第二十九話 東京災禍
「天使? 聞いたことないんだけど……」
「俺たちの敵って、シャドウだけじゃないの?」
イッキが告げた『天使』という単語に、候補生は皆一様に疑問で眉をひそめる。
「天使は、『世界終末』発生後に確認され、そしてシャドウと同様、人間の殺戮を繰り返している。が、ヤツらと異なる点が二つある。それは―――シャドウと違って知能があること、そして進化系シャドウすら凌駕するほどの高い戦闘能力を有していることだ」
候補生の背筋に戦慄が走る。
震えた声で、候補生は言う。
「知能があるって……それじゃ、私たちみたいに『考える』ことができるってこと……?」
「それに加えて進化系シャドウよりもメチャクチャ強いって……そんなの無理じゃん! 俺たちじゃ、勝てっこないだろ……っ!」
「クソ……まだ力が足りないっていうのかよ、俺たちは!」
「草壁教官! どうして今まで、そんなヤバいヤツのこと隠してたんだよ!?」
自信を喪失し、己の無力感を痛感し、天使という存在を隠蔽していたことに怒りを覚える。
この時、候補生は、そのどれかの感情が胸に渦巻いていた。
「結局この世界は、仮初めの平和だったんだ……っ」
「……仮初めの平和、か。確かにそうかもしれないな」
どこから聞こえた候補生の一言に、イッキは呟きがちに同感した。
「しかし、たとえ仮初めであっても、人々の不安も、悲しみも、絶望も……少なからず解消される。これは事実だ。お前たちもこれまで―――この世界を、笑顔で過ごしていたはずだ」
候補生は俯く。
図星だったから。
候補生となる前まで、シャドウとは無縁の平穏な日々を、壁の中で過ごしていたのだ。
(リースさんの言っていたことと似てますね……)
それはアオイの潜在意識で、リースが言っていたことだ。
―――『魔晶器』に、悪魔が封印していることの隠蔽。
そうする理由も今回のことと同じで、民間人を不安にさせないようにするためだった。
アオイは、そのことを思い出していた。
「―――じゃあ、『東京災禍』はどうなんだよ」
『東京災禍』という単語が聞こえた瞬間、候補生は一斉に声を発したレンを見る。
レンはその視線など意に介さず、イッキを睨みつけて続けた。
「天使ってのが、関係してんじゃねぇのかよ」
「……ああ、その通りだ」
イッキがレンの推測を認めると、候補生は驚愕に目を見開いた。
「3年前。壁の中にシャドウが侵入し、ここ東京を未曽有の危機に瀕した『東京災禍』は―――天使が壁を破壊して引き起こされたものだ。我々は民間人を守り抜き、被害の拡大を食い止め、天使の撃退に成功した。……多くの幻滅師と、『暗月』の一人を犠牲にしてな」
―――最後の一言。
感情をあまり表に出さないイッキの表情が、悲痛に歪んでいる気がした。
けれど、それは、ほんの僅かな一瞬。
イッキはすぐに感情のフタを閉めて、元の険しい顔に戻した。
「―――ッ!」
(天使らが、朽葉を傷つけた諸悪の根源だったのか……ッ!)
奥歯を噛みしめ、拳をギュッと強く握り、レンの中にある負の感情―――怒りと憎悪が膨れ上がる。
……『東京災禍』の被害者の中に、朽葉アオイがいたからだ。
天使の存在を知った瞬間、レンの中である憶測が立った。
3年前、あの巨大な壁を破壊したのが天使だと。
それは実際にシャドウと戦闘し、シャドウに壁を破壊するほどの力は無く、また東京まで来れないことを知ったからだ。
その確証を得るために、『東京災禍』の黒幕が天使なのか、レンはイッキへ尋ねた。
そして―――その推測は、当たってしまった。
(≪魔晶術≫使えるようになって、もっと強くなってやる……! 天使、テメェらはオレの手で絶対に叩き潰してやる―――一匹残らず全てッ!!)
赤い怒りの炎を瞳に宿らせて、レンは決意する。
レンの復讐対象に天使が加わり、力への渇望がさらに大きくなった。
―――朽葉アオイを死の淵を彷徨わせた元凶である天使を、シャドウ同様に一匹残らず絶滅させるために。
それから、
「―――最後に、これだけ聞かせてくれよ」
その怒りを胸の内にだけ留め、どうしても聞きたいことがあり、レンはイッキに尋ねた。
イッキの険しい目がレンに向けられる。
「なんだ?」
「『東京災禍』から、民間人は明らかに違和感を持ち始めた。オレもそん中の一人だ……。友達が、朽葉が巻き込まれたから……」
「レンさん……」
「今は『天影軍』とイリス教がなんとかしてるけど……もし、もしも、また『東京災禍』みてぇなことが起きたら、今度こそ天使の存在を隠せなくなって、もっとみんなが絶望することになる。……平和だって思ってた世界が、壊れる瞬間の絶望をオレは知ってるから」
その絶望を、レンは二回も経験している。
両親を殺されたこと、友達が殺されそうになったことだ。
だから、俯きがちに言うレンの言葉には黒い説得力があり、声音も重たくなっていた。
それから顔を上げ、イッキに負けじと、鋭い眼差しでイッキを見据える。
「そんなことわかってんのに、どうして『天影軍』は天使の存在を公にしねぇんだ?」
「………」
イッキは沈黙し、その代わりに候補生がザワザワとした。
レンの疑問に共感したからだろう。
―――絶望することになる。
それは今まで信用していた『天影軍』とイリス教を信じられなくなり、下手したら暴動が起き、幻滅師の存続の危機になり兼ねない、ということだ。
もしそうなれば、力で無理やり鎮圧できるだろうが、民間人の守護を第一とする彼ら幻滅師はそんな手段など取りはしない。
一番最悪なのは……この世界に何もかも絶望して、自ら命を絶ってしまうことだ。
今ならまだその最悪は避けられる、とレンは瞳で訴えかける。
イッキは逡巡した後、目を瞑って告げた。
「……天使の存在を公表しないのは、ウルグ大司教の命令だ。そして『東京災禍』など、二度と起きることはない。―――この俺が、許さない」
そう最後に言い、イッキは開眼する。
その瞳は、レンよりも鋭く、今まで以上に険しく、そして赤よりも熱い―――静かな青い炎が宿っていた。
自分よりも、怒りに、悔しさに、憎しみに、殺意に満ちたイッキの瞳はまるで、憤怒そのもの。
最後と言っておきながら、納得するまでとことん聞いてやろうという魂胆だったが。
……それ以上、レンは何も聞けなかった。
◆
「―――まだ他に聞きたいことはあるか?」
元の険しい顔に戻ったイッキが尋ねると、一人の候補生から「草壁教官……」と弱々しい震えた声がした。
「……俺たち、最終試験で天使と戦うんだよな? それで、もしも倒せなくて、殺されそうになったら……草壁教官は、俺たちを助けに来てくれるよな?」
「い、いくらなんでも試験で命を落としたりなんかしないよね! ねえ!!」
候補生から、縋るような眼差しが一斉に向けられたイッキ。
……それを拒絶するように目を瞑って、拒否するかのように首を横に振った。
「―――俺たち教官は、助けには入らない」
変わらない声音で告げられて、候補生の顔が絶望に歪んだ。
「どう、して……」
「死地へ飛び込み、己の命を顧みずにシャドウや天使を滅し、人類の救済を遂げるために戦うのが―――俺たち、幻滅師だ。まだ候補生だから、自分たちが命を賭すことにはならない。……そんな甘い考えは最早、傲慢に他ならない」
しかし、その声には確かな冷たさと、幻滅師としての矜持が感じられた。
それを感じ取ったからか、候補生は何も言わずにただ俯く。
そんな彼らの頭上に、イッキはさらに言葉を浴びせた。
「いずれにせよ、死を恐れては前には進めない。そしてお前たちには、前に進む以外の選択肢は残されていない。……生きるか死ぬかは、お前たちの実力次第だ。ならば、生き残りたければ……強くなれ、強くなるための最善策を必死に考えろ。―――お前たちにできるのは、ただそれだけだ」
イッキが道を指し示すも、候補生の顔は青褪めたままで決心することはなかった。




