第11話:三十歳の誕生日と、沈みゆく愛車
第11話:三十歳の誕生日と、沈みゆく愛車
「……三十だ。私は今日、ついに三十歳になってしまった……」
三十歳の誕生日の朝。ダニエルは鏡の前で自分の目元を凝視し、絶望に満ちた溜息を吐いていた。
「二十代が終わった……! 若き宮廷医師の時代は去り、私はただの冴えない中年ハーフエルフになってしまったんだ……!」
過剰なまでに『三十路』の重みにショックを受けるダニエル。そこへ、朝食の準備をしていたジョシュアとジェラルドがやってきた。
「何を朝から黄昏れてるんだよダニー! 三十なんて男の渋みが出てこれからだろ!」
「……三十など、ハーフエルフの寿命からすれば赤ん坊だ」
「二人には分からんのだ! 人間だったセレーナが三十歳を迎えた時、彼女は本当に立派で温かい大人だった……! 手に負えないほど未熟な今の私とは大違いだ……っ!」
胃薬を煽るダニエルを横目に、ジョシュアとジェラルドはこっそり視線を交わし、ニシシと笑い合った。
実は二人は、今夜ダニエルのためにサプライズの三十歳誕生パーティーを企画していたのだ。
プレゼントもすでに決めてある。
ダニエルが亡き妻セレーナとともに買い、今も大切にお手入れして乗り続けている愛車——『クラシック魔導馬車』の特注高級レザーシートカバーだ。
「よしジェシー! 俺が家でケーキと飾りの準備をするから、お前は街の工房へ特注カバーを受け取りに行ってくれ!」
「……任せろ」
ジェラルドはダニエルの愛車の鍵(魔導キー)を借りて、颯爽と街へ向かったのだった。
王都の小高い丘の上にある、パーツ専門工房の駐車場。
「……ふむ。良い質感だ」
ジェラルドは無事に仕上がった赤革のシートカバーを受け取り、ダニエルの魔導馬車の座席に丁寧に装着してみた。これならダニエルも喜ぶはずだ。
満足気につぶやき、車を降りて扉を閉めた——その瞬間だった。
ドンッ!!
「ぐわっ!?」
居眠りをしていた大型の貨物馬車が、駐車していたダニエルの車に背後から激しく追突したのだ!
追突の激しい衝撃で、車のサイドブレーキ(魔導ロック)が物理的に破断。パーキングが外れたダニエルの愛車は、ガラガラと異音を立てながら、傾斜の急な坂道を下り始めた!
「なに……!? 待て! 止まれ!!」
ジェラルドが驚愕して叫ぶ。だが、無人の車は傾斜でどんどん加速していく!
「ウソだろおい——ッ!?」
巨体のSランクハンターが、必死の形相で暴走する魔導馬車を追いかけて坂道を爆走する!
「止まれぇぇぇぇ! ダニーに殺されるぅぅぅぅ!!」
ジェラルドは車に追いつくと、素手で車体を掴んで強引に止めようとしたが、相手は重量級の魔導車。擦過傷を負いながら振り払われ、車は坂を下りきった先にある港の崖へと一直線——
バシャアァァァァァン!!
港の冷たい海へとダイブし、ぶくぶくと泡を立てながら、ダニエルが何よりも大切にしていた愛車は海の底へと沈んでいったのだった。
「うおおおぁぁぁっ!!」
ジェラルドは躊躇なく崖から海へ飛び込むと、沈みゆく車内から、せめてもの思いで装着したばかりの『赤革のシートカバー』を力任せに引っぺがし、抱えて海面へと浮上した。
海を見下ろす岸壁の上で、全身濡れ鼠のまま膝から崩れ落ちるジェラルド。
「……俺の人生、終わった」
その頃、エルランド家では風船と紙吹雪で飾られたリビングで、楽しそうなパーティーの準備が進んでいた。
「お父様、お誕生日おめでとう!」
ルチアとステラが手作りのバースデーカードを渡し、ダニエルは「ありがとう、君たちのためにパパは三十代も頑張るよ……」と感動の涙を流していた。
そこへ、全身から海水を滴らせ、ワカメを頭に乗せたジェラルドが、亡霊のような足取りで帰宅した。
「ジェシー!? どうしたんだその格好! カバーは買えたのか?」
ジョシュアが叫ぶ。
「……ダニー」
ジェラルドは濡れた手で、ポツンと車鍵のキーホルダー(残骸)をダニエルに差し出した。
「……お前の車が……海に入った」
「……はい?」
ダニエルの時が止まった。
「だから……追突されて……坂を転がって……海へ……沈んだ」
「……」
ダニエルの顔から一切の血の気が引き、眼鏡がカチャリと斜めにズレた。
「私の……セレーナとの思い出が詰まった……あの愛車が……?」
「……すまん。俺がついていながら……」
「ジェラアルドーーーーーーーーーッ!!」
ダニエルの絶叫が王都中に響き渡った。
「三十歳の誕生日に愛車を海に沈められる男がどこにいる!! お前というヤツはぁぁぁぁ!!」
半狂乱でジェラルドの胸ぐらを掴んで揺さぶるダニエル。ジェラルドはぐうの音も出ず、大人しく揺さぶられていた。
「まあまあダニー落ち着いて! 追突した相手の過失だし、ジェシーだってわざとじゃないんだから!」
「落ち着けるか! 思い出の詰まった車なんだぞ!!」
誕生会は一転、地獄の修羅場と化したのだった。
深夜。
引き揚げ業者によって海から引き揚げられた魔導馬車は、もはやエンジンの死んだ廃車状態だった。
レッカーされて庭に置かれたボロボロの車を見つめ、ダニエルは一人、寂しそうに車体に手を触れた。
「……すまない、セレーナ。君と一緒に遠出した思い出の車だったのに……」
立派な大人になれているのかという焦りと、大切な思い出の品を失った悲しさで、ダニエルの肩が小さく震えていた。
そこへ、静かに歩み寄ってきた人物がいた。ジェラルドだった。
ジェラルドは無言で、海水から必死で守り抜いた『赤革のシートカバー』を丁寧に絞り、ダニエルの手元に置いた。
「……お前の三十歳の祝いに、ジョシュアと二人で買ったんだ。……車を守れなくて、本当にすまなかった」
ダニエルはシートカバーを見つめた。
ジェラルドの両手は、暴走する車を素手で止めようとした際にできた生々しい擦り傷でいっぱいだった。
「……ジェラルド。お前、その手……」
「……車に比べたら、どうでもいい」
ダニエルはハーブティーの入ったカップを差し出し、深いため息をついた。
「……バカ者。車は機械だ、買い直せば済む。だがな、お前が車に跳ねられて大怪我でもしていたら、私は一生自分を許せなかったぞ」
「ダニー……」
ダニエルは自作のハーブ軟膏を取り出すと、ジェラルドの手に丁寧に塗り始めた。宮廷医師の、温かく繊細な手だった。
「それにね……気づいたんだ。思い出は車という物の中に残っているんじゃない。セレーナが遺してくれたこの子たちや、お前たちと一緒に過ごす『今』の中にこそあるんだとな」
ダニエルは静かに笑った。眼鏡の奥の瞳には、もう焦りや迷いはなかった。
「ありがとう、ジェラルド。最高の……忘れられない三十歳のプレゼントだ」
「……ああ。次は、絶対に沈まない丈夫な車を買ってやる」
そこへ、リビングのドアが開いてジョシュアと娘たちがケーキを持って飛び出してきた!
「ダニー! 気を取り直して、三十歳の乾杯をやり直そうぜ!」
「パパ、お誕生日おめでとう!」
形は少し崩れたケーキと、ボロボロの車と、最高に温かい家族。
ハーフエルフのイケオジの三十代は、波乱と愛に満ちた最高のスタートを切ったのだった。




