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1-90.静かな休日、約束ひとつ

 休日。


 協会の廊下は、珍しく静かだった。


「雫お姉ちゃんって、休みの日は何してるんですか?」


 不意に聞かれて、雫は足を止めた。


「……急にどうしたの?」


「いや、その……明日、予定空いてますか?」


 綾芽は少し視線を逸らす。


「よかったら、たまには遊んでください!」


 その言葉に、雫は一瞬だけ固まった。


 雫“お姉ちゃん”。


 普段は「雫さん」だ。

 距離を取るための呼び方。


 でも今は違う。

 無意識だろう。


 その響きが、胸の奥をくすぐった。


(……困る)


 こんな顔で見上げられて。

 断れるはずがない。


「……明日は、特に予定ないけど」


 言った瞬間、綾芽の顔がぱっと明るくなる。


 それを見て、胸が少し温かくなる。


(ほんと、単純なんだから)


「じゃあ、どこ行きたいの?」


「え、僕が決めていいんですか?」


「誘ったのはそっちでしょ?」


 綾芽は少し考えて——


「水族館とか、どうですか?」


 意外だった。

 もっと騒がしい場所を言うと思っていた。


「いいわね」


 そう答えると、綾芽は小さく拳を握った。


 その仕草が、子供で。

 でもどこか背伸びしていて。


「……雫お姉ちゃん、楽しみにしてます」


 その呼び方。

 まただ。


 今度は、はっきりと。


 胸が少し跳ねる。


(……やめてほしいわね)


 でも。

 嫌じゃない。


 むしろ。

 少しだけ、嬉しい。


「はいはい。寝坊しないでよ?」


 そう言って背を向ける。


 表情を見られないように。


 歩き出しながら、雫は思う。


(こんな日が、ずっと続けばいいのに)


 まだ、何も起きていない。

 まだ、平和な休日。


 それがどれだけ尊いか、

 二人とも知らなかった。



 次の日。



 水族館の午後。


 休日の水族館は、思ったより混んでいた。


「迷子にならないでよ?」


「子供扱いしないでください!」


 そう言いながらも、綾芽は半歩後ろを歩く。


 雫は自然と人波を読むように進む。

 歩き方に無駄がない。


「雫お姉ちゃん、あれ見てください!」


 指差す先は、巨大な水槽。


 青い光の中を、魚の群れが旋回している。


 綾芽の目は、きらきらしていた。


 その横顔を見て、雫は少しだけ微笑む。


(……本当に、子供ね)


 でもその笑顔は、どこか誇らしげだった。


「綺麗ですね」


 綾芽がぽつりと言う。


「ええ」


 答えながら、雫は一瞬だけ視線を逸らす。


 本当に綺麗なのは、水槽ではなく。


 無邪気に見上げるこの子の横顔だなんて、

 口が裂けても言えない。


「雫お姉ちゃんって、こういうの好きなんですか?」


「嫌いじゃないわ。静かで、落ち着くから」


 少しだけ、本音。


 普段は戦場の空気を読む側。

 でも今日は違う。


 隣にいるのは、守るべき存在。


 その立場が、少し心地いい。


「……雫お姉ちゃん」


 また、その呼び方。


 胸の奥が、わずかに跳ねる。


「何?」


「今日は、ありがとうございます」


 不意打ちだった。


 雫は言葉を失う。


(……こういうところよ)


 まっすぐで、遠慮がなくて。

 でも純粋。


「別に。暇だっただけ」


 そっけなく返す。


 だが声は、少し柔らかい。


「でも俺、楽しいです」


 綾芽は笑う。


 その笑顔を見て、雫はほんの少しだけ視線を伏せる。


(この時間が続けばいい、なんて)


 思ってはいけない。


 戦場に立つ者が、そんな願いを抱くのは。


 それでも。


「……また来てもいいわよ」


 小さな声で、そう言った。


 綾芽は気づかない。


 でも、雫の中では確かに何かが動いていた。

 

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