第8話:キッチンは冷戦の戦場
第8話:キッチンは冷戦の戦場
「……よし。構えは悪くない」
エルランド家の庭。普段の無骨な顔をほんのり赤く染め、柄にもなくソワソワしていたのは、Sランクハンターのジェラルドだった。
娘たちの教育費と家計の足しにするため、ジェラルドが始めた『個人剣術指導』。
その記念すべき最初の生徒としてやってきたのは、近所の魔法学園で教鞭を執る女性教師・エレナだった。
夜空のような紺色の髪に、知的な眼鏡、そして凛とした美貌。「実戦の基礎を学びたくて」と微笑む彼女を見た瞬間、あの『死神』ジェラルドの心臓が、生まれて初めて爆発的な鐘を鳴らしたのだ。
「……エレナさん。太刀筋に……迷いがある。俺が手本を見せる」
「まあ、ジェラルドさん。頼もしいですわ」
柄にもなくド緊張しながら、必死に格好をつけるジェラルド。
だが、その甘い空気は、リビングから陽気な声とともに現れた男によって一瞬で打ち砕かれた。
「やあやあ! 稽古の合間に、特製のハーブティーと焼き立てクッキーはどうだい?」
エプロン姿のジョシュアだった。ジョシュアは足元に寄ってきたミシェルをひょいと抱き上げると、自作のからくり人形を操ってミシェルとステラを大爆笑させていた。
「まあ……! お子供さんたちにそんなに優しくて、お料理もできるなんて素敵な方ね」
エレナの目が、一瞬でハートマークに変わった。
彼女が惹かれたのは、無骨で言葉の足りない最強剣士ではなく、明るく親しみやすくて子どもに優しい『理想の父親像』を備えたジョシュアだったのだ。
それからのエレナのアタックは凄まじかった。
剣術の稽古に来ているはずなのに、目線は常にキッチンで家事をするジョシュアへ。
「ジョシュアさん、このお料理のレシピを教えていただけますか?」
「え? ああ、いいけど……ジェシーの稽古はいいのかい?」
「ええ、少し休憩ですわ!」
庭で一人、大剣を構えたまま放置されるジェラルド。その背中には、あまりにも悲しすぎる秋風が吹いていた。
事件が起きたのは、稽古が終わった後の夕方だった。
ダニエルがルチアたちの送迎で出かけており、家の中が静かだった時間。ジェラルドは「エレナさんに冷たい飲み物でも」と気遣い、静かにキッチンへと向かった。
しかし、キッチンの影から聞こえてきたのは、ジョシュアの焦った声だった。
「ちょ、ちょっとエレナさん!? 熱いお茶が——あっと!?」
「きゃっ!?」
滑りかけた湯呑みを庇おうと、ジョシュアが素早く手を伸ばした瞬間、二人の体勢が崩れた。
キッチンのカウンターにジョシュアが押し付けられる格好になり、エレナがしがみつくようにジョシュアの胸に顔を埋めていた。まるで情熱的に抱き合っているかのような体勢。
ポトリ。
ジェラルドの手から、お盆に乗ったグラスが床へ落ち、割れた。
「あ……ジェシー……!?」
ジョシュアが顔を跳ね上げ、青ざめる。エレナは赤くなった顔でしがみついたままだ。
ジェラルドは無言だった。
眼鏡の奥の瞳を冷たく凍りつかせ、何も言わずに静かに背を向けると、自分の部屋へと去っていった。
「待て! ジェシー、誤解だ! いまのは事故で——!!」
ジョシュアの悲痛な叫びも、重く閉じられた扉の音にかき消された。
それ以来、エルランド家には恐ろしい『冷戦』が漂い始めた。
朝の食卓。
「……おいジェシー、塩を取ってくれ」
「……」
ジェラルドは無言で塩壺を掴むと、テーブルが割れんばかりの力でドスン!とジョシュアの前に置く。
「ひぃっ!? ご、ごめん……」
ジョシュアが怪しげなからくりやお菓子で機嫌を取ろうとしても、ジェラルドは徹底無視。あるいは殺気全開の眼光で睨みつけるだけだ。
「お父様……ジョシュアおじちゃんとジェシーおじちゃん、ケンカしてるの?」
長女のルチアが不安そうにダニエルに耳打ちする。
「……ふむ。男の嫉妬と誤解というやつだな」
白衣のダニエルは胃薬を飲みながら溜息をついた。事情はすでにジョシュアから聞いていた。
「だが、家庭内に殺気を持ち込むのは許さん。二人とも、今日の夕食までに仲直りできなければ、二人揃って家から締め出すぞ」
冷徹なダニエルの警告にも、ジェラルドの凍てついた態度は崩れなかった。
しかし、冷戦は思わぬ形で終止符を打つことになった。
数日後。未練を断ち切れないエレナが、再びエルランド家を訪れたのだ。今度はジョシュアへの手作り菓子を抱えて。
「ジョシュアさん! 私の気持ち、受け取ってください!」
玄関で詰め寄るエレナ。困り果てるジョシュア。
そこへ、部屋から出てきたジェラルドが通りかかる。
「あ、ジェラルドさん! ちょうど良かったわ」
エレナはため息を吐き、冷たい口調で言った。
「申し訳ありませんが、剣術指導は今日でやめますわ。だって……あなた、教え方は不愛想で怖いですし、何よりジョシュアさんに比べて全然親切じゃないんですもの」
その言葉を聞いた瞬間——
バンッ!!
玄関の壁を強く叩いたのは、ジェラルドではなく、ジョシュアだった。
普段のおちゃらけた顔は消え、ジョシュアの瞳に本気の怒りが宿っていた。
「……エレナさん。その言葉、撤回してください」
「え……?」
「俺を評価してくれたのは光栄ですが……ジェシーを愚弄することは絶対に許さない。あいつは口下手だけど、誰よりも真剣にあなたとの指導案を考えていた! 誰よりも優しくて、命がけでこの家の子供たちを守っている世界一のハンターなんだ!」
ジョシュアはエレナの手弁当を丁寧に、けれど固い拒絶を込めて押し返した。
「仲間と、その優しさを踏みにじる人とは、お付き合いできません。お引き取りください」
エレナは絶句し、プライドを傷つけられたように足早に去っていった。
静まり返った玄関。
「……すまん、ジョシュア。俺のせいで、振られちゃったな……」
ジョシュアが弱々しく笑う。
ジェラルドは無言で歩み寄ると、自分の太い腕で、ジョシュアの首をガシッと力任せに抱え込んだ。ヘッドロックのような、不器用すぎる感謝のハグだった。
「……ぐえっ!? じ、ジェシー、苦しい! 首が折れる!」
「……バカ野郎」
ジェラルドの声が、ほんの少しだけ震えていた。
「俺の惚れた女は……見る目がなかっただけだ。……悪かった」
「へへ……分かればいいんだよ、相棒」
ふたりが顔を見合わせてニッと笑った瞬間、物陰から様子を窺っていた娘たちが一斉に飛び出してきた。
「よかったー! おじちゃんたち、仲直りしたー!」
ステラとルチアが抱きつき、ミシェルが「じぇしー! じょーい!」と二人まとめて抱っこをねだる。
ダニエルが奥からハーブティーを持って現れ、呆れ顔で眼鏡を押し上げた。
「まったく、子供の手がかからないと思えば、大人の男の手がかかる。……ジョシュア、ジェラルド。仲直りの記念に、今日の夕飯の皿洗いは二人で担当するように」
「「ええ〜っ!? 」」
二人のハーフエルフが同時に声をあげ、それを見た娘たちが大爆笑する。
恋の嵐は去り、ごちゃまぜファミリーにはいつもの賑やかで温かい日常が戻ってきたのだった。




