覚えていないぬくもり
「私は一度、お前を抱いたことがある」
その言葉を聞いても、レグはすぐには何も言わなかった。
目の前の男をじっと見つめている。
金色の目。灰色の髪。右腕にわずかに残った鱗。
ハヤトは隣で黙って待った。
「……いつ?」
ようやく出た声は小さかった。
「正確な日は覚えていない。だが、お前はまだ自分で遠くまで飛べなかった」
「レグ、ちっちゃかった?」
「ああ。今よりずっとな」
男は片腕を胸の前へ出した。
「このくらいだった」
「……ちっちゃい」
「よく私の指を噛んだ」
「レグが?」
「歯も今ほど立派ではなかったがな」
レグが自分の口元を触る。
「覚えてない」
「当然だろう」
男の声に落胆はなかった。
「幼い頃のことを、すべて覚えている者など少ない」
「でも、おかあさんはちょっと覚えてる」
「なら、それで十分だ」
レグは少し考えたあと、男のすぐ前まで近づいた。
鼻を動かす。
「何してる?」
ハヤトが聞く。
「におい」
「覚えてるか?」
「……」
長いこと確かめる。
男も動かない。
「わかんない」
「そっか」
「でも」
レグがもう一度鼻を近づけた。
「いやじゃない」
男の金色の目が細くなる。
「それは光栄だ」
「名前は?」
突然だった。
「そういえば聞いてなかったな」
ハヤトも気づく。
巨大な竜だったことと、ガルドたちの話ですっかり抜けていた。
男はわずかに笑った。
「セインだ」
「セイン」
レグが繰り返す。
「そうだ」
「レグのこと知ってる、セイン」
「間違ってはいない」
セラも近くへ来た。
「セインさん。ミレアさんとガルドさんとは、どういう関係だったんですか?」
「友人、と呼ぶには少し違う」
「仲間?」
「それも違うな」
セインは石板へ目を向ける。
「同じ役目を持っていた時期がある」
カイルが反応した。
「役目?」
「古い場所を見張ることだ」
「施設を?」
「お前たちがそう呼んでいるものも含まれる」
ハヤトは腕を組む。
「じゃあ、各地に散らばってた竜と関係ある?」
セインの視線がこちらへ戻った。
「どこでそれを見た」
「途中の施設。六頭の竜が別々の方向へ行く記録があった」
「……そうか」
「知ってる?」
「知っている」
カイルが一歩前へ出た。
「六頭は何者なんだ」
「昔の竜だ」
「それは見れば分かる」
「なら質問を変えろ」
カイルの口が止まる。
ハヤトは少しだけ笑った。
「やっぱりカイルと相性悪そう」
「お前は黙ってろ」
セインは気にした様子もなく石板の埃を払った。
「六頭は、各地に残された場所を守った」
「施設を守った?」
セラが尋ねる。
「守ったものもある。封じたものもある。残したものもある」
「全部同じ目的じゃない?」
「違う」
「じゃあ、あの地図の《守る》と《残す》って読み方、両方合ってたんだ」
カイルが小さく呟く。
セインが彼を見る。
「お前、古い文字を読むのか」
「少しだけ」
「少しにしてはよくここまで来たな」
「褒めてる?」
「半分は」
「残り半分は?」
「無茶だと言っている」
「……もう聞き慣れた」
セラが横で頷いている。
「私もそう思います」
「何でお前まで」
セインはレグへ視線を戻した。
「ガルドとミレアも、そうした場所を守っていた」
「どこ?」
「一つではない」
「ここも?」
「ああ」
「じゃあ、レグもここに住んでた?」
「住んではいない」
セインは修道院の奥へ目を向けた。
「三人でここへ来たのは、長くても数日だったはずだ」
「何しに?」
「お前を連れてきた」
レグが首を傾げる。
「レグを?」
「ああ」
ハヤトの警戒が少し戻った。
「何のために?」
セインはすぐ答えなかった。
その間を見て、ハヤトは一歩前へ出る。
「危ないこと?」
「そうなる可能性はあった」
「だったら――」
「ハヤト」
レグが袖を引く。
「聞く」
「……うん」
レグ自身の話だ。
先回りして止めるべきではない。
セインは二人を見てから続けた。
「お前の中にある印を確かめるためだった」
レグが胸へ手を置く。
「石?」
「そうだ」
「何の印?」
「そこが私にも分からない」
「セインも?」
「あれを作った者たちは、私が生まれるよりずっと前の時代にいた」
「じゃあ何でミレアは持ってたの?」
「受け継いでいたからだ」
修道院の中へ風が抜ける。
崩れた天井から差し込んだ光の中で、細かな埃が舞った。
「誰から?」
「それは聞かなかった」
「聞かなかったの?」
「あの頃は必要なかった」
セインの声が少しだけ苦くなる。
「まさか、二人が急に姿を消すとは思わなかったからな」
レグが顔を上げる。
「消えた?」
「正確には、この場所を離れた」
「どこに?」
「東だ」
カイルがすぐ地図へ視線を落とした。
「さらに東?」
「ああ」
「理由は?」
「ミレアは話さなかった」
「ガルドは?」
「珍しく黙っていた」
「珍しく?」
セインの口元がわずかに緩む。
「ガルドはよく喋る男だった」
「……おとうさん、よくしゃべる?」
「黙っていれば威厳があるのに、三言も喋れば台無しになる」
ハヤトは思わずレグを見る。
「誰かに似てる?」
「ハヤト?」
「なんで俺?」
セラが吹き出す。
「自分から振るからでしょ」
「いや、もっと他にいるだろ」
「カイル?」
「俺を見るな」
久しぶりに軽い空気が流れた。
セインも微かに笑っている。
「ガルドは、こんな感じだった?」
レグが聞く。
「もっと騒がしい」
「ハヤトより?」
「相当だな」
「負けた」
「勝負じゃないから」
セラが呆れる。
レグは少し嬉しそうだった。
父親について、これまでほとんど何も分からなかった。
名前だけだった存在に、初めて性格が加わったのだ。
「おかあさんは?」
「ミレアか」
「うん」
セインの表情が変わる。
「静かな女だった」
「セラみたい?」
「私そんな静かじゃないよ」
「ハヤトより静か」
「比較対象がおかしい」
セインが二人を見てから首を振った。
「その娘とも違う」
「どんな?」
「自分の考えを簡単には口にしない。だが、決めれば変えない」
レグは真剣に聞いている。
「強い?」
「強かった」
「レグより?」
「当時のお前よりは遥かにな」
「今は?」
「知らん」
即答だった。
レグの眉が寄る。
「戦う?」
「なぜだ」
「どっちが強いか」
「会ってすぐ私と?」
「うん」
「やめとけ」
ハヤトが肩を掴んだ。
「聞いた直後に確認しようとするな」
「でも気になる」
「元気なときにして」
「ハヤト、いいの?」
「止めてもいつかやりそうだし」
「止めなよ」
セラがすぐ返す。
セインが声を出して笑った。
初めてだった。
低い笑い声が修道院の壁に響く。
「なるほど」
「何が?」
レグが尋ねる。
「少しガルドに似た」
「レグが?」
「ああ」
レグは自分の胸を張った。
「おとうさんに似てる」
「嬉しそうだな」
「うん」
その顔を見て、ハヤトも少しだけ安心する。
レグが欲しかったのは、両親がどれほど偉大だったかという説明ではないのかもしれない。
何を食べた。
どう笑った。
どんな話し方をした。
そういう普通のことの方が、今は大事なのだろう。
セラも同じことを思ったらしい。
「ミレアさんは、レグのこと何て呼んでました?」
セインが答えるまで、少し間があった。
「レグ」
レグの目が上がる。
「今と同じ?」
「ああ」
「もう一個の名前じゃない?」
ハヤトも気になっていた。
昨夜聞こえた、知らないのに知っているような名前。
壁に描かれた竜のそばにも同じ文字があった。
セインの表情がわずかに硬くなった。
「もう一つの名前を、どこで知った」
「声」
「声?」
「夜、東から聞こえた」
「何と呼ばれた」
レグは口を閉じた。
「言わない」
セインが一瞬だけ目を見開く。
「なぜだ」
「言わない方がいいって」
「誰に?」
「イリス」
ハヤトが補足する。
「古い施設で声に返事すると、向こうに居場所を知られる可能性があるらしい」
セインの顔から、先ほどまでの柔らかさが消えた。
「正しい」
「やっぱり?」
「ああ」
「じゃあ、あの名前は何?」
セインはすぐには答えなかった。
代わりに、崩れた修道院の外へ目を向ける。
東。
「その名は、普段使うものではない」
「竜の名前?」
「それに近い」
イリスが話していた古い記録と重なる。
人と暮らすときの名前。
竜同士で使う別の名前。
「レグにもある?」
「あった」
過去形だった。
ハヤトが気づく。
「あった?」
「ミレアが封じた」
「名前を?」
「ああ」
レグが胸へ手を置く。
「なんで?」
「守るためだ」
「何から?」
セインは祭壇の裏に開いた階段を見る。
「それを知るために、お前たちはここへ来たのだろう」
「地下に答えがある?」
「答えが残っているかは分からない」
セインは慎重だった。
「だが、ミレアは最後にここへ来た日、地下へ何かを残した」
「何を?」
「私は見ていない」
「なんで?」
「入るなと言われた」
「それで入らなかった?」
「ああ」
ハヤトは少し意外だった。
「何百年も生きてそうな竜なのに?」
「長く生きたからこそ、約束を軽く扱わない」
その返事に、ハヤトは何も言えなくなった。
「その約束、今も?」
セラが尋ねる。
「『私たち以外は入れるな』と言われた」
「じゃあ駄目じゃん」
「続きがある」
セインはレグを見た。
「『この子が自分の足で戻ってきたなら、選ばせて』」
レグの表情が止まる。
ハヤトも、セラも黙った。
呼び戻せではない。
連れてこいでもない。
自分の足で戻ってきたなら。
「だから待ってた?」
レグが聞く。
「ずっとここにいたわけではない。ただ、いつか来るかもしれないとは思っていた」
「来なかったら?」
「それならそれでよかった」
「なんで?」
「ミレアは、お前にここへ戻ることを望んではいなかったからだ」
「……?」
「戻るかどうかを、お前自身に任せたかった」
レグはしばらく黙っていた。
やがて振り返る。
ハヤトを見る。
次にセラ。
カイル。
クロ。
そして地下へ続く階段。
「行く」
答えは早かった。
ハヤトは念のため聞く。
「本当に?」
「うん」
「お母さんに言われたからじゃなくて?」
レグは首を横に振る。
「レグが見たい」
それなら止める理由はなかった。
「じゃあ行こう」
「みんなで」
「ああ」
セインが階段の前へ立つ。
「私はここに残る」
「来ないの?」
レグが聞く。
「これはお前に残されたものだ」
「でもセインも見ていい」
「そうか」
少しだけ考える。
「なら、入口までは行こう」
「途中から?」
「必要なら呼べ」
「うん」
カイルが荷物から灯りを取り出した。
「下はどのくらい深い?」
「知らん」
「入ったことないんだったな」
「ああ」
「何がいる?」
「知らん」
「罠は?」
「知らん」
「……急に頼りなくなったな」
セインの金色の目がカイルを見る。
「お前は分からない場所へ入るのが仕事なのではないか?」
「それ言われると何も言えない」
ハヤトは笑いながら剣を確認する。
セラも杖を握り直した。
クロだけは階段の匂いを嗅ぎ、しばらく動かなかったが、最後にはレグの隣へ立った。
地下から嫌な匂いがするわけではないらしい。
「行こうか」
ハヤトが言う。
レグが一段目へ足を置く。
その瞬間だった。
胸の奥にある印が、淡く温かくなる。
「レグ?」
「だいじょうぶ」
「何かした?」
「ううん」
レグは階段の下を見た。
「知ってる」
「何を?」
「この道」
セインの顔が変わった。
「思い出したのか?」
「ちょっとだけ」
レグは手すりもない石壁へ触れず、ゆっくり二段目を降りる。
「ここ、歩いた」
「いつ?」
「ちっちゃいとき」
さらに一段。
暗い地下へ続く階段。
「おかあさんと」
レグは目を閉じた。
「おとうさんもいる」
そして。
ほんの一瞬だけ。
ずっと途切れていた記憶の中に、二人の後ろ姿が浮かんだ。




