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Part 44

 リリィが人伝(ひとづて)に辿り着いたのは、

かつての大帝国の栄えし荒涼たる大地であった。

はるか北西には先端を白に染めたユタニ山脈が見える。

6年前を思い出しリリィは唇を固く結んだ。

 町から数キロ離れた場所にある家屋。

ルドルフの邸宅と比べれば小屋と見紛うほどの簡素さで、

大小の石を重ねた塀で囲まれた小さな土地だが、中には家畜小屋と、

いくらかの豚や鶏が、木製の柵に囲まれながら呑気に散歩している。 

 リリィは壁に触れて内部を探った。

質素なベッドに男がひとり横たわっているだけで他の人間は視られない。

ベッドがもうひとつと乳母車があり、家族がいるようである。

彼女は腰に提げた拳銃の、銃把(グリップ)を覆う留め金を外し、

音を立てずに扉を開けて、家屋の中へと足を踏み入れた。

「……ビショップ」声をかけると、ベッドの上がモゾモゾと蠢き、

頭を起き上がらせた男がこちらに向いた。リリィは息を呑んだ。

「…ルネ・ビショップ…?」そして思わず、名前をもう一度呼んだ。

上体を起こすのも一苦労なほどに弱り果てて、頬の痩せこけた、

骨と皮だけも同然の男がそこにいた。

リリィは僅かに身を起こしたばかりの男に、憤怒の形相で歩み寄った。

「この野郎…」ヨレヨレになった男の寝間着の胸ぐらを掴み上げた。

「なんなのよ、そのザマは!」

リリィが顔を近付けても、男は驚きも、

胸ぐらを掴まれたことに対する怒りや怯えすらも表に出さず、

むしろ諦めにも似た悟りの表情を浮かべて目を閉じた。

リリィは怒りで滾らせた瞳で男を強く睨み、わし掴んだ手を震わせた。

「…ビショップは何処だ、どこに隠れてる!」

彼女の手が、男の首筋に伸びたが指先が触れることはなかった。

その身体に触れて、真実を視てしまうのが恐ろしかった。


「離れて」

声がしてリリィは振り返った。部屋の入口で、中年の女が銃を構えていた。

女の手の平に収まる程度の、護身用の拳銃ではあるが、

その持ち主の眼から、決して侮ることはできないとリリィは悟った。

彼女の視線が一度だけリリィの腰に移動し、そこにある銃を確認すると、

彼女は躊躇うことなく手元の拳銃の撃鉄を起こした。

しかし引き金に指は掛かっていない。

「もう一度だけ言うわ。彼から、手を放して」

呼吸はやや乱れ気味だが、優しく諭すような口調で、

争いごとを起こしたくないという気持ちが伝わってくる。

リリィは言われたとおりに、男から数歩、距離を取った。

「何も聞かないであげるから、今すぐ家から出て行って頂戴」

女も銃を構えつつ移動し、2人の立ち位置は逆転した。

リリィは部屋の入口で、女はベッド脇で立ち止まる。

「…その男に、ちょっと用があるだけ。本当よ」

「今なら、見逃してあげるから」女の指が震え出した。

「お願いよ」

真っ黒で無口な銃口は依然、リリィをしっかりと狙っている。


「リディア」男が、掠れた声で女の名前を呼んだ。

「その人は知り合いだ」

「え。で、でも…」

「大丈夫だから、それをしまって」

男と、銃口の先にいる相手を、眼だけを動かし交互に見て、

ようやく彼女は手に持った銃の撃鉄を倒し、銃を下ろした。

「久しぶりだな」

ふた回りほど歳を取ったように感じるが、

その顔はまさしくリリィの仇敵、ルネ・ビショップその人であった。

「子どもの成長は早いものだな」

「……嬉しくもなんともない」

お互い、6年前の、あの時の無言の対峙を覚えていた。

ビショップはクックッと喉を鳴らして肩を揺らした。

彼にとっては明るく笑ってみせたつもりなのであろうが、

それが空元気なのは目に見えて明らかであった。


 2人は対峙したところで、いがみ合うこともなく、

刺し違える覚悟でやって来たリリィはすっかり勢いを失い、

ベッドの横に置いた椅子へベッタリと座り、背もたれに背中を預けた。

「あの人は?」彼女は台所で料理の支度を始めた女を指した。

「嫁の、リディアだ」

ふとこちらに向けられる視線に感じてリリィが振り返ると、

部屋の入口から3歳ほどの顔立ちの幼児が顔を出して見ていた。

「あら…」

「あれは息子だ。もう3つになる」

ビショップは尋ねてもいないのに言った。

つぶらな瞳でじっと見つめてくるので彼女も見つめ返す。

「なんなのかしら、子どもって…」

「さぁね」ビショップは笑った。

「何を言うでもなく、黙って人の顔を見つめちゃって」

「だが、そこが魅力なのかも」

奇妙な沈黙は、幼児がリディアに抱っこされ連れて行かれるまで続いた。

「ちゃんと言ってなかったが…」彼は咳払いをして、

「キミの、お兄さんを刺したのは俺だ」

「そうね…」リリィは両手の指を組んで暫し黙った。

「私も、言うべきか迷ってたけど…」彼女は意を決して口を開いた。

「…ルドルフは死んだわ。ひと月ほど前に」

「そうか…」ビショップも驚かなかった。

ベッドの上で仰向けになり、天井を見上げたまま、

「『殺した』の間違いだろ?」彼はフッと小さく笑う。

「これで貴方は、最後の1人」

「なぁに。放っておいても、じきに…」

ビショップは肩を揺らすと突如苦しそうに咳込み、

内臓をひっくり返す勢いで激しく嘔吐(えず)きだした。

それを聞きつけたリディアがバケツを持って小走りでやってきて、

彼の顎の下に差し出すと、その丸く縮こまった背中を優しくさすった。

茶色い涎が数滴、彼の口からはダラダラと滝のように流れ落ちて、

続けて泥のような粘ついた液体を2度、3度と吐き出した。

 それは『黒溜(くろだまり)』と呼ばれる奇病で、

疾病者が真っ黒な膿を吐き出すことから名が付いた。

高熱と咳、筋肉痛、下痢や嘔吐に苦しみ、

やがて肺炎から呼吸不全を引き起こし死に至る。

感染症や呪術、亡国の秘密兵器など出所不明の噂は絶えず、

具体的な原因や対抗措置も曖昧なまま、

新旧大陸合わせて数千人が病に伏す状態が続いている。

リリィも情報は伝聞のみで実際に症状を目の当たりにしたのは初めてだった。

 ビショップは胸の前でバケツを抱え込み背中を震わせている。

嗚咽混じりの咳は耳に入るだけで背筋が凍えるほどで、

あまりの凄惨たる光景に彼女は顔を背けた。

「全部、出しちゃって」

「…すまない」

リディアから水の入ったコップを渡され、

彼は口の中をゆすぎ、眉をひそめながら数回うがいをした。

幾分落ち着いたのか安堵の溜息をついた彼であったが、

ヒュウヒュウと隙間風のような情けない呼吸音を喉奥から響かせており、

リリィも仇敵とはいえ、流石に彼へ憐れみを感じざるを得なかった。

「残念だったな…病気には勝てないよ」

呆然とする彼女に、ビショップは自嘲の笑みを浮かべて言った。

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