石段の向こう
石段の上を、大きな影が横切った。
その一瞬だけで、ハヤトは剣へ手を伸ばしていた。
隣ではセラが杖を構え、カイルも腰の短剣へ手をかけている。クロはレグの前へ出るように身体を低くし、修道院の入口へ向かって低く唸った。
「待って」
レグだけが動かなかった。
「レグ?」
「怒ってない」
「分かるの?」
「うん」
石段の上。
崩れた入口の暗がりから、ゆっくり何かが姿を現した。
最初に見えたのは頭だった。
人間の胴ほどもある大きな顔。頭部から後ろへ伸びた二本の角は片方の先が欠け、灰色がかった鱗には細かな傷がいくつも残っている。
次に前脚。
そして身体。
「……でかいな」
ハヤトが思わず呟く。
レグの竜形態とは比べものにならない。
修道院の入口を塞いでしまいそうなほど大きな竜だった。
翼は畳まれている。その片方には古い傷があり、膜の一部が裂けたまま塞がっていた。
竜は石段の最上段まで来ると、五人と一匹を見下ろした。
クロの唸り声が少し強くなる。
「クロ」
レグが背中を撫でる。
「だいじょうぶ」
竜の目がレグへ向いた。
深い金色。
しばらく、何も起きない。
やがて竜が喉を鳴らした。
低い音が石段まで震わせる。
『――遅かったな』
ハヤトには言葉として聞き取れなかった。
ただ、レグは目を瞬いた。
「何て?」
セラが小声で聞く。
「……おそいって」
「やっぱり話してるのか」
竜がもう一度声を出す。
今度は少し長い。
レグが眉を寄せた。
「全部分かる?」
「ちょっと」
「何て言ってる?」
「『思ったより……小さい』」
ハヤトはレグを見る。
「お前のこと?」
「たぶん」
『――聞こえているなら、前へ来い』
レグが一歩出た。
ハヤトが反射的に袖を掴む。
「一人で行くな」
「でも、来いって」
「なら一緒に行く」
竜が二人を見る。
その大きな鼻先がわずかに動いた。
『人か』
「何て?」
「ハヤト、人かって」
「見れば分かるだろ」
答えてから、通じていないことに気づく。
竜の目が細くなった。
『ずいぶん軽い人間だ』
「……なんか悪口言われてない?」
「かるいって」
「やっぱり」
セラが小さく吹き出した。
「初対面でも分かるんだ」
「セラ?」
「何でもない」
緊張していた肩から、ほんの少しだけ力が抜ける。
それでもハヤトは剣から完全には手を離さなかった。
レグと並んで石段を数段上る。
竜は襲ってこない。
ただ、レグの匂いを確かめるように鼻を近づけた。
クロが再び唸る。
竜が片目だけそちらへ向けた。
『あの獣は賢い』
「クロ、ほめられた」
「今?」
「かしこいって」
クロ本人はまったく嬉しそうではない。
「警戒されてるけどな」
竜の鼻先がレグの胸元で止まった。
そこにはもう何もない。
黒い石は、施設でレグの中へ戻った。
それでも竜には何か分かるらしい。
金色の目がわずかに大きくなった。
『……戻ったのか』
レグが胸へ手を置く。
「石?」
『それを石と呼んでいるのか』
「うん」
『そうか』
「何?」
ハヤトが尋ねる。
「石、戻ったのかって」
「知ってる?」
レグが竜へ聞く。
竜はすぐには答えなかった。
レグがもう一度、今度は古い言葉を探すようにゆっくり話す。
うまく発音できているのかは分からない。
それでも通じたらしい。
『知っている』
「!」
『だが、お前に説明するには、その言葉では不便だ』
「不便?」
レグが首を傾げる。
次の瞬間。
竜の身体を淡い光が包んだ。
「下がって!」
セラの声が飛ぶ。
ハヤトもレグを庇おうとする。
「ちがう!」
レグが止めた。
巨大な身体が光の中で縮んでいく。
翼が消える。
尾が短くなり、前脚と後脚の形が変わる。
ほんの数秒。
そこに立っていたのは、一人の男だった。
「……」
ハヤトは何も言えなかった。
背は高い。
年齢は六十を越えているように見える。灰色の長い髪を後ろで束ね、顔には深い皺が刻まれている。
ただし金色の目だけは、さっきの竜とまったく同じだった。
着ているのは簡素な灰色の服。
右腕には、鱗のような模様がわずかに残っている。
「これなら話しやすいだろう」
普通の言葉だった。
「喋れるんだ」
ハヤトが言う。
「昔はよく使った」
男は自分の両手を見る。
「この姿になるのも久しぶりだがな」
カイルが一歩前へ出る。
「人化……」
「そう呼んでいるのか?」
「ああ」
「間違いではない」
レグの目が輝いた。
「どうやった?」
「何がだ」
「人になるの」
男がレグを見る。
「覚えた」
「やっぱり!」
「やっぱり?」
「レグもれんしゅうした!」
急に嬉しそうになった。
「最初、しっぽ消えなかった」
「そうか」
「耳も」
「あるな」
「知ってる?」
「昔、同じ失敗をした者を何頭も見た」
レグがハヤトを振り返る。
「おなじ!」
「よかったな」
「うん!」
先ほどまで巨大な竜と対峙していたとは思えない。
レグはすっかり警戒を解いていた。
セラも杖を少し下げる。
「あなたがレグを呼んだんですか?」
男の視線がセラへ移った。
「呼んだ?」
「昨夜、この子に声が聞こえました。知らない名前を呼ぶ声が」
男の表情が変わった。
ほんのわずかだったが、ハヤトにも分かった。
「……名前を?」
「はい」
「返事は?」
「してない」
レグが答える。
男は明らかに安堵した。
「それでいい」
イリスと同じだ。
ハヤトの警戒が戻る。
「じゃあ、あんたじゃない?」
「私ではない」
「でもさっき『来たか』って」
「三日前から、この場所の下が騒がしかった」
男は修道院の床を指す。
「そして昨夜、久しく感じなかった印の気配が近づいた。だから待っていた」
「印って、レグの中にある石?」
「あれは石ではない」
「ヴァンも同じこと言ってたな」
「では、その者は少しは調べているらしい」
「何なの?」
男はレグを見る。
「私が答えていいものか分からん」
「なんで?」
「それは、お前に渡した者が説明すべきものだった」
「おかあさん?」
男の目が止まった。
レグは続ける。
「おかあさんにもらった」
「……そうか」
「ミレア?」
ハヤトが尋ねる。
男の顔から、それまでの余裕が消えた。
「その名をどこで知った」
声は低い。
敵意とは違う。
けれど空気が一気に変わった。
「レグの記憶。それと古い記録」
「もう一人は?」
「ガルド」
男が目を閉じた。
長い沈黙。
「知ってるんだな」
ハヤトが言う。
「知っている」
レグが男を見上げる。
「おとうさんと、おかあさん?」
「ああ」
「どこ?」
真っ直ぐな問いだった。
男は答えなかった。
「……いない?」
レグの声が少し小さくなる。
「そういう意味ではない」
「じゃあ?」
「今どこにいるか、私は知らない」
ハヤトは少しだけ息を吐いた。
生死すら断定しない。
今はそれでいい。
「最後に会ったのは?」
カイルが聞く。
「随分前だ」
「何年前?」
「人間の暦を長く数えていない」
「だいたいでいい」
「二十年には届かない」
ハヤトがレグを見る。
レグ自身の年齢ははっきりしていない。
少なくとも、話が合わない数字ではない。
「二人はここに来た?」
「ああ」
「一緒に?」
「最初はな」
その言い方にカイルが反応する。
「最初は?」
男は崩れた修道院の中へ視線を向けた。
「立ち話には長くなる」
「中、入っていいの?」
レグが聞く。
「そのために待っていた」
「俺たちも?」
ハヤトが自分を指す。
男は五人を順番に見る。
最後にクロ。
「獣も含めて好きにしろ」
クロはまだ警戒している。
「クロ」
レグが呼ぶ。
「いく?」
クロは男を見つめたあと、レグの横へついた。
「行くって」
「本人に聞いたのか?」
「うん」
「便利だな」
「しっぽでわかる」
「それ俺には無理だな」
男の口元がわずかに緩んだ。
「昔から、人間は分からないものをすぐ言葉にしたがる」
「悪かったな」
「否定はしていない」
「この人、ちょっとカイルっぽい」
「何で俺なんだ」
後ろから声が飛んだ。
男がカイルを見る。
「お前はよく喋るな」
「会って数分の竜にまで言われるのか……」
セラが笑いを堪えている。
男は先に修道院へ入っていった。
五人も続く。
中は外から見た以上に崩れていた。
天井は所々抜け、床には雨水が流れ込んだ跡がある。長い年月で壁画のほとんどは薄れているが、奥へ進むほど保存状態がよくなっていった。
途中でカイルが足を止める。
「ここだ」
「何が?」
「俺が最初に記録を見つけた場所」
壁の一角。
石板が何枚も埋め込まれている。
竜。
人。
二つの姿が並んで描かれたものもある。
「前に来たとき、あんたはいなかったぞ」
カイルが男へ言う。
「いた」
「え?」
「お前を見ていた」
「……どこから?」
「上だ」
全員が崩れた天井を見る。
「竜の姿で?」
「ああ」
「何で出てこなかった」
「お前一人だったからだ」
「一人なら出てこない?」
「待っていたのはお前ではない」
視線がレグへ向く。
「レグを?」
「正確には、その印を持つ者だ」
また印。
ハヤトは少しだけ嫌な感じがした。
「それって、レグじゃなくてもよかったってこと?」
男はすぐ答えなかった。
「そういう意味ではない」
「じゃあ?」
「私も、誰が来るのか知らなかった」
男はさらに奥へ進む。
祭壇らしき場所。
ヴァンが言っていた通り、その裏には地下へ続く階段があった。
「本当にあった」
カイルが呟く。
「お前が来たときは閉じていた」
「どうして今は開いてる?」
「一か月ほど前に勝手に開いた」
全員が止まった。
「一か月?」
セラが聞き返す。
「ああ」
エルナの森で異常な魔物が現れ始めた時期。
各地の施設が動き始めた時期。
東の街道から人が減り始めた時期。
また同じだ。
「何かした?」
ハヤトが聞く。
「何もしていない。だからこそ、ここに残っていた」
「下には?」
「降りていない」
「なんで?」
「開くべき時ではないと思っていた」
「でも今日は?」
男がレグを見る。
「判断する者が来た」
レグが自分を指す。
「レグ?」
「おそらくな」
「おそらく?」
「私にも分からないことはある」
ハヤトは少し安心した。
長く生きた竜が何でも知っている、というわけではないらしい。
男は地下へ降りず、祭壇の横へ向かった。
「まずこちらだ」
壁の一部へ手を当てる。
「ここ、ヴァンが言ってた記録?」
カイルが尋ねる。
「ヴァン?」
「黒い金属を耳の下につけてる男」
「……あれか」
「あれ?」
「三年前に勝手に裏から入ってきた」
「やっぱり勝手に入ってたのか」
「追い出した」
ハヤトは思わず笑った。
「ヴァン何してんだよ」
「本人は別の入口って言ってたぞ」
「間違いではない」
男は壁の古い板を外す。
「ただ、入口として作られた場所ではなかった」
「今度会ったら言っておく」
「やめてやれ」
カイルはそう言いながら少し楽しそうだった。
壁の奥から現れたのは、細長い石板だった。
文字がびっしりと刻まれている。
「これ」
カイルの顔が変わる。
「俺が見たのより保存状態がいい」
「表にあるものは写しだ」
「じゃあこっちが原本?」
「そう聞いている」
「誰に?」
男は少しだけ黙った。
「ミレアに」
レグが石板を見る。
「おかあさん?」
「ああ」
「ここにいた?」
男はレグへ向き直った。
「いた」
「いつ?」
「まだお前が、私の片手に乗るほど小さかったころだ」
レグが動かなくなった。
ハヤトも、セラも何も言えない。
男はしゃがみ、レグと目の高さを近づけた。
「ミレアはここへ来た」
静かな声だった。
「ガルドもいた」
レグの指が、自分の服をぎゅっと掴む。
「レグも?」
男はしばらく彼女を見つめた。
そして。
「ああ」
ゆっくり頷いた。
「お前もいた」
レグの目が大きくなる。
「私は一度、お前を抱いたことがある」
失われていたレグの記憶の中に、この修道院は確かに存在していた。
気づいたら100話突破!!




