第2話 追放令嬢と魔導馬車
「――と、いうわけで! 明日の朝には王都を出発します!」
「待て」
王都アルフェリアの商業区画。その一角に建つ事務所を間借りしているベルナール商会臨時事務所にて、ミレイユは意気揚々と宣言した。
時刻は既に深夜を回っている。王宮での騒動から、およそ四時間が経過しており、ミレイユも比較的着飾っていたドレスを脱いで日頃の仕事着に戻っていた。
机の上には大量の書類が積み上げられ、壁際には木箱が所狭しと並んでいる。もともと在庫は多かったが、今はリリアーナから買い付けた婚礼用品も追加されており、今にも崩れ落ちそうだ。
ミレイユは部屋の中央に大きな地図を広げた。赤いインクでいくつもの印が付けられているそれは、ミレイユたちが辿ってきた旅路の軌跡だ。
ミレイユはその地図に、新たな線を一本引いた。
「王都からグレンツェシア王国までは、およそ六日の道のりね。途中で三つの町を通るから、仕入れと販売をしながら移動しましょう」
「だから待てと言っている」
「さっきからなあに、レオン」
振り返ると、護衛の青年が腕を組んで立っていた。
日頃から仏頂面が多いとミレイユは思っているのだが、その表情はいつにも増して険しい。
「明日の朝に出発というが、今何時だと思ってる?」
「あっ。もう今日だね! 今日の朝に出発ね」
「そういう話じゃない。当分アルフェリアに戻らないつもりなんだろう。この惨状で出られるのか?」
「確かに在庫はちょっと多いけど、魔導馬車に積めるだけ積んで、無理なものは商業ギルドに頼んで他の人に売ってもらうようにするよ! もちろん利益は少ないけど……」
「少ないどころか赤字だろう」
「甘いわね、レオン。リリアーナ様と知り合えたことでとっても黒字の予定なんだから」
「お前はその楽観思考をやめたほうがいいな……。王宮でのこともだ、王子怒らせてそのまま投獄とでもなったらどうするつもりだったんだ」
「あのときね! 本当に助かったわ、レオン!」
「…………」
反省の素振りすらないミレイユにレオンは深々とため息をついた。
ミレイユはそんな彼を気にする様子もなく、机の上に置かれた帳簿を開く。
「それより、問題は今日の出発よ。リリアーナ様のお荷物は公爵家から運び出してもらうとして、うちの荷物も整理しなきゃ」
「とりあえず荷物のほうは夜が明け次第、商業ギルドに掛け合ってくるか……」
「じゃあそれはレオンにお願いするよ。ギルドに持っていくにしろ、馬車に積むにしろ人手がいるしね」
「……本当に行くつもりなんだな」
「もちろん! 知らない街に行くのっていつもワクワクするよねえ」
もはやミレイユは旅立ちのことしか考えていないようだ。
レオンは眉間を押さえた。
「お前はいつも思いつきで行動しすぎだな……」
「失礼ね! ちゃんと考えてるわよ」
「考えてる? たとえば?」
「利益とか!」
「それ以外は?」
「……経費とか?」
「もういい。聞いた俺がばかだった」
レオンは脱力し、椅子に腰を下ろした。そのときだった。
事務所の扉が勢いよく開いた。
「ただいま、ミレイユ」
飛び込んできたのは、銀色の髪をした若い女性だった。
年齢はミレイユと同じくらいだろうか。肩口で切り揃えられた銀髪に、澄んだ紫色の瞳。小柄な体には、工具を入れるためのポケットがいくつもついた作業着を身につけている。
随分と急いだのだろう。頬を紅潮させ、肩で息をしている。
「おかえり、フィーネ!」
「聞いて聞いて。例の魔導炉、直ったよ。馬車の燃費が三割は改善する予定」
「三割!?」
ミレイユの目が輝く。
「すごいじゃない! それなら長距離輸送の経費がぐっと下がるわ!」
「でしょう。たくさん褒めて」
フィーネと呼ばれた女性はミレイユに抱きつきにいく。
ミレイユは両手を広げて出迎え、頭を撫でながら「偉い!」「天才!」と褒めちぎる。フィーネは嬉しそうに頬を緩め、ミレイユの肩に顔を埋めた。
「さすがうちの魔導技師! フィーネがいてくれて助かるよ!」
「えへへ。じゃあ、ご褒美に今夜は一緒に寝よ?」
「いいわよ!」
「おい」
ふたりの様子を眺めていたレオンが口を挟んだ。
「フィーネ。お前、昨日も一昨日もミレイユの部屋で寝ていただろう」
「そうだけど?」
「自分の部屋があるだろうが」
「あるよ?」
「なら使え」
フィーネは不思議そうに首を傾げた。
「なんで?」
「なんでって……」
「ここのベッド、広いし。ミレイユ、あったかいし。いい匂いするし」
「……そういう問題じゃない」
「もしかして、レオンも一緒に寝たいの?」
「なっ!?」
不意打ちを食らったようで、青年の顔が一瞬で赤くなった。
レオンのその反応に、フィーネはミレイユに抱きついたままにやりと笑う。
「あれあれ? 図星……?」
「違う」
「じゃあ、なんでそんなに怒るの?」
「怒ってない」
苛立たしげに目を逸らすレオンにフィーネは「ふうん」と鼻を鳴らす。
「じゃあ、うらやましい?」
「俺は別に――」
「ふたりとも!」
ミレイユはぱんぱんと手を叩いた。
「仲良くするのはとってもいいことだけど、お仕事の話しないと朝になっちゃう!」
「はーい」
「……誰のせいだか」
レオンの呟きは、誰にも拾われなかった。
三人は床に広げた地図を囲むように座る。ミレイユは赤い線を引いたばかりの箇所を指さす。
「今日の朝、グレンツェシアへ出発します!」
「グレンツェシアって……、建国祭が開かれるところ?」
「そう!」
「やった! ミレイユとデートだ!」
「デートじゃない。仕事だ」
「レオンも一緒?」
「当然だ。護衛がついていかなくてどうする」
「じゃあ三人でデートかあ……」
「仕事だと言っている」
フィーネはまるで聞いていない素振りで、ミレイユの腕に抱きついた。
「ねえねえ、今度は何を売りに行くの? それとも仕入れから?」
「今回はね、ちょっと特別なお客様をお連れするの」
「特別なお客様?」
「なんと! 公爵令嬢様よ!」
「へえ!」
フィーネは一拍置いてから、首を傾げた。
「……なんで?」
「ついさっき、婚約破棄されたから!」
「なるほど!」
「それで納得するな」
レオンの突っ込みは相変わらずフィーネには届かず、彼女は既に別のことを考えているようだった。
「公爵令嬢、ってことは……お金持ち?」
「すぐに自由になるお金があるかわからないけど……、たぶんね!」
「じゃあ、新しい魔導具買ってくれたりしないかな?」
「もちろん売り込むわよ! リリアーナ様の親戚のひとにもね!」
「やった!」
二人は笑顔で手を取り合っている。
レオンは何度目かのため息を吐いて天井を見上げた。
この商会には、まともな人間はいないのだろうか。少なくとも、自分以外には――。
◇
翌朝。
王都の東門近くに、一台の馬車が停まっていた。しかし、近づけば普通の馬車ではないことがわかる。
外見こそ上質な木材で作られた四輪馬車だが、車体の下部には淡い青色の魔法陣が刻まれており、屋根には小さな水晶が取り付けられている。
馬は二頭。どちらも栗毛の立派な馬だが、驚くべきはその足元だった。蹄が地面から、ほんの少し浮いているのである。
「……これは」
馬車を前にして、リリアーナ・フォン・エルムハルトは目を瞬かせた。
昨夜、王宮で婚約破棄を言い渡された公爵令嬢である。
淡い青色の旅装に身を包み、長い金髪を一つにまとめた彼女は、昨日よりも随分と落ち着いた様子だった。
「魔導馬車、ですか?」
「はい!」
ミレイユが得意げに胸を張った。
「ベルナール商会が誇る、最新鋭の長距離移動用魔導馬車です!」
「……馬が浮いているように見えるのだけれど」
「なんと! 浮いてます」
「やっぱり浮いているのね……」
「正確には、蹄にかかる荷重を軽減する魔法を使ってる。馬の疲労が少なくなるから、長距離移動にぴったりだよ」
馬車の最終点検を終えたフィーネが説明を引き継ぐ。
彼女は馬車の車体をぽんぽんと叩く。
「車輪にも衝撃吸収の魔法を組み込んでるから、揺れも少ないよ。あと、車内の温度調整もできるし、夜は簡易結界も張れるの」
「まあ……!」
リリアーナは感心したように馬車を見上げた。
「素晴らしい技術ね。王家の馬車でも、そこまでの設備はなかったわ」
「えへへ」
「こちらが開発者のフィーネです!」
ミレイユが紹介すると、フィーネはぺこりと頭を下げた。
「フィーネ・アルトマンです。よろしくお願いします」
「ええ、よろしくお願いするわ。私はリリアーナ・フォン・エルムハルト」
「リリアーナ……、あ、リリアーナ様……」
「ただのリリアーナで構わないわ。ミレイユも。もう畏まられる立場じゃないもの」
ミレイユとフィーネは顔を見合わせると、にこりと笑った。
「改めてよろしくね、リリアーナ! まあ、お客様なんだけどね!」
「ふふ。そうだったわね。でも、そうやって話してくれるほうが嬉しいわ」
「リリアーナ、ちなみに、馬車の中もすごいんだよ」
フィーネは嬉々としてキャビンの扉を開いた。
そこに広がった光景を見て、リリアーナは思わず息を呑んだ。
「……え?」
外から見た馬車は、せいぜい四人が座れる程度の大きさだった。昨夜売り渡した荷物を積み込むスペースもないような。
しかし、内部には広々とした空間が広がっていた。
向かい合わせに置かれた柔らかなソファ。中央には小さなテーブルがあり、壁際には収納棚が備え付けられている。
奥には、さらに別の扉まであった。
「……これは、空間拡張魔法?」
「そう!」
フィーネが嬉しそうに頷いた。
「内部空間を外見の約三倍に拡張してるの! あ、でもまだ試作品だから、あんまり重いものは載せられないんだ。馬車や馬にどんな影響が出るかわからないからね」
「三倍……」
リリアーナは呆然と呟いた。
空間拡張魔法は、高度な魔導技術の一つだ。
王都でも研究が進められているが、実用化には莫大な費用がかかると聞いている。
それを、一介の商会が所有している。
「……失礼だけれど、これほどの馬車を作るのに、一体いくらかかったの?」
その質問に、ミレイユがにっこりと笑った。
「実はですね、元になった馬車は格安で手に入れたんです!」
「格安?」
「はい! 以前、ある侯爵家が横領事件でお取り潰しになりまして」
「……横領?」
「その際、差し押さえられた馬車を競売で購入したんです。結構安かったんですよ、市民が荷馬車として使うには荷物は積めないし、かといって貴族の方が買うには出元がちょっと、ってことで」
ミレイユは嬉しそうに続けた。
「それからフィーネに改造してもらって、今の形になりました! あ、荷物はこの扉の先にちゃんと積んでありますよ!」
「……なるほど」
「ちなみに、こちらのソファは婚約破棄された伯爵令嬢から、食器類は離婚した子爵夫人から買い取ったものです!」
「…………」
「どれも品質は一級品ですよ!」
リリアーナはしばらく黙っていた。
そして、ぽつりと呟いた。
「……あなたの商会、そういうものばかり扱っているの?」
「はい!」
ミレイユは満面の笑みで答えた。
「訳あり商品、大歓迎です!」
リリアーナが返答に困っていると、商業ギルドに足を運んでいたレオンがやってきた。
なんともいえない表情のリリアーナと、笑顔のミレイユを見比べて状況を察したようだ。
「ミレイユ、あまり困らせるなよ」
「失礼ね! そんなことしてないわよ!」
「リリアーナ嬢、どうぞお手を」
レオンは無視して、リリアーナに手を貸して馬車へと乗せた。
ミレイユはむくれているが、ぶつぶつ言いながらも自分も馬車へと乗り込んだ。
レオンは御者台へと移り、出発の準備を始める。
「……レオンさん」
「はい、どうしましたか」
「私、とんでもない商人に捕まってしまったのかもしれないわね」
レオンは思わず吹き出しそうになり、少しだけ振り返る。
「今ならまだ引き返せますよ、お嬢様」
「聞こえてるわよ、レオン!」
ミレイユの声が馬車の中から響き、リリアーナとフィーネの笑い声が続いた。
◇
王都アルフェリアを出発してから二時間。
王都を離れた馬車は、なだらかな丘陵地帯を進んでいた。窓の外には、秋の陽光を浴びた黄金色の麦畑が広がっている。
リリアーナはソファに腰を下ろし、静かに紅茶を飲んでいた。
驚くほど揺れが少ない。
普通の馬車であれば、舗装されていない街道を走るたびに身体が跳ねるものだが、この馬車ではほとんど振動を感じなかった。
「……本当に快適ね」
「でしょう?」
向かいに座るミレイユが嬉しそうに笑う。
「長距離移動で一番大変なのは、身体への負担だからね。特に貴族の方は、普段から良い馬車に乗り慣れているだろうし……」
「ええ。でも、これほどのものは初めてよ」
「ありがとうございます!」
ミレイユは誇らしげに笑い、続けて手帳を取り出した。
こほん、と咳払いをして畏まる。
「それじゃあ、リリアーナ。早速だけど、今後のご予定についてお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「……予定?」
「はい! グレンツェシアに到着してから、どうなさるおつもりですか?」
リリアーナはティーカップを置き、思案する。
「そうね……。まずは叔母の屋敷に身を寄せて、とまでしか考えていなかったわ。お世話になるのだから、叔母の手伝いがなにか出来ればいいのだけれど」
「お仕事などに興味はありませんか?」
「お仕事?」
意外そうな声だった。
事業のこともあるし、叔母の手伝いも十分仕事と言えるものになるのだろう。けれど、ミレイユが聞きたいのはそうではなかった。
「ええ。何かやってみたいことはありませんか? 本当に何でもいいんですよ!」
「……そうね」
リリアーナは少し考え込んだ。
彼女は公爵家の令嬢として生まれ、幼い頃から王子の婚約者として育てられてきた。
礼儀作法、政治、外交、歴史、経済。将来の王妃に必要な知識は、一通り身につけている。
しかし。
「……考えたことがなかったわ。今も、何も思い浮かばないくらい」
彼女は小さく呟き、ドレスの裾を握りしめた。
「私は、王妃になるために育てられてきたの。だから、それ以外の人生なんて、想像したこともなかった。」
「……、なるほど。リリアーナは、王妃になりたかった?」
「どうかしら。王妃になるのが当たり前だとずっと思っていたのだけれど……。昨日、婚約を破棄されて……正直、少し安心したの」
リリアーナは窓の外を眺めながら思い出すようにゆっくりと言葉を紡ぐ。
ミレイユは黙って耳を傾けた。
「殿下とは、幼い頃から婚約していたわ。でも、あの方は昔から私を好いていなかった。口うるさいと思っていたのかもしれないわね。私も……、あの方を愛していたわけではなかった。仲の良くない兄弟みたいな感覚が近いかしらね」
「……。そうだったんですね」
「ええ。ただ、私と殿下がお互いどんな感情を抱いていたとしても関係がないのよ。王家と公爵家の取り決めだったのだから。私が王妃になることで、両家の関係が安定する。王妃として上手くやれば、国が安定する。それが私の役目だった」
リリアーナの視線の先には、麦畑が広がっている。その向こうには、遠く青い山々が連なっていた。
遠くへと広がるその大地を、リリアーナは眩しそうに目を細める。
「だから、婚約を破棄すると言われたとき……悲しいというより、肩の荷が下りた気がしたの」
「……」
「でも、いざ自由になってみると、何をすればいいのかわからないのだから情けないわ」
彼女は困ったように微笑んだ。昨夜の夜会で見たときよりもよほど寂しそうだとミレイユは思った。
ミレイユはしばし考え、やがて手帳を閉じた。
「リリアーナ、ひとつ聞いてもいい?」
「なにかしら」
「何か得意なことってある?」
「……得意なこと?」
「そう!」
ミレイユは身を乗り出した。
「お勉強でもいいし、趣味でも、何でもいいよ! 人よりちょっと、これ得意だな、上手にできるな、ってこと。ありませんか?」
「そうねえ……」
リリアーナは首を傾げた。
「外交儀礼や歴史には詳しいとは思うけれど……」
「ほうほう」
「ああ、それから王宮の予算管理も任されていたわね。婚礼の準備も、ほとんど私が取り仕切っていたし」
「……予算管理?」
身を乗り出したままの姿勢で、ミレイユはぴたりと動きを止めた。
じっと食い入るようにリリアーナを見つめているが、当の本人は気づいていない。
「ええ。王宮の年間予算の一部を管理していたの。もちろん、最終的な決裁は国王陛下だけれど」
「……ちなみに、どれくらいの金額を?」
「昨年度は、金貨にして八万枚ほどかしら」
「はちまん」
ミレイユは軽く仰け反った。
ベルナール商会の年間売上は、金貨およそ三千枚。その二十倍以上である。
「……それを、お一人で?」
「ええ。もちろん補佐官はいたけれど、最終的な確認は私がしていたわ」
「……帳簿も?」
「当然よ」
「……予算の削減なんかも?」
「そうね。昨年度は無駄な支出を見直して、全体の一割ほど削減したかしら」
あれは褒められたわねえ、とリリアーナは懐かしそうに笑った。
ミレイユはゆらりと立ち上がる。隣りに座るフィーネが危ないよ、と声をかけてくれたが耳に届いていない。
「リリアーナ様」
「はい?」
「お仕事、探していらっしゃいませんか?」
「……え?」
「実はですね、当商会では現在、経理担当者を募集しておりまして!」
「……経理?」
「はい!」
ミレイユはリリアーナの両手を握りしめた。
「帳簿の管理、予算の調整、取引先との交渉! そういったお仕事ができる方を、ずっと探していたんです!」
「でも、私は商人として働いた経験なんて……」
「大丈夫です!」
「……大丈夫なの?」
「もちろん! 王宮の予算を管理できる方なら、うちの帳簿なんて朝飯前ですよ!」
リリアーナは困惑したようにミレイユを見つめた。
「……あなた、本気で言っているの?」
「大真面目です!」
「私、昨日まで王子の婚約者だったのよ?」
「はい!」
「王子に婚約破棄された、いわば訳ありの人間よ?」
「はい! 大歓迎です!」
ミレイユは、にっこりと笑った。
「帳簿は読めるんですよね?」
「……ええ」
「予算も組める?」
「……ええ」
「交渉もできる?」
「それは、もちろん」
「なら! 問題ありません!」
あまりにもあっさりとした返答に、リリアーナは思わず笑ってしまった。
同情で言っているのではなく、心からの言葉なのだと信じられるのだ。
「……ふふっ」
「?」
「あなたって、本当に変わっているのね」
「よく言われます! ……褒めてくれてます?」
「ええ。褒めているわ」
「ありがとうございます!」
ミレイユの笑顔に笑みを返して、リリアーナは目を閉じる。
脳裏には必死に学んできた幼いころの自分の姿が思い浮かんだ。公爵家の令嬢として、王妃になるために学んできた知識、時間。
それらが、王妃になれなくなった今でも役に立つ。
そんなことは、考えもしなかった。
「……少しだけ、考えさせてもらってもいいかしら?」
「もちろんです!」
ミレイユは笑顔で頷いた。
「お返事は、いつでも構いません! あ、できれば私たちがグレンツェシアに滞在してるうちがいいかも」
「ええ。ありがとう。そんなに長くお待たせしないと思うわ」
「ちなみに、お給料は応相談です!」
「ふふっ。わかったわ」
リリアーナは再び紅茶を口に運んだ。すっかり冷めてしまっていたが、気にならなかった。
再び窓の外へと視線を向ける。その横顔は、昨日よりもずっと晴れやかだった。
◇
その日の夕方。
馬車は街道沿いの小さな宿場町に到着した。
ミレイユたちは宿を取り、夕食を済ませると、それぞれの部屋へと戻った。馬車の中は快適とはいえ、一日乗っていれば疲れは溜まる。フィーネとリリアーナはもう休むと言っていた。
しかし、ミレイユは違う。
「ふふふ」
宿の一階にある食堂。
夜も更け、客の少なくなった片隅の席で彼女はひとり、手帳を広げていた。
「公爵令嬢様がもしかしたら経理担当になってくれるかもだなんて、思わぬ収穫だわ」
魔石ペンが紙の上を走る。
「しかも、隣国の商業区画開発に関わっている叔母様まで……。うまくいけば、向こうに支店を作れちゃったりするかも……!」
ミレイユは小さく拳を握った。
「ふっふっふ……、最高ね!」
「……何が最高なんだ?」
背後から声がして、振り返る。そこには二つのカップを持ったレオンがいた。
「レオン、起きてたんだ」
「こっちのセリフだ。宿の主人がお前が不気味だって言ってたぞ」
「嘘!」
「嘘だ」
しれっとした顔をしているレオンにミレイユは頬を膨らませた。
レオンは軽く笑い、ミレイユの前にカップを置く。中を覗けば、温かいミルクだ。
「あ、これ、私の好きな蜂蜜入り?」
「ああ」
「ありがとう」
ミレイユは嬉しそうにカップを両手で包んだ。
甘い香りが鼻をくすぐる。
「レオンって、こういうところ本当に気が利くわよね」
「放っておけばまた夜更かししそうだからな」
「今日は早く寝ようと思ってはいたのよ」
「それ飲んだら早く部屋に戻れよ」
「はあい」
カップで指を温めているミレイユを見て、レオンは隣の席に腰を下ろす。
蜂蜜が入っていないミルクを揺らすレオンの横顔を眺めていると、ミレイユはなんとなしにむず痒い気分になる。
「ねえ、レオン」
「なんだ」
「私、レオンがいてくれて本当によかった!」
「な、んだ急に」
レオンは言葉に詰まったようだった。
ミレイユがにこにこと笑顔を向けると、気恥ずかしそうに目をそらされる。
「言っておこうと思って」
「……そうか」
「うん!」
「……なら、少しは俺の言うことも聞け」
「それとこれとは別よ!」
「おい」
ミレイユは笑いながらミルクを飲んだ。
機嫌のよさそうなミレイユを見て、レオンはため息をつく。
しばらく静かな時間を過ごしたが、ふいにレオンが口を開いた。
「……なあ、ミレイユ」
「なあに?」
「お前は、どうしてそこまで商売が好きなんだ?」
ミレイユの手が止まった。
「……どうして?」
「ああ。金を稼ぎたいだけなら、もっと楽な方法もあるだろう。お前は商売のためなら、危険な場所にも平気で飛び込んでいく。見ているこっちは気が気じゃないが……、お前を突き動かす何かがあるんじゃないか」
「うーん……」
ミレイユは考えるように手帳へと視線を落とし、表紙を撫でる。
続けて、窓の外を見た。宿場町の夜は静かで、街灯の代わりに設置された魔導灯が、石畳を淡く照らしている。時折酒に酔ってふらついた人々が通っていく。
「……私ね、昔、お父さんに言われたことがあるの」
「……?」
「商人っていうのは、物を売るだけの仕事じゃないんだって」
ミレイユはカップを置いた。
「誰かが困っているとき、その人に必要なものを届ける仕事なんだって」
「……」
「例えば、寒い人には毛布を。お腹が空いた人にはパンを。遠くへ行きたい人には馬車を」
彼女は小さく笑った。
「そうやって、誰かの困りごとを解決して、そのお礼にお金をもらう。それが商人なんだって」
「……なるほどな」
「だから、私は商売が好きなの」
ミレイユはレオンを見た。
「……私ね、いつかベルナール商会を、お父さんがいた頃よりも大きくしたいの」
「そうか」
「そうしたら、きっとびっくりすると思うのよね。こんなに大きくなったのかって!」
ミレイユは笑って、蜂蜜入りのミルクを口に運んだ。
「それにね、お父さんにはもうひとつ、教わったことがあるの」
「……なんだ?」
「理不尽な目に遭っている人がいたら、必ず助けてあげなさいって。その人がもう一度立ち上がって、幸せになれたなら、ひどいことをした人を見返すことだってできるだろうって」
「……なるほどな」
「そういうのを『ざまぁ』っていうんだって。ちょっと変わった言葉でしょう?」
「たまに聞くが、お前の親父殿は妙な言葉を使うんだな」
「そう? 格好いい言葉だと思うんだけどな。それに、困っている人がいるなら、そこには商人の仕事があるはずだって、お父さんが言ってたの!」
ミレイユは得意げに胸を張った。
「あ、もちろん、お金は大好きよ! いっぱい稼ぎたいし、美味しいものも食べたいし、いつか大きな商会になりたいし!」
「……それは知っている」
ミレイユはにこにこと笑っていたが、不意に「それにね」と声を落とした。
「誰かが困ってるのに、何もできないのが嫌なの」
その言葉に、レオンは彼女を見つめた。
普段は商売の話ばかりしている、騒がしくて、落ち着きのない女性。無茶ばかりするし、後先考えずに突っ込む癖もある。
けれど、彼女が大きな行動に移すとき。きっかけになるものがある。
それは金貨でも商品でもない。困ってる誰かだ。
「……そうか」
レオンは小さく笑った。
「なら、これからも付き合ってやるよ」
「えっ?」
「お前がどこに行くにしろ、護衛は必要だろう?」
ミレイユは目を丸くした。
堪えきれないようにぱっと笑顔になり、身を乗り出した。
「もちろん! これからもよろしくね、レオン!」
「……ああ」
「お給料も、商会が大きくなったら上げるから!」
「……そういう話じゃないんだがな」
「ん? 何か言った?」
「いや、期待してるって言ったんだ」
「ふふ。任せて」
胸を張るミレイユに、レオンは苦笑した。
気を取り直したミレイユは腕まくりをして、手帳と向き直る。
「さて、じゃあ今のうちに今後の計画を――」
「ばか、寝ろ」
「えっ」
「もう夜中だ」
「でも、せっかくやる気出たとこ――」
「寝ろ」
「……はい」
どうやら、こういうときばかりは、無茶を通す商会長も護衛の青年には逆らえないらしかった。
◇
翌朝。
宿場町の広場には、何やら人だかりができていた。
「……何かしら?」
出発の準備をしていたミレイユは、騒ぎに気づいて足を止めた。
広場の中央では、数人の冒険者が言い争っているのが見える。いや、よく見れば数人で一人を取り囲んで威圧しているようだ。
「だから! お前はもう必要ないって言ってるだろ!」
声を荒らげているのは、赤髪の青年だった。
腰には立派な剣を下げ、胸元には銀色の冒険者証が輝いている。
その前には、地味な服装の少年が立っていた。
「で、でも……! 僕がいなくなったら、皆さんの荷物は……!」
「うるさい! 荷物持ちなんて誰でもできるんだよ!」
「そうよ! 戦えもしないくせに、パーティーの報酬をもらってるなんて図々しいわ!」
「回復魔法も攻撃魔法も使えないんだから、足手まといなのよ!」
周囲の冒険者たちが、少年を口々に責め立てている。
少年は言葉に詰まり、俯いた。
「……わかりました」
小さな声を絞り出し、頭を下げる。
「今まで、お世話になりました……」
「ふん! せいぜい一人で頑張るんだな!」
赤髪の青年は鼻で笑うと、仲間たちを連れて去っていった。
周りの見物人も騒ぎが収束したのだと見て、散り散りになっていく。
残された少年は、広場の中央に立ち尽くしている。その手には、使い古された大きな鞄が握られていた。
「……あらあら」
ミレイユが呟いた。目が輝いている。
隣にいたレオンが、嫌な予感を覚えたように顔をしかめる。
「……おい、ミレイユ」
「ねえ、レオン」
「やめろ」
「今の聞いた?」
「聞いたが、関わるな」
「冒険者パーティーからの追放ですって!」
「……だから何だ」
ミレイユは少年を見つめた。
その瞳が、きらりと輝く。
「ねえ、レオン」
「……何だ」
「私、ずっと思ってたのよ」
「何をだ」
「うちの商会、そろそろ人手が足りないなって!」
レオンは目を閉じた。
そして、深々とため息をつく。
「……またか」
ミレイユは満面の笑みを浮かべた。
「――『ざまぁ』あるところに商機あり!」
そう言うなり、少年のもとへ駆け出していく。
レオンは天を仰いだ。
「……頼むから、せめて出発前に面倒事を増やすのはやめてくれ」
その願いが届くことは、もちろんない。
なぜなら。
「こんにちは! ベルナール商会のミレイユと申します!」
既に、彼女の商談は始まっていたからである。




