
断片。
匂い。
感触。
誰かの笑い声。
それでいいのかもしれない。
レグは木の輪を見つめながら、ぽつりと言った。
「おとうさん、返してくれなかった」
「根に持ってる?」
「うん」
「会えたら言う?」
「言う」
「最初に?」
レグは少し考えた。
「おかえり、のあと」
ハヤトは返事をしなかった。
セラも何も言わない。
ただ、二人とも少しだけ笑っていた。
そのとき。
部屋の奥で、クロが歩き始めた。
「クロ?」
壁の前。
鼻先を寄せる。
低く鳴いた。
「何かある?」
レグも近づく。
「風」
ハヤトには感じない。
「向こうに部屋?」
カイルが来て壁を調べる。
「……隙間があるな」
「扉?」
「多分」
だが取っ手も印もない。
レグが壁を見る。
胸元が淡く温かくなったらしい。
「また反応した?」
「うん」
「触る?」
ハヤトが聞く。
レグはすぐには動かなかった。
以前ならそのまま手を伸ばしていたかもしれない。
今回は自分で考えている。
「……セイン呼ぶ」
ハヤトは少し驚いた。
「先に?」
「うん」
「どうして?」
「おかあさんと約束してたから」
地下へ勝手に入らず、この場所を守っていたセイン。
その先に何があるのか分からないなら、知っている可能性のある者へ聞いてからでいい。
「そうしよう」
レグが振り返る。
「セイン!」
地下に声が響く。
少しして、階段の方から足音が返ってきた。
急いではいない。
だが確実に近づいてくる。
その間も、壁の向こうから風が流れている。
冷たい風ではなかった。
どこか外の空気に似た、わずかに草の匂いを含んだ風。
レグが鼻を動かした。
「……ハヤト」
「ん?」
「おかあさんのにおい」
今度は迷わなかった。
「向こうからする」




