第三十三話 逃走
「―――あれは、ボア・シャドーだねっ★」
500メートル先。
二人の少年を追いかける漆黒の巨大な猪の名を、エルザは額に手を翳して眺めながら言う。
ボア・シャドウ。
体長は15メートル。
顔の中心にある大きな豚鼻の両隣に巨大な牙が生えており、やはり猪と違って眼はなかった。
地鳴りのような足音を立て、ボア・シャドウは少年たちを轢き殺そうと猪突猛進していた。
「呑気にしてる場合じゃねぇよ、空宮! ってか―――」
レンは全力で逃げる二人の少年を指差す。
「なんでテメェら、≪魔晶術≫使わねぇんだよ!? それ使えば、余裕で倒せんだろ!?」
顔面踏み台があっても物理的に討伐不可能なモス・シャドウを除き、今の候補生が進化系シャドウを倒すには、≪魔晶術≫の使える者が数人いれば十分可能。
このボア・シャドウは、スパイダー・シャドウ2体分の戦闘能力を有する。
つまり、スパイダー・シャドウは単独で倒せるため、≪魔晶術≫を使える者が二人いれば十分に倒せるのだ。
そのことを、あの二人の少年たちだって理解しているはず。
イッキが訓練を行うのと同時に、シャドウの強さの指標を教えているのだから。
だから、二人の少年が≪魔晶術≫で倒さないということは、こうとしか考えられない。
「―――まさか、テメェら嘘ついてたのか!?」
「う、嘘じゃない! ホントに使えるんだ! だけど……」
「なんかよくわかんないけど、発動できないんだよ、チクショー!」
その返答を聞いて、レンは「はぁ?」と呆れ顔になる。
「使えるのに発動できないって、意味わかんねぇよ……! やっぱ嘘ついてんだろ、アイツら……!」
「ううん、嘘はついてないと思うなっ★」
「……どういうことだよ」
と、レンは少し怒気を込めてエルザに尋ねた。
「≪魔晶術≫って、精神状態に左右されるんだよねっ★ 今のあの二人は恐怖とか色々な感情で精神が不安定だから、発動したくても発動できないんだよっ★」
≪魔晶術≫の発動は、精神状態と密接に関わっている。
ボア・シャドウから逃げる二人の少年は、自分たちが協力して≪魔晶術≫を発動すれば倒せると理解していた。
が、規格外の大きさ、対峙した時の圧、何より発動する隙を与えずに突進してきたことによって恐怖してしまったのだ。
相手に心理的に優位な立場に立たれ、気持ちの面で負けた。
そうして≪魔晶術≫の発動で得た自信がポッキリと折れ、精神が不安定になり……すっかり臆病な≪魔晶術≫使えない組に戻ったのである。
エルザは振り返って、ミライを手招きした。
「ミライっち、来てっ★」
「うん」
ミライは頷くと、二人は同時に弾けるように地面を蹴った。
たった一瞬のうちに、二人の背中が小さくなるほど遠くまで進んでいた。
「ミライくんとエルザさんなら、あのお二人は無事ですね!」
後ろにいたアオイが、レンの隣に立ってそう言った。
アオイは落ち着いた様子だ。
ミライとエルザなら余裕で倒せると確信しているから、一切心配などしていなかった。
「あぁ、そうだな。そうなんだけど、アイツらが一緒にナニカする時って、大抵嫌な予感がすんだよな……」
レンは胡乱げな目で、ミライとエルザを眺める。
救援に向かったであろうその二人は、ボア・シャドウと少年たちと合流しそうになるまで近づいていた。
「空宮さん、星無さん!」
「俺たちを助けに来てくれたんですね……!」
全力疾走する二人の少年の顔が、絶望から希望に一転する。
ミライとエルザが跳躍した。
それを追うように、その少年たちは見上げると、
「「―――どうしてボア・シャドウに乗ってるの~~~~~~~~~~っ!?」」
ミライとエルザは、ボア・シャドウの背中に乗っていた。
「わぁ。エルザちゃん。スゴくはやいよぉ。このブタさぁん」
「ブタじゃなくて、イノシシだけどねっ★ 風になった気分で楽しーっ★ でも、まだ物足りないかなっ? ほら、もっとスピード上げて猪突猛進っ★」
エルザに応えるように、ボア・シャドウは咆哮を上げて、さらに加速する。
それに伴って、より二人の少年の逃げ足が加速し、悲鳴も大きくなって、流す涙の量も増えた。
この速度でも、平然とボア・シャドウの背中に立っているミライとエルザは、落ちる気配すらない。
物理法則が通用しないほど、この二人の体幹は人外レベルの領域にあったのだ。
「やっぱこうなると思った!」
「挑発してどうするんですか、エルザさん!」
笑い声と悲鳴を耳にしながら、レンとアオイは嘆いた。
「氷咲! お前の弓で―――≪魔晶術≫でなんとかしてくれねぇか!?」
「倒すまでとはいかなくても、足止めはできるはずです! その間にお二人を助ければ……氷咲さん、お願いします!」
振り返って、レンとアオイはサクラにそう頼む。
今現在、候補生がボア・シャドウを倒すには、≪魔晶術≫を使える者が二人必要。
対して、三人の中で≪魔晶術≫を使えるのは氷咲サクラのみ。
だから、ボア・シャドウを倒すことはできないが、たった一人の≪魔晶術≫でも足止めするくらいのダメージを与えられるはず。
その隙に二人の少年を救出しようと、レンとアオイは考えていた。
その二人の提案に了承して、サクラはコクリと小さく頷いた。
背負う黒弓に手を伸ばしながら、レンとアオイより前に出る。
黒弓を構えて引くと、黒矢が顕現した。
「サクラヅキ、力、貸して―――≪氷月花≫」
契約する悪魔に語りかけ、サクラは≪魔晶術≫を発動する。
唱えてから放たれた黒矢は―――十本の、雪花へと進化した。
その雪花は、間違ないなく氷の矢だった。
「やるじゃねぇか、氷咲!」
「美しい氷の矢……これなら、ボア・シャドウを倒せるはずです!」
高鳴る胸の鼓動と共に、ボア・シャドウを射抜こうとする氷の矢を見届けるレンとアオイ。
風を切り裂き、大気を凍てつかせて飛んでいく十本の雪花―――それがボア・シャドウに接近した瞬間、急に軌道が変わった。
放った、サクラの方へ向かってきた。
「「………」」
サクラのように、予想外の出来事で無言になってしまう。
レンとアオイは呆然と立ち尽くした。
ヒュン、と風切り音と共に、氷の矢が三人の間を通り過ぎる。
が、一本だけレンの頬に掠って血が滴り落ちた時、ようやく意識を取り戻した。
「どこ狙ってんだよ、氷咲! シャドウに囲まれてた時みてぇにやれよ!? オレたちを殺す気か!?」
「≪魔晶術≫、コントロール苦手」
「なら、大してオレたちとできること違わねぇ――――――っ!!」
(トップ2とワースト2のいるこの小隊では、必然的にちょうど中間の実力の方が組み込まれます。それが『≪魔晶術≫は使えるが、完全に扱いきれていない』サクラさん、ということですね……)
「にしては……コントロールが苦手というだけでは、済まないような気がしますが」
小隊の編成の真実に気づくと、アオイは苦笑した。
それから真剣な表情になり、レンを横目に見た。
「レンさん、どうします……。このままでは、ワタシたちは……!」
「ミライと空宮は遊び始めて、氷咲はポンコツだ……」
「ポンコツ、心外」
「加えて、オレと朽葉は≪魔晶術≫が使えねぇ……。それでも、やるしかねぇだろ!」
ボア・シャドウを睨みつけて、レンは黒剣を構える。
それから大きく息を吸い込み、言い放った。
「―――逃げるぞおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
気合の雄叫びとは裏腹の情けない宣言。
レンとサクラは振り返って、武器を持ったまま全力疾走した。
「はい! って、えー!? 逃げるんですか~~~っ!?」
遅れて、二人がボア・シャドウから逃げたことに気づき、アオイも黒槍を持ったまま後を追う。
―――どこまでも一途で真っ直ぐな少女は、『身を引く』という選択肢は頭になかったのだ。




